「消費者教育では」10月5日
『ヒットのカギ「Z世代」』という見出しの記事が掲載されました。『「Z世代」(略)その消費行動がヒット商品を生み出す源泉になっている(略)Z世代のあれこれを、専門家と一緒に探った』記事です。
その中に、気になる記述がありました。『どんな商品やサービスを利用しているかは、「自分らしさ」を表現する大きな要素。だからZ世代は自分がほしいと思った消費やサービスにはおカネをかけるし、時間も費やす』という記述です。
学校では、かなり以前から消費者教育が行われています。私も指導主事時代には、消費者教育を担当し、都教委が主催する連絡会にも出席していました。当時の消費者教育の狙いを一言で言えば、賢い消費者を育てるということでした。誇大広告やデート商法、無知につけ込んだ詐欺まがいの悪質な業者の見分け方といったことが主な内容になっていたのです。
当時の「消費」観は、必要なものを適正な価格で購入するといったものだったように思います。まだ、消費行動に「正しさ」といった価値観をもちこむ発想はなく、フェアトレードという言葉も普及していなかったので、必要性と品質と価格のバランスを取れた買い物を目的にしていたのです。
現在の消費者教育は、生産過程における環境保護や労働者の人権といった観点を取り入れたものになっています。消費者教育も進化し続けているのです。しかし、この記事を読むと、今の若者にとっての消費行動は、必要性と品質と価格という関係性、SDGsの視点だけではなく、「自分らしさの表現」という意味付けが加わっているらしいのです。このことを踏まえてえお、これからの消費者教育は、どのように扱っていけばよいのか、そういう疑問が浮かんだのです。
例えば、100人中99人の多数派が、1000円の価値もないと判断したボロボロのシャツを、一月分の月給全てをつぎ込んで購入するという消費行動を、消費者教育ではどのように評価して扱えばよいのでしょうか。自分らしさを表現した素晴らしい行動だと評価するのか、誰にも迷惑を掛けず、環境や人権面でも問題のない消費行動なのでご勝手にと突き放すのか、バカげた行動だと非難するのか、どうすべきかということです。私にはまだ判断ができません。現職の教員、特に消費者教育を研究している教員の皆さんはどう考えているのでしょうか。
余談ですが、旧統一教会の印鑑を500万円で購入する行為も、自分らしさの表現だと言えば、良いことになるのかという疑問も浮かんでしまうのです。
「微調整では無理?」10月2日
専門編集委員滝野隆浩氏の連載コラム『掃苔記』のテーマは、『老いは多様なのです』でした。その中で滝野氏は、『耳が遠くなった友人とは、文通することにした。手紙好きの仲間は指が不自由になって、電話でやりとりする。それぞれ体の衰えを抱えても、動く部分をつなぎ合わせて励まし合う(略)年を取ると「老い」という一色で塗りつぶされていますけど、実は「老い」というのはとっても個性的なものなのです』と書かれていました。
なるほどと思いました。老人ということで一括りにしてしまっては、実相は見えないということです。同じことは、学校教育でも言えるのではないでしょうか。実は今思い返してみると、私は相当変わった子供だったのではないか、という気がするのです。
私は、遠足や社会科見学、学芸会などの行事が大嫌いな子供でした。好きなのは国語や社会、算数など、教室で教員の説明を聞いている授業でした。だからといって決して頭がよく勉強好きな子供ではありませんでした。体を動かすのが嫌い、普段と違う新しいことをするのが嫌い、何かに参加することを求められるのが嫌い、という子供だったのです。授業が楽しいというわけではなく、毎日同じことをし、しかも受動的に臨めばよいという環境にいると安心して心が落ち着くということだったように思います。
私のような子供には、行事がつぶれてしまって可哀想ということは全く当てはまりません。むしろラッキー、という感じでした。おそらく、今でも私のような子供はいるはずです。子供だから、遠足が好き、外に出てワイワイやるのが好きというのは、大人の勝手な思い込みに過ぎないのです。老人が多様なように、子供も多様なのです。
学校生活で楽しいのは給食、という子供がいます。私は好き嫌いが多く、給食の時間が苦痛でなりませんでした。ところが、脱脂粉乳は好きで、当時を思い返し「脱脂粉乳は飲めなかった」という人がいるのを聞くと不思議な気がします。運動会の徒競走は、皆の前で恥をかく時間でしかありませんでしたし、水泳も嫌いで、どんなに暑い日でもプールに入りたいと思ったことはありませんでした。車酔いが激しく、バスでの校外学習の日は、真っ青になってゲロ袋に顔を突っ込み続けているという惨状でした。
では、運動会や遠足などの行事の日、水泳の授業のある日、給食で嫌いな鶏肉が出る日には学校に行けなくなるかというとそんなことはなく、何があっても学校に行くという習慣で、行きたくないとぐずったことはありませんでした。小中高大、欠席は2日だけです。
変な子供でしょう。おそらく、私と全く同じという子供は、100人に1人もいないでしょう。当たり前です。しかし私とは違う違和感を抱く子供、例えば授業中座っているのが苦痛、夏休みは給食がないから楽しくないというような子供もいたはずです。そんな多様な子供たちを50人近く一緒の教室に押し込んで、誰がつらい思いをしていようが、悩んでいようが、そんなことは我儘と切り捨てて、それを当然と割り切ってきたのが当時の学校だったのかもしれません。
しかし今はそうはいきません。一人一人の思いや願い、要望や欲求を尊重していくというのが、今の学校です。でも、よく考えてみるとそんなことが可能なのでしょうか。集団主義を基本に構想されてきた学校、同一年齢を同一学年とし、同じ教室にいることを強制し、同じ時間割で授業を受ける、理解が早い子供も遅い子供も授業の内容は同じ、そうした基本的な形をそのままにして、部分的な微調整を繰り返すことで、本当に多様性に対応した学校が実現するのか、ときどきとても懐疑的になる自分がいます。
「愛称でお願いします」10月1日
『薬剤師フルネーム名札 波紋』という見出しの記事が掲載されました。『町の身近な健康相談窓口である薬剤師が、自身の名札を見た相手からストーカーやカスタマーハラスメントの被害を受けるケースが相次いでいる』ことを受け、その実態と対応策を報じる記事です。
記事のよると、『2020年ごろを境に、ストーカーやカスハラの被害が急増。配置転換を希望したり、心身の不調で休職したり』する例があるとのことで、厚生労働省は、『従来、薬局や店舗の責任者に対し、薬剤師らは使命記載の名札を付けるように呼び掛けてきた(略)今年6月下旬、名札について「姓のみ」や「(ニックネームなど)使命以外の呼称」の記載を認めると呼びかけ内容を変更』したそうです。
考えさせられます。教員も、モンスターペアレンツや悪質なクレーマーに嫌がらせやハラスメントを受けることが珍しくなくなっています。教員も、公表するのを、「姓のみ」や「ニックネーム」にすることを認めるべきなのでしょうか。
教員の場合、氏名だけでなく、住所や電話番号、アドレスなども、実質的に保護者や子供に公表しているという実態があります。悪意のある第三者に対し、全く無防備であるといってもよい状況です。
私が教委に勤務していたときにも、卒業生が教委を訪れ、「○○中学の△△の住所を教えて」と言ってきたことがあります。理由はと尋ねると、「中学生のときにひどい目にあわされたから、殺してやりたい」という話でした。
これは卒業後のことでしたが、在校生でも、その保護者でも、あるいは何らかの事由で学校と接触があった住民などが、教員に対して不当な個人攻撃をするという想定は、決して絵空事ではありません。現実の、今そこにある危機なのです。しかも、ネット社会である現在、個人攻撃はとても簡単です。
例えば、「○○中学の△△は、教員の立場を悪用して、複数の女生徒と性的関係をもっている。ロリコン、変態教員△△の家はここだ」とネット上に晒してしまうのです。被害は教員の家族にまで及ぶでしょう。事実無根であることが証明されても、ネット上の嘘はいつまでも消せないのです。
新年度の担任紹介、「一組の担任は、ヨッシー先生、2組の担任は、ムーチャン先生」というような担任発表がなされ、氏名を知られないように、教員間でも、ヨッシー先生・ムーチャン先生と呼び合う、そんな学校はどうでしょうか。意外と近未来の現実かもしれません。
「そんなものでしょう」9月30日
人生相談欄で、コラムニストジェーン・スー氏が、『やりたいことが見つからぬ』という30歳男性の相談に答えていました。『自己分析、転職活動、一人旅、ネットや本での情報収集など思いつくことは試してみましたが、やりたいことが見つけられずにいます』という男性に対し、スー氏の回答が実に的を射たものになっています。
『「仕事でもプライベートでも、人生をかけて絶対やりたいこと、達成したいことが見つかる」人など、ほとんどいないと思います。私も見つかっていません。そもそも、探しておりませんが』。こう言い切ってくれると気持ちがいいですね。
さらに、『なんとなく時間が過ぎていくことが価値の低いことだとも思いません。やりたいことより、やらなければいけないことのほうが多いのが人生(略)目の前のことを一生懸命にやる以外、日々を充足させる方法を私は知りません。やりがいはその先にみえてくるものです』。全く同感です。
スー氏のような考え方、感覚はかつては多くの人がもっていたものでした。私の中学校のときの恩師のS氏は、苦学して夜間大学を卒業し教員になった人でしたが、「あなた方は社会のことも人間のこともまだよく知らない。よく知らないまま急いで何かになろうと思うのは危険。まず、中学生としてしっかり勉強し、高校生になったらそこでまたしっかり勉強する。そういうことが大事。真面目に勉強を続けていれば、いろいろな力がつき、何かこれを目指したいと思ったとき、その力が役に立つ」という趣旨の話をしてくれました。当時の大人は、子供にこう話しかけていたのです。
私は幼稚な方でしたから、基準にはならないかもしれませんが、多くの級友も、弁護士だとか、一流ホテルのコック長だといった具体的な将来像をもっているものは少なく、毎日を、それなりに中学生らしく過ごしていました。
今はというと、相談者の男性のように、やりたいことを明確にもち、それに向けて最短コースをわき目もふらず突き進むという生き方だけが尊いものであって、そうでない者は人生の失格者とでもいうような考え方に、多くの若者が「侵されて」います。その結果、本来ならば他人に迷惑を変えず、毎日を平穏に過ごせているだけで十分幸せであるにもかかわらず、不満や焦りを感じて生きていかなければならなくなっているのです。こうなってしまった原因の全てとは言いませんが、大きな要因が、間違ったキャリア教育にあるように思えてなりません。
確かスー氏は、アラヒフだったはず。やりたいことを探してもいないのに、実に充実した人生を送っていらっしゃるように見えるではありませんか。
「先生が先生を先生と」9月29日
『議員「先生」と呼ばないで 大阪府議会合意 上下関係防ぐ』という見出しの記事が掲載されました。『大阪府議会の各会派は28日、議員間で「先生」という呼称を使わないことで合意した』ことを報じる記事です。
記事によると、『府職員にも「先生」と呼ばないように求める(略)府職員との上下関係を生まないことが狙い。今後は氏名に「議員」や「さん」をつけて呼ぶことになる』ということでした。『「先生」は指導する立場の人に使う敬称』なので、相応しくないという判断のようです。
私が勤務していた某市でも、議員を「先生」と呼ぶことは禁止されていました。それ以前に勤務していた区では「先生」だったので当初は戸惑ったことを覚えています。それはともかく、私はこの記事で、教員同士の呼称について考えてしまいました。
私が教員になったとき、同じ職員室にいる人は皆「○○先生」でした。年長者ですし、いろいろと教えてもらう存在だったのですから、「先生」と呼ぶのが自然でした。おそらく、呼ばれている方も違和感を覚えることはなかったでしょう。
林間学校の朝、子供と食事をしているとき、先輩のS教員が「○○さん」と私に話しかけました。S氏は一つ年上の女性教員でした。子供たちは「○○さん、だって」と笑い、私を冷かしてきました。「先生」である私を「先生」以外の呼称で呼ぶということが、何か特別な感じがしたのでしょう。保護者も皆、私のことを「○○先生」と呼んでいたはずですから。
職員室というところは、よく考えると不思議なところでした。「○○先生」と言う声、「○○さん」という声、中には「○○ちゃん」などと言う声も混じって飛び交っているのです。特に誰をどう呼ぶかというきまりがあるわけでもなく、何となく人間関係の中で呼称が決まっているわけです。
しかし、そこに外部の人間、子供や保護者が入ってくると、彼らは教員同士の「さん」と「先生」の使い分けに戸惑うようなのです。端的に言えば、その使い分けの中に、教員同士の上下関係を感じ取って驚く、ということなのだと思います。自分の担任は「○○先生」と話しかけているのに、隣のクラスの担任は「○○さん」と口にしている、隣のクラスの担任の方が偉いのか?ということなのでしょう。もちろん、保護者も同じことを感じるのでしょう。
教員の世界は、「鍋蓋」と言われてきました。校長と副校長だけが管理職で、他は20代の若造も定年間近の大ベテランも、皆同じ「先生」だということです。それが、職員室での呼び方に反映されていたのだと思います。「課長」だ「係長」だといった階級でよぶことがなかったのですから。
今、主幹、主任など、教員の世界にも階級が設けられるようになりました。学校便りを見ても、従来は4月号で「職員の異動」でも、単に「○○教諭(△△小学校)」などと書かれていたものが、今では「主任教諭○○(△△小学校)」と書かれています。
子供の前で「○○主幹」などと呼んでいるのを聞き、子供はどう受け取っているのでしょうか。
「経済的合理性」9月29日
『営利目的の民間へ 学校施設開放提言 部活「地域移行」で経産省会議』という見出しの記事が掲載されました。経産省の有識者会議が『「地域移行」を巡り、活動を新たなサービス業として成長させるための提言をまとめた』ことを報じる記事です。
その中に気になる記述がありました。『教員が有償のコーチを兼業できるようにするといった指導者確保』という提言の内容についての記述です。私は、教員の多忙化を改善するという地域移行の趣旨からして、教員が移行後の部活に関わることに反対しています。このブログでも、再三訴えてきました。
しかし、スポーツ庁も文科省も、希望する教員には引き続き何らかの形で部活の指導に関わらせるという方向を変えていません。部活を取り巻く現状を知っているがゆえに、教員を指導者にという発想を変えられないのでしょう。
そこで、今回の経産省の提言を生かして、教員を部活の指導者とすることを断念させるための方法を考えました。それは、教員は部活指導のエキスパートである、ということを再確認するところからスタートします。実際、個々の生徒のことを知り、中学生という発達段階にある子供のことについて知り、その対応にも習熟し、部活の指導にも長年関わっており、保護者との対応にも慣れているのですから、エキスパートとすることに異論はないでしょう。
経産省は、サービス業、つまり産業として成長させようとしているのですから、経済原則に則って事業を進めるはずです。では、経済の原則に従えば、従業員を雇用するとき、エキスパートとそうではない者を雇用する場合、待遇、具体的には給与を変えるのが当然となります。つまり、顧問経験者である教員は高給で従事させるということです。
私の姪のつれあいは、民間のサッカークラブのコーチをしていました。そのクラブは全国大会で入賞するレベルで、多くの児童生徒が入会していました。つまり、民間のクラブとしては上の中くらいに位置すると考えてよいでしょう。彼は、中高とサッカー部に所属し、大学でも4年間サッカー同好会でプレーしていましたが、手にする給与は生活できない程度のものでした。彼は、少ない収入を補うために、小学校で図書館補助員のアルバイトをし、生計を立てていましたが、それも親元から通っていたから成り立つという状況でした。週4回、1回に4時間という勤務状況で、月収は15万程度という薄給、時給に直すと2000円ちょっとです。
ですから、エキスパートととして勤務する教員には、時給2500円~3000円は支払われなければおかしいことになります。そうなればどうでしょうか。各自治体が想定する教員への支給額とはかけ離れた額になるはずです。役所はおカネに弱い。現職の教員に指導を依頼すると予算が足りないということになって、教員の活用をあきらめることになるのではないでしょうか。
逆説的ですが、教員聖職論を排し、過剰なサービス労働を期待せず、部活を民間に委ね、経済の論理で運営する、そのことを徹底すれば、やがて教員は指導者を免れることができると思うのですが。
「私は勉強しているから」9月29日
『「教諭がいじめ」担任交代 児童「発達障害」決めつけ』という見出しの記事が掲載されました。『滋賀県野洲市の市立小学校で、学級担任が発達障害を疑った男子児童に対して不適切な言動を繰り返し、学校が「担任によるいじめ」と認めて交代させていた』事件について報じる記事です。
記事によると、『授業をさえぎって発言したり、よく質問したりする』という児童の行動に対し、『担任は数回にわたって「うるさいなあ」「スルーしよう」』などと言う対応をし、周囲の子供も「スルーしよう」と口にするようになっていったということです。そして、母親に対し『お子さんはADHDなので、早急に発達検査を受けるべきだ。そういう子に効く薬がある』などと話していたそうです。
言語道断です。記事にある通り、当該教員の指導力不足が最大の原因です。ただ、あまり報道されませんが、学校ではこうした「知ったかぶり」教員による不適切な指導は昔から頻発しているのです。背景にあるのは、学校教育に新しい概念が入ってくるときに、一部の教員が研究会や教育雑誌などで聞きかじった「新知識」を、他の不勉強な教員はまだ知らないけれど、勉強熱心な私はすでに知っている、という間違った優越感に基づいて「新知識」を振り回すという行動を取ってしまうことです。
不登校について、研究が始まったとき、登校を促さないほうがよいという考え方が注目され、不登校の子供に何も働きかけずに放置する教員が現れました。本人は最先端の正しい対応をしているつもりでしたが、保護者は不安に感じましたし、専門家は「不登校の原因にもよるが、初期段階での登校刺激は有効な場合がある」という見解を示していたのですから、その教員の対応は正しいものではなかったということになります。
また、成績を付け評価する立場にある教員には不登校対応は難しいという奇説が広まり、一部の養護教員が担任を排除した形で不登校の子供に対応し、かえって学校解決を遅らせてしまうという事例もありました。
また、LDという概念が伝わったときにも、従来の指導法は無効なので、本人が意欲をもつまで何も強制しないのがよいと思い込んだ教員が、当該児童を放置したままにし、かえってトラブルを増やしてしまうということもありました。
さらに、インクルーシブ教育の理念に賛同し、自らの学級に障害のある子供を受け入れることを校長に直訴したものの、単に健常児と一緒にいれば相互によい影響を及ぼし合うという抽象的なりかいしかなかったため、結果として一年間「お客様」として放置し、必要な発達課題を何一つこなすことができなかったという例も見てきました。
新しい課題、従来と異なる考え方について学ぶことは、教員にとって必要なことです。でも、半可通は弊害の方が大きいものです。新しい事柄について学びを深めながらも、その実践については、常に慎重に、専門家の知見を聞き、校長に相談して組織として進める、そんな慎重さが教員には求められているのです。
「教員の責任?」9月28日
専門編集委員の与良正男氏が、『本当の「コミュ力」とは』という表題でコラムを書かれていました。その中で与良氏は、『自分の考えをきちんと言い、相手の意見もしっかり聞くのがコミュニケーションだと私は信じて生きてきた。ところが最近は、余計な口出しをせず、場を乱さないのが「コミュ力」だと誤解されているフシがある』と書かれています。驚きです。
ただ、与良氏の指摘には、思い当たることがあります。それは、学校の授業、特に中高大の授業や講義に原因があるのではないか、ということです。文科省が、知識注入型の授業を否定したことで、近年は様々な工夫をして討論型、体験型、問題解決型の授業を目指す試みが増えています(まだ不十分ですが)。しかし、30年ほど前の中高の授業はそうではありませんでした。
このブログで何回か触れましたが、私は、全歴研という教員の研究団体で、小中高の教員が合同で同じ単元の授業を行い、問題点や改善点を学び合うという部会に所属して研究を行ったことがあります。
そのときの中高で授業を行った教員は、大勢の会員の中から選ばれたとても能力が高い実践家だということでしたが、彼らの授業を見て、とても驚き且つ呆れました。彼らの提出した学習指導案には、授業で取り扱う学習内容についての記述はありましたが、生徒がどのように活動するのか、ということに関する記述はありませんでした。
そして授業が始まると、教員がずっと説明をし続けるのです。そして、4~5分経つと、教員は話を止め、しばらく教室中を見渡します。そしてまた話し始めるのです。授業は基本的にこの繰り返しです。
生徒が、声を発する(ひそひそとした私語は除いて)のは、教員が「○○さん、3番の資料の説明を読んで」などと指示したときだけです。そして、生徒が「活動」するのは、配られたプリントを後ろに渡すときと、教員に「ここまでいいですか?書けましたか?黒板消しますよ」と言われ、慌ててノートに書きこむときだけなのです。
授業後の協議会で、「今日の授業では、生徒にどのような学習活動をさせる計画だったのですか」と問うと、「教員の話を聞くこと、ノートを書くことです」と堂々と言われてしまいました。そういう認識なのか、と私は唖然としました。
要するに、教員のお話のペースを邪魔せず、静かに、指示されたことだけをしているのが、真面目に授業に臨んでいるということであり、望ましい授業態度であるという認識なのです。これでは、教員の説明の途中で手を挙げて質問するのはもちろん、説明が途切れたときに質問することも、あるいは教員が「分からないところがありますか」と訊いたときでさえ、質問することは憚られます。教員のペースを乱すことになりますし、質問することは、教員に対し「あんたの説明は分かりにくいんだよ」と言っていると受け取られ、原点対象にさえなりかねないのですから。
これでは、「余計な口出しをせず、場を乱さないのがコミュ力」だと思い込まされてしまっても不思議はありません。与良氏は、こうした傾向は若者以外にも広がっていると指摘しています。長年の上記のような授業が、こうした人たちを育ててきたのではないかと思うと、慙愧の念に襲われます。
「どう教える?」9月27日
大学生が作る紙面『キャンパる』で、『大学生の恋愛・結婚観は?』というテーマで,
男女2人ずつが参加して行われた座談会の様子が掲載されました。その中で私が気になった発言がありました。
『恋愛・結婚において、自身の中で譲れない点を教えてください』という司会者の問いに対して、4年生の女性が答えた内容が気になったのです。彼女は、『私は価値観が合うことを大切にしたい。同棲など相手を知る時間を多くとり~』と答えていました。
私は、「同棲」に引っ掛かったのです。私が10代の頃、「同棲時代」というドラマが話題になりました。大学生になると、実際に同棲している友人もいました。それでも「同棲」は、親に隠れてするものであり、就職面接等では「同棲しています」などと言えば、不採用は決定的だという雰囲気でした。
婚前交渉などという言葉が生きていた頃で、特に女性にとっては、同棲歴は結婚においても支障となるものでした。さすがに現代では、同棲は珍しくもなんともないことになっているということは理解しています。しかし、やはり私たちの世代は、同棲とは世間様に向かって公言することではないという感覚の者が多いと思います。
私の姪が、交際相手の男性を連れて里帰りし、「とりあえず同棲して~」と言ったとき、義弟夫婦は猛反対し、すぐに入籍することを迫りました。おそらく、破局した場合、女性である娘が傷付く、結局は損をすると考えたのでしょう。その心情はよく分かります。
だからこそ、全国紙の紙上で「同棲して~」と口にする彼女に対し、「時代が違うんだな」と思ったわけです。そして何年か前に読んだ新聞記事を思い出したのです。記憶は曖昧ですが、少子化対策の一環として結婚する若者を増やしたい、そのためには若者が積極的に異性と交際するようにする必要がある、学校で男女交際に仕方、具体的にはデートでのマナーなどを教えるようにしてはどうか、という記事でした。
当時は半分笑い話のような感覚でしたが、コロナ禍もあり、出生数が想定よりも速いペースで減少している現状を考えると、学校で男女交際について教えるということが現実のものになる可能性は否定できないと思うのです。なにしろ、我が国では何でも学校で、という風潮が強く、本来家庭や地域社会で学ぶべきことも学校に担わせる傾向が顕著なのですから。
そうなったとき、「相手をよく知るためには同棲してみることが有効です」と教えるのか、という疑問が頭に浮かんでしまったのです。性教育同様、保守派からは反発がありそうです。実は、私も抵抗があるのです。古すぎるでしょうか。今の若い教員は、そんなこと自分たちもしてきたし、と何の抵抗感も抱かずに、「同棲を成功させるには、初めに共同生活のルールを作って~」などと話せるのでしょうか。想像もできません。
「上等な普通」9月26日
連載企画『わたしと学校』は、プロレスラー棚橋弘至氏へのインタビューでした。その中で棚橋氏は、『小さい頃の夢はプロ野球選手(略)高校入試では、トップクラスの合格だったものの、部活に打ち込み過ぎて成績は下降(略)部を引退後は毎日、朝まで勉強(略)大学受験の現代文対策で、本をたくさん読むようになったら、読書がとても好きに(略)物事を伝える仕事に興味が出て新聞記者を目指したのも、勉強のモチベーションに(略)野球選手、新聞記者、それから大学教授になりたいと思ったことも。結局、全部かなわず、体を鍛えてプロレスラーになった。でも、夢や目標は諦めながらどんどん変わっていい。そのときの努力は、いつかどこかでつながり、役に立つ』と語っていらっしゃいました。
久しぶりにこの欄で、「我が意を得たり」という記述に出合えました。私は、棚橋氏の生き方を、「上等な普通の生き方」だと思います。子供のとき、人は何らかの夢や目標をもちます。しかし、子供は社会のことも自分自身のこともよく知りません。その夢や目標はある意味「無知」が生み出したものとも言えそうです。それでいいのです。それが当然なのです。
棚橋氏も、『自分の実力ではプロ野球は無理だと分かり~』と書かれています。そして、受験など目の前の課題に取り組む中で、新たな夢や目標が現れてきます。その夢への挑戦が学びの原動力となり、新たな知識や能力を獲得していく、その過程で、また次の方向転換が訪れるのです。
しかし、新しい夢や目標に向かうとき、捨ててしまった夢や目標に向けて努力したことは無駄にはならず、知識も、努力を続けることができたという自信も、挫折して立ち直った経験も全てが、今の仕事、人生に生きてくるのです。
これって、私たちの時代にはごく普通なことでした。しかし、近年、キャリア教育の必要性が叫ばれ、職場体験などを繰り返し、早い時期から自分の将来像を描き、その実現に向けて必要なルートを設定し、その実現に向かって効率よく学んでいく、そんな生き方が奨励されるようになってきています。時間も労力も無駄がないようにというコスパ重視の生き方とも言えます。しかし、こうした生き方では、目標や夢の変更は挫折でしかなく、それまでの努力は無駄なものになってしまい、後悔の対象でしかなくなります。
そんな価値観は人を幸せにはしないように思います。もちろん、誰でもが、今プロレスラーとして大成功を収めている棚橋氏のような上等な人生を送ることができるわけではありませんが、普通の生き方の延長線上に上等な人生が待っている、と考える方が楽しいのではないでしょうか。
教員は、子供に将来就きたい職業は、と緻密な将来設計について問い詰めるのではなく、今の学びに意欲をもたせることに力を注ぐべきだと思います。