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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

どっちつかずの

2022-10-21 08:44:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「移行するときには」10月17日
 『特別支援学校は維持 障害者基本計画素案』という見出しの記事が掲載されました。『2023年度から5年間の障害者政策の方針となる「障害者基本計画」の素案』が有識者委員会に示されたことを報じる記事です。
 『国連の障碍者権利委員会は(略)日本への初めての勧告を発表し、分離教育の中止を求めていた』にもかかわらず、政府が『障害のある子どもがほかの子供と分かれて、特別支援学校などで教育を受ける仕組みの中止には踏み込まなかった』ことが記事の中心ですが、私は別のことが気になりました。
 それは、『障害の有無で分け隔てられることなく、可能な限り共に教育を受けることができる仕組みの整備を進める』ための対策として打ち出された、『全ての新規採用教員が10年目までに特別支援学校などでの指導を複数年経験するとした』という方針です。
 複数年というのは、3年程度と考えられます。つまり、通常学級の担任をする教員を、若いうちに3年間は特別支援学校や学級に勤務させるということです。この提言をした人は、教員であれば通常の学校でも特別支援学校でも、必要とされる能力・資質には、大きな違いはないと考えているように思われます。それは間違いです。
 私は、小学校の通常学級の担任として教員生活を送った後、教委に勤務し、特別支援教育の担当指導主事として、また人権教育担当指導主事として、特別支援教育学校や学級の教員や校長と接してきました。実際の指導を観察したり、子供たちと共に行事に参加したりすることを繰り返す中で、自分が経験してきた「教員の仕事」と彼らの仕事は大きく異なるものだと痛感させられました。
 仮に、新卒で小学校に2年間勤務し、その後特別支援学校に3年間勤務して、6年目にまた小学校に復帰するというケースを想定した場合、その教員は、教職6年目をほぼ新卒教員と同じ教員としての能力で迎えることになるでしょう。2年間で身に付けた通常学級の担任としてのノウハウは、3年間でほとんど忘れ去られ、また一から再スタートという意味です。そして、3年間で身に付けた特別支援学校の教員としての能力や知見は、仮に5年後(同一校での勤務年数は平均してこれくらい)特別支援学校の教員として赴任したときには、ほとんど役に立たなくなっているのです。
 拙著「教員改革」に示した通り、教員の仕事は職人芸のようなもので、頭で理解するものではなく、日々の実践の中で体に染み込ませていくものだからです。つまり、上記の方針は、通常の学校でも特別支援学校でも役に立たない、中途半端な教員を大量に育てるという失敗に陥ってしまう可能性が高いということです。鉄は熱いうちに打てという言葉がありますが、教員の仕事も、他の職人の仕事と同じように、柔軟な若いうちに集中してその勘所を覚えることが必要なのです。
 そしてもう一つ、頭に浮かんできた疑問があります。それは、将来的に特別支援学校という制度を廃止し、全ての子供が共に学ぶという学校制度に移行した場合、現在、特別支援学校で指導に当たっている教員をどうするのか、という問題です。
 障害のある子供もない子供も共に学ぶとなった場合、一つの学級には、障害のない子供の方が多くいることになります。ですから、現在、特別支援学校で指導に当たっている教員も、障害のない子供の指導について一定の能力をもつことが必要となります。障害のある子供の指導に20年の経験があるからといって、いきなり障害のない子供の20~30人の集団を動かしていくことはできないのですから。
 先ほどとは逆に、特別支援学校で指導に当たっている教員を、10年目までに通常の学校での指導を経験させる、ということになるのでしょうか。これも効果を上げることはないと思うのですが。
 もし、政府が本気で将来的にはインクルーシブ教育に舵を切るつもりがあるのであれば、今すぐ大学の教員養成学部をインクルーシブ教育を前提とした内容に変え、インクルーシブ教育モデル学校を各地域に置き、インクルーシブ教育学部を卒業した教員を配置して教育活動を展開し、その問題点を明らかにしてその後の施策に生かすという方策をとる必要があると思います。

 

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武器があるうちに

2022-10-20 08:45:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「武器のあるうちに」10月15日
 『子どもと大人 対等なバディー』という見出しの記事が掲載されました。『子どもと大人が上下関係のない“友達”に-。東京の非営利法人がその橋渡しに取り組んでいる』ことを報じる記事です。
 記事によると、『オランダで約40年続く活動で、子どもは親や教師とは別の信頼できる大人との関係を築き、親は自分の時間をつくることができる。参加した子どもにいい変化が見られたり、大人も新たな気づきがあったりと、それぞれ貴重な体験』になるそうです。
 具体例として、西田さん(26)と原田さん(9)の2人が、『1年前から月2回2時間、買い物や食事をしながら、一緒に過ごしている。西田さんによると「年は離れているけど同年代の友達と会っているのと変わらない「会うのが楽しみ」という小学4年の~」』が紹介されていました。
 とても素晴らしい取り組みだと思いました。そして私は、この取り組み自体とは別のある感想をもちました。『大人は現在紹介に限っている。子育て経験がない20~30代が中心』という記述に目が留まったのです。
 要するに、大人と言っても「若い人」が、友達候補だということです。これは、そうした年代の者の希望者が多いということでしょうが、同時に若者の方が、子供と「友達」になりやすいということも表しているのではないかと考えたのです。
 私はこのブログで、度々指導力不足教員のことを取り上げてきました。そこで述べたことの一つに、彼らの多くは、若い頃に指導力を高める努力を起こったってきたツケが、ベテランと言われる年齢になってから表面化したケースであるということでした。
 どういうことかというと、若いうちは、年齢が近いというだけで子供が親しみを感じてくれることが多く、それが指導力不足という事実を隠してしまい、自分は何とか教員としてやっていけているという錯覚を生むということでした。
 そのため、指導力を高めるために努力をしなければいけないという切実感を欠き、何となく自分を甘やかしているうちに、中堅と呼ばれる年齢になり、子供が自分と距離をとるようになって初めて、子供を理解できず孤立している自分を発見するが、すでに手遅れというパターンです。
 今回の記事も、大人の年齢と子供との距離感について、私の感じていることが正しいことを裏付けていると感じました。若さという武器があるうちに、将来その武器がなくなることを見越し、そのときに備えて、経験に裏付けられた確かな指導力というもう一つの武器を身に付ける。若い教員の皆さんはこのことを忘れないでください。

 

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ダメおやじ?

2022-10-19 11:25:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「真意は?」10月13日
 専門記者田原和宏氏が、『オシムさんの教え』という表題でコラムを書かれていました。その中に気になる記述がありました。『指導者を目指す教え子にこう説いたという。「私のコピーをするな。オリジナルのサッカーを作れ」』というオシム氏の言葉です。
 オシム氏は、『調教師を語源とする「トレーナー(監督)」ではなく、教師を意味する「フットボール・ティーチャー」と呼ばれたがった』そうですから、「私のコピーをするな」という言葉は、教員についても当てはまると考えてもよいと思います。
 そうだとして、オシム氏の「私のコピー~」発言の真意は何か、と考えてしまったのです。私は、教職は職人芸であり専門職だと考えています。ですから、初めは良きお手本の模倣から入るべきだと考えています。つまり、この先輩はできる教員だ、自分もああなりたい、という思いを抱き、拙いながらもその先輩の授業や学級経営、子供との接し方を真似してみるところから教員生活をスタートさせるのが望ましいということです。
  私にもそうした先達がいました。このブログでも再三登場している目賀田八郎氏です。元々の能力に違いがあったからでしょう。目賀田先生のようにはなれないまま、教員生活を終えることになってしまいましたが、先生を目標にし、その背中を追いかけたことによって、なんとか大きな問題もなく教員生活を終えることができたのだと考えています。
 もちろん私も、誰かのコピーになるのが良いことだとは思っていません。守破離という言葉がありますが、「守」の段階を踏むことによって基礎が築かれ、その土台がしっかりしているからこそ、その後の「破」の段階や「離」の段階、師の教えを破り、師の教えから離れて自分のオリジナリティを確立することが可能になると考えているのです。
 オシム氏の「私のコピー」発言は、この守破離の考え方に沿って、「離」に至れという意味なのか、そもそも「守」すら不要と言っているのかが、気になったのです。
 近年、学校には様々な教育課題が持ち込まれています。小学校における英語教育、ICT教育など、ベテランと言われる教員が、上手く適応できず、早期退職を選択する者も増えています。そうした「無能」なベテランたちを見て、若い教員が、自分たちにはモデルとなるような存在がいない、と考えるようになっているのではないか、別の言い方をすれば、ベテランが積みあげてきた経験や実践を古臭いものとして軽視する雰囲気があるのではないかと案じているのです。
 教員の世代間の貴重な経験継承がうまく機能していないのではないか、それが杞憂であればよいのですが。

 

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ぼかしを入れても、モザイクをかけても

2022-10-18 07:40:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「無理な注文」10月13日
 『保育所 消える園児写真』という見出しの記事が掲載されました。『子供たちが日常生活を送る保育所では、写真の情報流出に敏感になっている。変わる現場を追った』記事です。
 記事では、『神戸市内全57カ所の公立保育所では(略)「おたより」を紙での配布からデータ配信「よい子ネット」に切り替えた(略)最大の変化は、子供たちの写真が消えたことだ。市はネット上で転載される可能性を考慮し、「よい子ネットには、子供の写真を一切掲載しない」との方針を決めた』という事例が取り上げられていました。
 さらにこうした現状に対し、『潤いのようなものが消えた』『家庭では見られない友達と過ごす子供の表情をスマホで気軽に見たい』などの声があることを紹介し、中央大学教授岩隈道洋氏の『家庭ごとに(個人情報への)感覚は違うが、保護者の希望や意見をくみ取った上で、保育所と保護者の双方が納得のいく形で、肖像(写真)の提供が行われるような意見交換や話し合いがあるのが望ましい』という見解を伝えていました。
 岩隈氏のおっしゃる通りです。でも、実際には保育所にとって、あるいは市当局にとっては、難しい注文だと思います。この問題は学校においても起こっています。もし、そこで、学校便りや学級通信について、写真掲載をどうするか保護者の希望を聞く場を設けたとするとどうなるでしょうか。
 一つの結論にまとまる可能性はごく僅かです。岩隈氏も書かれているように、家庭によって感覚が異なるからです。より正確に言えば、家庭内でも保護者の間で意見が違うというケースも多いと思われます。
 そうなれば、結論は、家庭ごとに掲載を望むか望まないか届け出て、学校はそれに応じるという方法が妥協案として採用されることが考えられます。これは、学校にとって膨大な作業が生じることを意味します。上述の保護者の声にもあったように、「家庭では見ることができない、友達と過ごす」場面を見たいというのが要望なのですから、4人の子供が写っていて、そのうち2人は写真掲載派、他の2人は掲載拒否派などのケースが頻発することになります。遠景であれば、登場人物が多くなり、もっと複雑になります。現実的ではありません。
 さらに、掲載を求める家庭と拒否する家庭が、6年間そのままとも限りません。途中で意見が変わることもあり得ます。そうなると、毎回、「この子の家はどっちだっけ?」と確認する作業が必要となり、煩雑さが増します。
 それでもここまでは受け入れるとしても、もっと厄介な問題が残ります。写真の掲載を望んでいた家庭の子供が、写真を掲載したことにより何らかの事件に巻き込まれたとします。保護者は、子供の安全について多くの情報をもつ教委や学校が、写真掲載の危険性をきちんと説明してくれなかった、きちんと説明があれば写真掲載を許可しなかったと訴えてくる可能性が高いのです。いくら丁寧に説明していたとしても、です。
 こうしたことを勘案すれば、結局、写真は不掲載という方針が広がっていくのは当然なのです。まして、画像を鮮明に解析する技術は今後ますます進歩するでしょうから、小さな写真でも、マスクをしていても、ぼかしを入れても、子供の顔がわかるようになってくることが予想されます。学校はガードを固めざるを得ないのです。嫌な時代になりました。

 

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書籍で学ぶ

2022-10-17 07:56:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「限界」10月13日
 連載企画『日中50年 識者に問う』は、中国社会科学院日本所長楊伯江氏へのインタビューでした。その中で楊氏は、『民間交流の健康的で安定的な発展が、これから50年間の中日関係の重要なカギ』と述べ、『現在は新型コロナの影響で難しいが、いずれは正常に戻るだろう。両国の若い世代に、本やニュースで見た中国、あるいは日本とは違う本物の姿を見てほしい』と語られていました。
 政治的に問題が起こらないように配慮された当たり障りのないコメントです。それは別にして、私が気になったのは、日中間のことではなく、楊氏の言葉の最後の部分です。「本物の姿」とは何か、ということです。
 楊氏は、実際にその国を訪問して、その目で直接見ることによって、本当の姿が分かると言っています。多くの人が同じようなことを言います。百聞は一見に如かず、という諺もあります。でも私は、そのことは真実なのかという疑いを捨てきれません。
 中国については、専門家が様々な資料を使って、政治的、経済的に分析しています。歴史学者は歴史的な事実に則って、社会学者はアンケートや調査結果、秘かに保持してきた人脈を基に、そして軍事の専門家は、表には出ない隠れたデータや諸外国の情報機関が得た情報を基に、それそれの中国像を描いています。
 中国について、ガイドブックを読み、簡単な中国語の日常会話を覚えた程度の若者が、1週間か10日間、北京や上海など有名な都市や観光地を見て回り、中国人と片言の会話をしたとして、上記の専門家が描くような中国像に迫ることができるとは思えないのです。つまり、本物の姿を捉えるのではなく、表面的なごく一部を見て、分かった気になるだけなのではないか、ということです。
  私がこう考えるのは、何も日中関係に限ったことではありません。社会的事象にしろ、自然事象にしろ、とにかく実際に見るということを過剰に評価する傾向に疑念をもつのです。こうした現場主義は、従来の学校での学び、どちらかと言えば書物主義ともいえる授業を否定しがちです。教室に閉じ籠っていないで、外に出て直接見て触れてみよう、という学びこそが真の学びだとする発想に結びつきやすいのです。
 しかし、教科書や図書室にある「書物」は、先人が長年積み重ねてきた学びの成果が集約され、分かりやすく再構成されたものであり、そうしたもので基本的な知の枠組みを効率よく構築するということは、とても大切だと思うのです。そしてそれこそが、学校という制度の得意とするところであり、長所でもあるのです。
 従来の学校が書物で学ぶことに偏り過ぎていたことは確かです。しかし、何でもかんでも書物から学ぶことは時代遅れとすることも間違いであることをきちんと認識しておく必要があります。

 

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私はしたい、でも彼にとっては?

2022-10-16 08:42:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「共に学びたい」10月11日
 オピニオングループ小国綾子氏が、『「ともに生きる」を探して』という表題でコラムを書かれていました。その中で小国氏は、『養護学校の義務化』について取り上げ、『80年代後半、大学生だった私が一番悩んだのがこの問題(略)担当教官は義務化を推進した中心人物。私は「わける教育」だと反発し(略)自問した。「ともに生きる、って何だろう」結局、担当教官に正直に伝えた。「私は障害のある人とも一緒に学びたいです」。それからしばらく学校を休学し、悩んだ末、専攻を変えて卒業した。教師の道をあきらめ、新聞記者になった』と書かれていました。
 お仕着せではなく、自分で事の是非を考える真面目な学生だったことが分かります。しかし、一つだけ気になったことがあります。それは、「私は障害のある人とも一緒に学びたい」という思いについてです。この文章の主語は「私」です。私の視点、私の立場で書かれてものだということになります。
 私は教委に勤務し特別支援教育の担当になって、多くの教員と語り合ってきました。そのとき、大きく分けて2通りのタイプがあることに気がつきました。自分(教員)の視点で話す人と、子供(特別な支援を必要とする)の視点で話す人です。
 前者はよく言えば理想主義者、理念先行型の人でした。同じ人として~、誰もが自分の望む場で学ぶ権利が~、というような言葉が口をついて出てくるのです。一方、後者は実践主義者といえます。自分の教え子の誰かを頭に思い浮かべ、○○君は入学してきたとき△△だったけど、2年生になると□□ができるようになって、と語るのです。
 そして前者は、共に学ぶ環境を整える必要があるとし、世間に対し、行政に対して「もっと~」と多くの要望を口にしました。後者は、言葉が遅い子供には~、集団に馴染めない子供には~、と具体的な場面や子供の様子に応じた指導法や言葉掛け、向き合い方ということを話題にすることが多かったのでした。
 もう四半世紀も前のことです。今では、特別な支援を必要とする子供を取り巻く環境も変わってきていますから、当時の感じ方がそのまま通用するとは思いませんが、当時の私は後者により多くの共感を感じました。
 今、目の前にいる子供、Aさん、Bさん…という一人一人の現状と発達課題を見極め、今できる教員として最善のことは何かを追求する、それこそが教えることの専門家としてのあるべき姿だと考えていたからです。それに比べて、前者は、教えるという専門性を磨く努力が十分でないまま、制度改革にのめり込む活動家という印象を抱いてしまったのです。
 特別支援教育の充実のためには、どちらのタイプも必要であり、それぞれが果たす役割があるのかもしれませんが、教員はまず、今目の前にいる子供のどんな能力を身に付けさせてやることができるのかを第一に考える存在であってほしいと思います。それは、子供の視点で、「去年はできなかった○○ができるようになった」という成長を第一に考えるということでもあります。
 

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本当に困りますね

2022-10-15 09:15:14 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「健康教育も?」10月6日
 精神科医和田秀樹氏が、『メンタルヘルス もっと重視を』という表題でコラムを書かれていました。その中で和田氏は、『日本の健康第一主義というのは、メンタルヘルスをないがしろにする傾向がある』と指摘し、『健康診断で一つでも異常値があると、それを矯正するような生活指導や投薬が行われる。多くの場合、それには我慢が伴う(略)食べたいものや好きなお酒も飲めず、だるいのも我慢していれば、メンタルヘルスに決していい影響は与えない』と説かれていました。
 さらに、メンタルヘルス軽視→ストレス増→NK細胞活性低下→がん細胞増という図式を示したうえで、『健康第一主義で我慢生活をしていて、免疫が落ちてがんで死んだら元も子もない』とまでおしゃっているのです。これはあくまでも特殊な例でしょうが、『82歳で肺がんの診断を受けてたばこをやめたが、それでうつ状態になり、タバコを復活した。それが免疫機能を上げたのかその後10年生きて~』というとんでも事例まで紹介なさっているのです。
 困ってしまいますね。以前、消費者教育について、従来とは消費行動の価値づけが異なってきていることで、指導の在り方が難しくなっていることを指摘しました。今度は、健康教育です。
 たばこは止めましょう、お酒は控えましょう、高血圧にならないために塩分は少なめに、肥満は危険因子ですから糖分や脂肪分の過剰摂取はいけません、と指導してきたのが、従来の健康教育です。
 それなのに、和田氏は、そうした禁欲的な生活はストレスを高め、免疫機能を低下させると言うのです。私も、40歳のとき、体重が73kgになり、高脂血症だと診断されました。それ以来、酒を断ち、昼食はサラダと冷奴という生活に耐え、50㎏台にまで体重を落とし、それでも老化と共に中性脂肪や悪玉コレステロールの数値が上がり始め、今は○○タチンを毎日服用しています。鬱陶しいです。こんな生活を止め、好きな酒を飲み、好きなとんかつを食べ、食後には好物のケーキやアイスクリームを食べて、ストレスを解消して、健康長寿を手に入れられるなら、今すぐ酒屋に走ります。
 でも、そんな暴挙に手を染めたら、すぐにも救急車で運ばれてしまいそうで、怖くてできません。そういう人は多いでしょう。それが常識というものであり、その常識は、健康について学ぶことによって得たものです。
 それが間違いであるというのであれば、これからの健康教育は、どうすればよいのでしょうか。毎日を楽しめ、健康診断の数値なんか気にするな、酒もたばこも、飽食も夜更かしも気にせず好きなことをして免疫機能を上げろ、とでも教えるのでしょうか。本当に困りますね。

 

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お気に入り

2022-10-14 08:42:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員と良い子」10月5日
 ナレーター近藤サト氏が、『聞き手には公平無私を』という表題でコラムを書かれていました。その中で近藤氏は、『私が過去に行ったインタビューの中には、それが友好的なものであっても、「誘導したい方向での受け答え」や「この人なら意図をくんでくれるであろう希望的観測」がありました(略)一方、被取材者側にも「こういうことを話せばいいんでしょう?」という暗黙の了解のようなもの』があったと書かれています。
 そうでしょうね。そんなやりとりはテレビの情報番組やバラエティー番組で毎日見ることができます。そうした一種の約束事を理解し、相手の思いに忖度できる人が「使える人」と評価されているように思えます。テレビは、それでよいとして、同じことが学校で、教室の中で起こっていることには留意すべきです。
  授業中、教員が子供に向かって問いを発します。複数の子供たちが挙手をし、答える意思を表します。教員は誰を指名するか。力のない教員は、適当に指名します。誰を指名するか、自分自身基準をもっていないからです。
 少し力のある教員は、自分の意図をくんでくれる子供、「先生が期待しているのはこういう答えだよね」と理解している子供を指名します。その子供の発言によって、授業が教員の意図した方向に展開していくからです。そうした発言をしてくれる子供は「良い子」であり、教員のお気に入りになります。
 何人かの「お気に入り」をもつ教員は、授業の上手い教員と言われるようになります。教員主導の押しつけ型ではなく、子供の発想を生かした子供主体の授業ができる教員という評価を得ることができるのです。確かに、見た目は子供の意見で授業が進み、学級として妥当な結論に到達したように見えるのですから。
 しかし、そうした授業は、子供が本当に感じた疑問や思いが生きた授業ではありません。「良い子」は教員の意図を察することに神経をすり減らし、「良い子」ではない子供は、授業への参加意欲を減じてしまっているのです。そうした子供たちは、授業とは自分の感じたことや考えたことを発言する場ではなく、教員の期待していることを言う場だと認識してしまっており、そこに胡散臭さを感じているからです。
 本当に力のある教員は違います。彼らは、どのような子供の発言も、同じように受け止め、評価し、授業の中に生かそうとします。むしろ、自分が想定していた範疇を超えたとんでもない発言に対して、驚き、感動し、興味を示し、そうした教員自身の受け止めを他の子供たちに伝えようとします。それでこそ、予定調和を脱した学ぶ喜びが可能になることを知っているからですし、一見、教員の予定から逸脱してバラバラになってしまったようにみえる授業の展開を、再び当初のねらいに沿って再構築する自分の力量に自信をもっているからでもあります。
  そんな教員になりたかったものです。

 

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信教の自由に抵触するが

2022-10-13 07:53:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「信教の自由に抵触するが」10月5日
 『僧侶と対話 企業で導入』という見出しの記事が掲載されました。『産業僧』という新しい試みについて報じる記事です。発案者である浄土真宗本願寺派僧侶松本紹圭氏は、『産業医ってありますよね。そのお坊さん版です』とおっしゃっています。きっかけは、『「僧侶を会社に派遣できないか」という米国の友人からの依頼』だったそうです。
 『企業から依頼を受け、社員一人一人が僧侶とオンラインで話す時間を持つ(略)特徴は、目的や意図のない対話だ。家族や仕事、やりがいや愚痴、内容は何でも構わない。語るうち、僧侶の聴く力で話が深まり、心理面への好影響が期待される』ということでした。
 「産業僧」を導入した企業では、『「もう一度話したい」「もっと時間が欲しかった」など、肯定的な意見がほとんどだ』そうです。面白い試みだと感じました。学校に導入することは可能だろうかと考えてみました。
 私立校なら問題ないでしょう。特に仏教系の学校であれば。しかし、公立校の場合、宗教とのかかわりは慎重でなければなりません。子供を対象に行うことは無理だと思います。しかし、教員を対象に行うことは不可能ではないかもしれません。
 松本氏は、『目標などの「荷物」を背負い過ぎた社員が倒れたり、背負うことができていても視野が狭くなったりする。意図なき対話は、荷物を下ろしてもらう時間です』と語っていますし、企業の社長も『不満でも怒りでも、信頼できる誰かに吐き出したいと思うことがある。産業僧はそれを担う役割』と話していらっしゃいました。
 今、教員も多くの「荷物」を背負わされています。「荷物」の重さが教員志望者を減らしているとも言われています。教員のメンタルヘルスの一環として、「産業僧」は検討の価値があるかもしれません。
 スクールカウンセラーが導入されたとき、彼らは教員の相談相手にもなると想定されていました。しかし、教員が同じ職場のSCに悩みを打ち明けることは少なかったのです。それは、SCというものに対する理解不足の面もありましたが、やはり「相談」ということがネックになったのです。「相談」というと、何か明確な困りごとがあり、その対処の仕方についてアドバイスを得るというイメージが強かったのでしょう。
 しかし、教員が背負わされている「荷物」は、具体的に「こういう問題で困っています」というよりも、何となく心が曇りの状態という方が近い場合が多く、「産業僧」の「意図なき対話、何でも構わない」が効果を上げる可能性があるのです。また、意図なき対話の場に身を置くことは、教員自身が子供の意図なき対話の聞き役になる能力を身に付けることにも通じるのではないでしょうか。
 でも、実現しないでしょうね。

 

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犬は嫌いだけれど

2022-10-12 08:24:15 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「犬は嫌いですが」10月5日
 『BOOK WATCHING』面の新刊コーナーで、獣医行動診療科認定医奥田順之氏著『犬の問題行動の教科書』(緑書房)が紹介されていました。そこには、『犬の問題行動は、犬だけの問題?-それは「愛犬家らのメッセージです」(略)良い行動も悪い行動も、全て飼い主と犬の相互作用で生まれる。愛犬の気持ちが分からない時は、犬も飼い主の気持ちが分からなくなる』と書かれていました。
 お叱りを受けるかもしれませんが、犬を子供、飼い主を教員と読み替えてもそっくりそのまま通用すると思いました。
  未熟な教員は、子供が思うように行動してくれないとき、つい子供を責めてしまいがちです。自分はきちんと教えたはずなのに、と思い、原因を子供側に求めてしまうのです。ちゃんと話を聞いていないから、やる気がないから、バカだから、などと心の中で子供を非難してしまうのです。
 しかし、それを「子供からのメッセージ」として受けとめれば、その教員は成長します。つまり、「先生の説明は、長くて分かりにくいよ。使っている言葉も難しいし。それに声も小さくてよく聞こえない。早口も止めてね」というメッセージだと捉えれば、次の機会には、意識して改善することができるということです。
 また、教員が、「こいつら何を考えているんだ」と感じているとき、何とかして子供のことを知ろうとするのが、一般的な教員の反応です。しかし、一見まともなこの反応も、見方を変えれば、自分のことだけに意識が向きすぎているとも言えます。それでは、出口のない袋小路にはまり込んでしまいます。
 そうではなく、「今、この子たちも、私がどう考え、どう感じているか分からずに戸惑っているのかもしれない」と考えてみることで、違う視野が開けてくるかもしれません。子供の側から見てみるということです。
 「先生はみんなに~なってほしいと思ってきたんだ。だから、今日も~という話をした。そうすれば、みんなは~してくれると思ったから。だけど今、君たちは~している。先生は、少し悲しい気持ちなんだよ」というような語りかけができ、それが子供に別の行動を取らせることにつながるかもしれないということです。
 日本に13人しかいないという「獣医行動診療科認定医」の方に、一度お話を伺ってみたいものです。研修会の講師として。

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