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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

悪い報告の受け止め方

2020-11-10 08:21:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「末端の悲劇」11月6日
 『教員の勤務記録 土日は削除指示』という見出しの記事が掲載されました。『滋賀県日野町の教育委員会が町立小中学校に対し、教員が土日祝日に出勤した際の勤務記録を削除して町教委に提出するよう求めていた』ことを報じる記事です。つまり公文書改竄指示です。
 記事でも触れていますが、背景には、『4月に施行された改正教職員給与特別措置法は残業時間の上限を月45時間、年間360時間と指針で定めている』ことがありそうです。同町教委教育次長は、『教員の残業時間を県教委に報告しており、上限超過を避けるため安易な指示をしてしまった』と言っているのですから。
 記事には詳細な指示の様子が書かれていますが、読んでいて胸が痛みます。この記事には、国会、文科省、都道府県教委、区市町村教委、校長、教頭という教育行政の流れの最末端に位置する教頭の悲哀が表れていると思うからです。
 学校教育に関心のある政治家の皆さんは、多忙化の果てに教員が疲弊しきってしまう状況を避けなければならないという「善意」で、法改正に取り組まれたのでしょう。文科省も同じ思いを共有し、法の実施主体となる都道府県教委に通達し、都道府県教委は自らが所管する高等学校や特別支援学校の校長に指示するとともに、管下の区市町村教委に通知し、きちんと取り組まれているかを把握するために現状報告を求めたのです。そして、区市町村教委は各小中学校の校長に、教員の働きすぎを防ぐべく努力するよう指示し、結果をまとめて都道府県教委に報告することを告げたのです。
 現状報告ですから、学校現場の実態からして無理があるのであれば、そのまま報告すればよいのです。報告は学校から区市町村教委へ、そして、都道府県教委へ。都道府県教委は上がってきた報告をまとめて文科省へ報告、文科省は報告を精査し、現状では法改正の趣旨を徹底することは難しいと判断し、新たに状況整備を考え、必要な予算措置をし、国会に働きかける、というのが正しい教育行政の在り方です。
 しかし実際には、そうはなりません。上限を超えて教員が超過勤務をした学校は、校長の管理能力が問われますし、区市町村教委は都道府県教委から責められます。都道府県教委は文科省に追及されてしまうのです。もちろん、区市町村、都道府県それぞれの議会でも教委と首長は追及されますし、教委は首長からも叱責されます。
 そこで、表面上つじつまを合わせるため、改竄に手を染めてしまうのです。おそらく、文科省の担当者も、都道府県教委の担当者も、区市町村教委の担当者も、そして校長も、現状を知っている者はみんな、「全ての学校でこの上限に収めるのは無理だな」ということを法改正時に知っているはずです。しかし、そのことを大きな声では言いません。過去の経験から、そうした声をあげることは法改正に反対する行為とみなされてしまうことを知っているからです。行き着く先は、法が改正され調査が入ったとき、何らかの虚偽記載をしてその場をごまかすことになると察してしまうのです。
 そして実際に改竄をするのは、最末端にいる教頭であり、改ざんを指示するのは区市町村教委の担当課長なのです。私もそのポストにいたことがあります。私もこうした状況下では、嘘も方便と改竄を指示していたかもしれません。都教委から「23区、26市の中であなたの市だけが~」と言われるのは辛いですから。自分はともかく、教育長や市長の顔が浮かんでしまいます。それが組織の一員の悲しき性というものです。
 ここにも忖度があるのです。実態調査は、「上」が、悪い結果を制度への忠告、注意喚起として受け取るくらいの姿勢を示して行うことが必要です。

 

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ごめん、大人の都合で

2020-11-09 07:35:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「せめて自覚を」11月6日
 『大規模施設 一転存続』という見出しの記事が掲載されました。宮城県の例に、知的障害者入所施設にかかわる政策の変移と現状及び問題点について報じる記事です。知的障害者については、大規模施設への入所から、地域で暮らすという方向性が打ち出されていますが、なかなか進んでいません。
 記事では、元宮城県知事で、大規模施設から地域へという宣言を出した浅野史郎氏の言葉が紹介されていました。浅野氏は、『「地域に出せない」という言葉は、どこまでも周囲の視点だ。施設にいる方が本人のためだと考える人には、自分が同じ立場ならどうか問いたい。何十年、あるいは一生涯を施設で生きることが本当に幸せと言えるのか。家族や支援者の都合ではなく、障害のある彼ら彼女ら本人の人権や人生を考えなければいけない』と語っていらっしゃいました。
 私も、両親が認知症を患い、家では見きれず、父は特養に、母はグループホームに入所させました。とても悩み、迷いましたが、自宅で世話をすることは共倒れになると考え、決断しました。父や母がどのように感じていたかは分かりませんが、喜んではいなかったはずです。私もずっと罪悪感のようなものに苦しめられました。ですから、地域や自宅でという理想も、施設で預かってもらってほっとしたという思いも両方理解できます。浅野氏の言うことはよくわかるのですが、浅野氏の理想を現実を知らないと非難する側の人の気持ちも理解できてしまうのです。
 ここで話は変わりますが、子育てにおいても、浅野氏が指摘する、周囲の視点、家族の都合という問題があるように考えています。例えば、保育園選びについて言えば、保育園に入れるか自宅で面倒を見るか、どこの保育園に入れるか、何時まで預かってもらうか、保護者の視点からの決定であり、保護者の都合である部分が大きいのではないでしょうか。
 学校に通うようになっても同じです。本当はこうした方が子供のためにはよいと思うけれど、実際には仕事や経済的な問題などによって、子供に次善、三善の環境しか与えてやれないということは、ほとんどの保護者が経験しているはずです。私は教員を経て教委に勤務した者、つまり学校側の人間でしたから、子供第一主義の視点で保護者に要望し、説得してきました。しかし、若いころはともかく、経験を重ねるにしたがって、理想論を振りかざしても、それぞれの家庭の事情があるのだと思うようになりました。
 築30年の6畳一間のアパートに住む父子家庭の子供がいました。父親は夜勤が多く、子供とはすれ違いの生活でした。子供はいつも同じ服を着て、その服も汚れていました。中堅に差し掛かっていた私は、その父親に、もっと子供の様子に目を配りましょう、いつも汚れた服では友人関係にも悪影響があります、親子で語らう時間を取って子供理解を深めましょう、朝食をきちんと摂らないと学習に身が入りません、などという正論を吐いても意味がないと考えるようになっていました。
 子育ては理想ではなく現実の問題なのですから。ただ、保護者には、自分が、自分の都合で、子供に今の状況を強いているということだけは自覚していてほしいと思っていました。それは、自分を責めるということではなく、子供が何か問題を起こしたとき、「なんでこんなことをしたんだ!」と怒るのではなく、子供が抱いている苦しさを共有するために、です。
 子供が何かしでかしたとき、相手が悪い、世間が悪い、制度が悪い、と責任転嫁して逃げるのではなく、「お父さんが悪かった。寂しい思いをさせたな」と言える親であるために、ということです。保護者は、子供に対して少し「引け目」を感じるくらいである方が、子供の立場に立ちやすいように思います。もちろん、教員も。

 

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保守もリベラルも

2020-11-08 08:29:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「保革を問わず」11月4日
 専門編集委員与良正男氏が、『立憲は選択肢となるか』という表題でコラムを書かれていました。その中で与良氏は、立憲民主党党首枝野氏の国会での代表質問に触れ、『「ある時期までの私自身を含め、政治は競争と効率、そして民営化を掲げ、小さな政府を追い続けてきた。しかし、こうした新自由主義的な社会のあり方が本当に正しいのかが突き付けられている」公務員をたたけば人気が出ると安直に考えていたのだろう(略)私も大きな顔はできない。マスコミも役人は減らすほどよく、公的機関の民営化が万能であるかのように報じてきたのだ』と述べられています。
 漸くここまで来たか、という思いがします。自民党は元々保守政党ですから小さな政府を標榜しています。保守=小さな政府、リベラ=大きな政府というのが一般的な構図なのですが、我が国では、枝野氏や与良氏のようなリベラルまでもが、小さな政府派だったのです。
 そして小さな政府派は、公務員を目の敵にし、公より民が優れているという発想をします。公はぬるま湯の非効率体質、民は競争の中で無駄がないという考え方です。この考え方は、コストパフォーマンスを重視して、業務を見直す方向に進みます。蓮舫議員が一躍有名になった「仕分け」がその象徴です。
 こうした風潮を受け、公の中でも、コストパフォーマンスを重視した業務の見直しが進められてきました。そこで真っ先に槍玉に挙がったのが学校でした。学校の教員は、コスト感覚に乏しく、自らを行政組織の一員とする意識に欠け、視野が狭くて目の前の子供のことだけに夢中になり、一人一人の教員が自分勝手に行動するので、重複や無駄が多く、もっと一般行政、つまりお役所を見習うべき、という「改革」が進められてきたのです。
 私自身、教員を経て、お役所である教委に勤務するようになった身ですから、上記のような指摘について、思い当たることは多々あります。ですから、改革を否定するわけではありません。
 ただ、こうした発想が行き過ぎてしまうと、学校や教員がもつ文化や価値観、伝統や雰囲気の中の「良いもの」までもが失われてきてしまうのです。教員の過重労働は、一向に改善されませんが、我が国の学校教育を支えてきたのは、ほとんど無給で、サービス残業の形で、放課後や休日にまで、部活の指導や授業の準備、課題を抱える子供の個別指導や家庭訪問などを行ってきた教員の教育者としての奉仕や自己犠牲の文化であり、慣習であったのです。私は、このブログで再三再四指摘してきたように、教員の多忙化を解消する必要があるという立場ですが、一方で大部分の教員の奉仕精神がなければ、今の学校は一瞬たりとも立ちいかないという現実についても強調しておきたいと思っています。
 私自身は典型的な怠け者ですが、教員になり、いい意味でも悪い意味でもその世界に染まっていく中で、正当な権利である年次休暇も取らずに毎日学校に行って授業をするということが当たり前と感じる人間になっていきました。休めば子供に迷惑がかかるという「おかしな使命感」です。結果、20代後半から30代前半にかけて、8年間1時間も年休を取らずに勤め続け、そのことを当たり前と思う人間になっていきました。そんな私ですが、毎日、9時過ぎまで学校に残り、年末は大晦日まで出勤し、正月も2日からは出勤する同僚に「良心が咎めないの」と詰め寄られたことがあるくらいの「全ての時間を子供のために」という職場でした。
 問題のある職場です。でも、そんなおかしな人間がいるからこそ、世界で評価される初等教育が実現したのです。与良氏のコラムを読み、硬直的な公より民、コストや効率、競争が重視される社会が変わるとすれば、学校が、教員への評価も変わってくるのでは、という淡い期待を感じました。多忙化解消も進めつつ。

 

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よくある?

2020-11-07 08:21:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「あるある」11月4日
 川柳欄の2つの句を見て、教員あるあるだなと感じてしまいました。
 まず、座間市のぼうちゃん氏の『ケチつけて指導した気になった人』です。自分のことを言われているのかと思ってしまいました。子供に「指導」をする、ところが子供はまた同じようなことをする、教員は「言ったでしょう、聞いてなかったの」と子供を責める、学校では毎日のように見ることができる光景です。
 もちろん、きちんと指導したにもかかわらず、子供がどうしようもないというケースもあるかもしれませんが、実際には、教員の方は「指導」したつもりになっていても、子供からすると「何だかよく分からないけど、先生は顔赤くして大きな声で怒鳴っていたな」という認識しかもっていないことの方が多いものです。
 「~しなさい」「~してはいけません」と言って指導したことになるのであれば、教員ほど楽な商売はありません。指導というのはそんなに簡単なものではありません。したつもりではなく、本当に指導するためには、まず、なぜしてはいけないのか、なぜすべきなのか、その理由を子供が理解できるように伝えることが不可欠です。そして、子供が本当に理解したかどうか、確認する過程が欠かせません。さらに、人間が理性と感情の双方の作用によって行動するということを踏まえれば、「分かってはいるけど~」という場合の方が多いことは明らかです。単なる理解を共感にまで高めることが求められるのです。
 なんとかこの段階まで指導できたとしても、それだけでは子供の行動を変えることはできません。例えば、忘れ物をすることが自分にとってよくないことで、班行動をする友達にも迷惑をかけることだと思っても、ではどうしたら忘れ物をなくすことができるかが分からなければ、忘れ物をなくすことはできません。そこで具体的な手立て、きちんと記録する、記録は目立つ赤ペンでする、自宅の玄関に「忘れ物点検は終わったか」というポスターを貼る、当分の間就寝前に親に一声かけてもらう、などの具体策を教えることまでできて、指導したと言えるのです。本当は、子供の行動をよく見て、「今日はきちんとできていたね」と褒めるところまで含めて指導なのですが。
 次の句は、下関市の秀丸氏の『危なげな不慣れそのうち怖い慣れ』です。教員になった1年目、当時同じ学年を組み指導していただいた学年主任のI教員から、後日、「あの頃の○○さん(私のこと)は、危なっかしくて見ていられなかったな」と言われたことがあります。私自身、毎日が不安で、周囲の先輩教員を見て、何とか大きな破綻なく一日を終えることに汲々としていました。何とか無事に(?)一日が終わっても、表面化していないだけで何か大きなミスをしていて、それがいつか噴火してしまうような危機感をもっていました。おそらく、子供も、保護者も、そんな私を「大丈夫?」と思っていたはずです。
 しかし、最初に受け持った子供たちを卒業させた3年目頃から、私は悪い意味で、教員としての自分に自信をもち始めました。保護者からは「○○先生でよかった」とお世辞を言ってもらえるようになり、校務も要領よく片付けることができるようになっていました。教職員団体の活動に批判的だった私は校長や教頭から可愛がられていたこともあり、毎日が「快適」でした。
 そんなとき、初めて区の教育研究会で研究授業をすることになりました。結果は散々。特に尊敬していた社会科部の先輩から、「いつも偉そうなことを言っているが口ほどにもない。普段の授業や学級経営の拙さが出てしまっている」という趣旨のことを言われたことがショックでした。天狗の鼻を折られた、というところです。恥ずかしくて、次の日出勤するのが辛くてたまりませんでした。
 でも、出勤してみると、誰も昨日の授業のことなんか話題にもしません。若い教員が意気込んでたくさんの内容を盛り込み過ぎて上手く授業ができなかった、よくあることだったのです。自分だけが、「自分は優秀」と思い込んでいたが、周囲は私の実力などお見通しだったという訳です。
 慣れが天狗の鼻を高くする。教員の仕事は、若かろうがベテランだろうが、表面的には同じです。授業をし、学級経営をし、生活指導をする。それだけに、自分は若いのに20年選手と同じことができているという錯覚に陥りやすい側面があります。若い教員の皆さん、自戒を忘れずに。

 

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孤立感だけでも

2020-11-06 08:38:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「認めるだけでは」11月4日
 『声上げぬ子 どう把握』という見出しの記事が掲載されました。ヤングケアラーについての特集記事です。その中に、教員の意識の差についての記述がありました。『教員の間の意識差が「支援の壁」担っていると指摘する。祖母の介護が理由で遅刻してしまう生徒に「介護は遅刻の理由にならない」と指導する教員もいるのが現実だ』というものです。
 たしかにその無理解さは、腹立たしい限りです。では、どうすればよいのかと尋ねられたとき、きちんと答えられるでしょうか。誰でも考えつくのは、「大変だね」などのいたわりの声を掛け、責めないことです。しかし、そんな声掛けだけでは、遅刻は続き、その生徒の学習は遅れるばかりです。それでもよいとするのでは、学校は生徒の学びを保証するという責任を果たせていないことになります。
 いたわりの声掛けに加え、家庭学習の課題を与えて学習の遅れを補うという考え方もあります。しかし、介護に追われている生徒が、他の生徒よりも多く家庭学習の時間をとることができると考えることは現実から遊離しています。また、一人の生徒のために休み時間等を利用して補修を行うというのも、一時的には可能でも長期的にそのための体制を組むとなると、多くの問題が発生しそうです。
 そもそも、休み時間等に他の生徒と切り離して指導を行うということ自体に、その生徒の人間関係や学校生活の質の低下をもたらす危険があります。ヤングケアラーの生徒にとっては、学校での仲間と過ごす時間や人間関係が、数少ない楽しみや生きる力を充足できる時間であることを考えると、学習補償だけの視点から補習を行うことには慎重であるべきです。
 おそらく、正解は一律にこうであると決めつけることはできず、一人一人のヤングケアラーが置かれている状況に応じて、手探りで創り上げていくしかないのでしょう。そしてそれを可能にするために、教委はSSWの配置や勤務時間の拡充を図ることと教員のこの問題に対する認識の深化と意識改革のための研修を充実させることに注力し、学校は状況把握のための校内システム構築と対応マニュアルの整備を進めつつ、全ての子供や保護者に対してヤングケアラー問題についての指導・啓発のための取り組みを全教育課程を通じて位置付けることに努力するしかないような気がします。
 上記のような取り組みでは実効性が薄いと思われるかもしれませんが、そうした取り組みがもたらす「みんな君のことを気にかけているんだよ、君のことを忘れてはいないよ、困っていることがあったらまず話してみて」という雰囲気は、ヤングケアラーの孤独感、絶望感を減らす効果があることは間違いないと考えます。

 

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子供への敬意

2020-11-05 08:15:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「敬意」11月2日
 写真家齋藤陽道氏が、『怠けず見て、考える』という表題でコラムを書かれていました。その中で齋藤氏は、4歳の長男がお菓子を「もう一個」食べたいと言ってきて、食べ過ぎだからだめだと断ったときのことを書かれています。
 『ぶすっとした表情の長男。けれど、そう言った直後、幼年期に感じていた感情を思い出した。表面的には「お菓子が食べたい」という可愛らしい不満だけど、根本には「自分で考えて決めることができるのに、まるで信頼されていない」という不信感につながっている。この不信感をそのままこじらせると、隠れて食べるようになったり、嘘を言ったりする始まりになる』。
 そう考えた齋藤氏は、『ごめん、やっぱり食べたい分を取っていいよ。でも甘いものを食べすぎると、歯が真っ黒(少し前にエグい虫歯の写真を見た)になるね。自分で考えて我慢もしてみて』と伝え直したのです。
  いろいろと考えさせてくれる話です。隠れて食べるというのも生活の知恵を身に着けるという成長の一歩と考える人もいるでしょうし、嘘をつくことも道徳的にはともかく人が必ず通らなければならない成長の過程です。また、甘い物の食べすぎは、虫歯よりも小児成人病が気になるという突っ込みを入れる人もいるかもしれません。
 齋藤氏は、ご自身が最初にダメと言ったことを、『ルールにただ従わせて、子どもの人格を見ることを怠けたかっただけだったんだ』と自省をなさっています。素晴らしい考え方です。私も教員になりたてのころ、子供に「どうしてダメなの」と聞かれ、「ダメなものはダメ」とか「決まりだから」「前に言ったでしょ」などという対応をしていたことを思い出し、恥ずかしい思いがしました。その都度、きちんと理由を説明し子供の疑問に答え、子供自身の考えさせる、教員であれ、親であれ、子供と接する大人が常に心掛けていたい態度です。
 ではなぜ、教育の専門家ではない齋藤氏は、こんな対応ができたのか。そして教員駆け出し時代の私にはできなかったのか考えてみて、一つのことに思い当たりました。それは、子供への敬意、最近よく使われる言い方でいうところの「リスペクト」です。
 齋藤氏は、4歳の長男も自分も同じ人間であり、自分の行動は自分で決めたい、自分の判断を信頼してほしいという欲求をもつ存在であると認識しています。子供を大人とは違う未熟な者、劣っている者、大人の支配下にあるべき者とみているのではなく、自分と同じ感情や思考力をもつ「人間」として、敬意を払っているのです。
 私たちは、他の成人に対して、一方的に指示や命令を出したり、問答無用で従わせようとはしません。理由を話したり、経緯を説明したり、自分の思いを伝えたりするはずです。子供も同じ人間だと考えているからこそ、齋藤氏は、自分が長男の健康を心配している気持ちと虫歯のことを具体的な事実を提示して伝え、その上で長男の判断を尊重するという態度をとることができたのではないでしょうか。
  教員は、目の前にいる子供たちに対して敬意をもっていなければなりません。

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私は早く帰る

2020-11-04 09:05:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「管理職の配慮」11月1日
 日曜日の連載企画サラリーマン川柳欄に、出世したい氏の『お疲れさま!定時上りはいつもボス』という句が掲載されました。仕事が溜まっているのに自分だけ先に帰りやがって、という部下の上司に対する憤りが伝わってきます。しかし私は、この心情に共感できないのです。
 私が指導主事になったとき、指導主事の世界は完全な階級社会でした。上司である指導室長や先輩の指導主事が仕事しているにもかかわらず、新米の自分が先に退勤するなどということはとてもできない雰囲気でした。そればかりでなく、室長や先輩が、「ちょっと飲んで帰るか」と口にすれば、「はい、お供します」と言って、すぐに席を立たなければならないのが当然視されていました。そして、飲みに行けば、たとえ終電時刻が迫っていても、室長や先輩が帰ると言わない限り、席を立つことはできませんでした。自宅に電話を入れることもできません。深夜に帰ると、夕飯が冷えたまま置かれているのを見て、申し訳ない気持ちと情けない気持ちを味わったものでした。
 ですから、指導主事1年目のときには、今日は用があるからといって、室長や先任指導主事(一番先輩の指導主事)が定時で退勤すると、嬉しくて顔が綻ぶのを抑えるのに苦労したものでした。つまり、「お疲れ様」と定時で上がる上司に憤りを覚えることなど皆無で、むしろ大歓迎だったのです。
 まあ私の個人的な思い出はともかく、私は、管理職は自分の行動が部下にどういう影響を与えるか、常に考えて行動する配慮が必要だという思いを強くもっています。私は室長や統括指導主事時代に、部屋で一番早く出勤していました。それは静かな中で済ませておきたい仕事があったからです。しかし、そのことを部下が気にしてはいけないと思い、「校長をしているつれあいと一緒に家を出なくてはならないから」と言い、「校長先生って忙しいんだね」と口癖のように言っていました。
 また、その分、早く退勤することを心掛けていました。私が居残っているために、帰宅できない部下がいないようにです。どうしても遅くなる日は、「室長会の仕事で」「社会科の原稿を頼まれていて」などと個人的な仕事で残るということを強調するようにしていました。
 私が常々お手本としていた目賀田先生は、教員時代に、いつも暇そうに教員室にいるように心がけていました。そうすることで教員が気楽に話しかけてくるようになり、様々な情報が入って来やすくなること、本当に困っている教員が相談しやすくなることを意図しての行動でした。もちろん、誰の目もないときには、猛烈なスピードで事務をこなしていたのですが。これも、管理職としての職責を意識した意図的な行動です。
 言葉ではなく、行動で職員に見せる、動かす、職場の雰囲気を作る、それも校長や副校長といった学校管理職の望ましい姿です。

 

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悪しき伝統

2020-11-03 07:21:18 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「悪しき伝統」10月30日
 川柳欄に、福岡の小把瑠都氏の『先輩の議員がヤジの指導する』という句が掲載されていました。国会か地方議会かは分かりませんが、議員は議場でヤジを飛ばすものです。しかし、誰でもヤジを飛ばせるかというと、そんなに簡単なものではありません。私も勤務していた市で本会議や文教委員会に出席していたからよく分かります。
 ヤジの種類によっては、かえって同僚議員の足を引っ張ってしまうことになりますし、度を越せば、自身が懲罰の対象や謝罪に追い込まれることにもなりかねません。また、その問題についての過去の議論についての知識がなければ、的外れとして、軽侮の対象にされてしまいます。
 とはいえ、新人議員はなかなか質問の場を与えられないという実態もあり、ヤジでも飛ばさなければ、存在を示せないというのも事実です。それに、議場で声を出すことすら、慣れないと緊張してしまうもので、ヤジは声を出すことに慣れるという側面もあるのです。
 そこで、先輩議員がヤジの指導をする、という情景が出現するという訳です。確かにヤジは不規則発言であり、そんなものは議員の資質とも仕事とも関係はないはずですし、議員になった当初は、ヤジなどせず、議論の内容で勝負したいという高い志をもっていた人も多いはずですが、実際にはヤジを飛ばすことで議員という立場に慣れていくのです。
 私はこの句から、教員の世界を連想してしまいました。私の指導主事時代の後輩は、中学校に勤務するようになってしばらくすると先輩から、「おい、もう一発やったか」と言われたそうです。つまり、体罰の勧めです。生徒に舐められないように、強面の教員であることを示すことが必要だと言われるのです。そして、体罰のコツを伝授されるのです。
 相手に選ぶべきなのは、殴っても大騒ぎしない生徒、保護者が煩くない生徒、かといって従順で弱すぎる生徒では他の生徒に対する示威効果がないので、そこそこの悪と思われている生徒、そして絶対に反撃して来ない生徒、反撃して教員側がやられたのでは逆効果ですから。
 殴る場面は、誰が見てもこれだけ悪いことをしたら殴られて当然、というときではなく、「えっ、こんなことでも殴られるの?」というような場面で殴ってこそ効果的だ、などと指導を受けるわけです。
 私の後輩はこんな指導には従わず、体罰をすることはありませんでした。もっとも、空手有段者で、ボクシングジムに通っていた彼は、短髪に細い眼鏡という風貌から、十分強面でしたが。
 後輩の新卒時代は今から40年以上も昔です。もちろん、今ではこんな悪習はありません。しかし、こうした悪習が消えるまで数十年かかったのも事実です。どこの世界にも、何らかの悪しき伝統や文化、雰囲気といったものがあるものではないでしょうか。そして、そうした悪しき伝統が解消されていく一方で、新しい悪しき伝統や慣習が生み出されていくことにも留意する必要があります。
 自分が自覚しないまま、悪しき伝統の創始者、継承者になっていないか、全ての教員は、ときどきは自省してみることが必要です。

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無形遺産の喪失

2020-11-02 06:40:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「無形遺産の喪失」10月29日
 東京大教授佐々木司氏が、『IT弱者にも配慮を』という表題でコラムを書かれていました。その中で佐々木氏は、オンライン授業のシステムに、自分のメールアドレスを登録する作業に苦戦した経験を綴り、『ITに弱いことは前から分かっていたが、この時は大変心細く、「役立たず」とシステムから宣告された気分だった。ただ同時に思ったのは、もしかしたら自分と同じような経験をしている人が、他にもいるのではということだ』とその際の思いついたことを書かれていました。
 そして、『ITなどの技術は世界中で進歩していて、国際社会での生き残りがかかっているもで後れをとるわけにはいかない』としつつも、『急速な変化に追いつくのに人より時間がかかり、周りの助けが必要な人』がいるはずだと指摘なさっています。さらに、『(そうした人の)中にはITは弱いが、職場に不可欠の経験と実力を備えた人も少なくないかもしれない』と述べ、『本来実力のある人が、わずかな技術的障壁で活躍の場を奪われたり、気力を失ったりしないための工夫も忘れないでほしい』と書かれているのです。
 私は佐々木氏のコラムを読み、20年ほど昔のことを思い出してしまいました。当時、校長や教頭といった管理職からの希望降格制度が設けられました。私はそんな希望をする人がいるのかと疑問に思っていましたが、私の周囲でも降格希望者が出たのです。経験豊富で優秀な教頭でしたが、一般の教員に戻るというのです。
 その理由を訊いてみると、パソコンを使いこなせない、でした。学校は鍋蓋組織と言われるように、校長と教頭という2人だけが管理職であり、この中でも教頭一人に学校事務が集中するという構造になっていました。当時はまだ、十分には学校にパソコンが普及しておらず、一般の教員はパソコンの操作に不慣れでも職務に支障をきたすことは少なかったのですが、教頭はそうはいきませんでした。
 降格を希望した彼は、忙しい合間を縫って自腹でパソコン教室に通いましたが、なかなか習熟できず、教委や校長、または一般の教員から事務の遅れを指摘され催促されることが増え、それでも家族の生活を支えるために働き続ける必要があり、降格を選択せざるを得なかったのです。
 まさに佐々木氏が懸念している「本来実力のある人が、わずかな技術的障壁で活躍の場を奪われたり、気力を失ったり」した事態が発生したわけです。今、小学校ではプログラミング教育や英語教育などの指導が求められるようになっています。こうした新しい分野については苦手だけど、他の教科指導や学級経営、児童理解や学校運営などに優れた能力と経験を有する教員が、早期退職を選択することにより、その人のもつ貴重な知見、学校にとっての無形遺産が失われていく事態は杞憂ではありません。
 その防止策は十分に検討されているでしょうか。

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ふさわしい新しい学び

2020-11-01 08:23:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「イメージが浮かばない」10月27日
 『菅首相所信表明演説全文』が掲載されました。その中にほんのわずかですが学校教育に触れた記述がありました。『教育は国の礎です。全ての小中学生に対して、1人1台のIT端末の導入を進め、あらゆる子どもたちに、オンライン教育を拡大し、デジタル社会にふさわしい新しい学びを実現します』というものです。
 学校教育にはあまり関心がないのだと思っていましたので、この少ない言及にも驚きはありません。1人1台の端末導入も、すでに着手していることですから、そうなんだという程度の受け止めです。しかし、次に続く記述には驚きと疑問がありました。
 まず、オンライン教育を拡大するという点です。これは、コロナ禍などの異常事態時における教育の保証という趣旨ではなく、恒常的にオンライン授業を行う体制を目指すということです。他の項目と異なり、期限を明示してはいませんが、少なくとも将来的には、子供は自宅等で授業を受け、登校するのは何らかの実体験が必要なときだけという形が学校教育の基本形になるという宣言です。随分大胆なことをサラッと言ったものだと驚かされました。
 今国会では、学術会議問題についての追及がメインになるという予想ですが、それだけでなく将来の学校教育の姿についても論争してほしいものです。菅氏独特の、ちゃんと所信表明演説で言っておいたのに反対しなかったじゃないかという論理で強権的に進められては困るからです。
 次は疑問に思ったことです。デジタル社会にふさわしい新しい学びとは何なのか、という疑問です。賛成反対以前に、まったくイメージが浮かばないのです。前後の文脈からすると、オンラインという方法で授業を受けること=デジタル社会にふさわしい新しい学びと読み取れます。でも、まさかそれだけのこと?と思ってしまいます。
 「学び」について語るのであれば、その内容と目指す能力について触れることは絶対に必要であるというのが、私の感覚です。そしてそれは多くの教育関係者に共通する感覚であると考えます。方法や手段だけを提示して新しい学びというのはあまりにも空疎な提言だと言わざるを得ません。
 学校教育は、今までもいくつもの教育機器の改善を経てきました。スライドで写真を拡大して見せることができるようになり、OHPで図表やグラフを手軽に操作できるようになってきました。ビデオの普及で動きのある動作、例えば体育における望ましい動きを提示することができるようになってきました。実物投影機は、細かい作業を拡大して見せ、教員が理科の実験や家庭科の調理などにおいて実技の手本を簡単に見せることを可能にしました。
  機器の進歩が授業を変えていきました。しかしそのことをもって新しい学びとは言いませんでした。当然のことです。そして同じように、ITを使い、家庭のパソコンの画面を見つめるように授業の形が変わっても、それだけで新しい学びとは言わないのです。
 今、学校教育は自ら問題を発見し、課題を設定し、自ら考えて解決して行動するという能力の育成を目指しています。その目的までもが変わるのか、菅首相にはどこかでビジョンを語ってほしいものです。

 

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