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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

揺れ動く不安に耐えられない

2020-11-20 08:07:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「自信のなさ」11月14日
 論説委員元村有希子氏が、『役に立つ?立たない?』という表題でコラムを書かれていました。その中で元村氏は、学術会議問題に絡めて『学術は本来、ややこしく、素人にはとっつきにくいものだ。だからこそ、そんな役に立つのか分からない問題に目を輝かせて向き合っている人がいてくれなければ困るのだ』と述べ、『科学は役に立って当然であり、役に立たない科学は不要』という単純な考え方に警鐘を鳴らしていらっしゃいました。
 全くその通りだと思います。今回の学術会議の任命拒否問題については、こうした指摘が繰り返されています。今回はそこからさらに一歩進んで、こうした単純化のメカニズムについて考えてみたいと思います。そうは言っても、全くの素人が考えることですから、深みのある内容ではないことをお断りしておきます。
 私は、単純化して考えるという姿勢の背景には、自信のなさ、余裕のなさがあるように思っています。○か×、善か悪、二者択一で決めることは、安心感をもたらします。いくつもの選択肢の間で揺れ動くことは不安定で落ち着かないものですが、こうだと決めてしまえば、それ以上思い煩うことをしないで済みます。
 また、ある問題について考え続けることは、疲れるだけではなく、判断に必要な情報が多く、自分はその中のごく一部しか知らない、ということを思い知らされることでもあります。つまり、自分の無知を自覚させられることであり、バカな自分と向き合うことは不快なことなのです。
 さらに、迷い続けている間は、自分にとって心地よくない事実や異見に接する機会が増えます。それは大げさに言えば今までの人生で培ってきた自分の存在を否定するような経験です。嫌に決まっています。
 それに比べて、とにかく決断し、自分の立場をはっきりさせることは、心地よいことばかりです。迷い続ける連中を判断力のない愚か者と見下して優越感を得ることができます。そして、同じ見解の仲間ができ、仲間との交流で得られる情報は自分にとって心地よいものばかりです。やはり私は正しかったと自己評価を高めてくれるのです。さらに、それは自分の今までの人生を肯定してくれる作用もあり、大きな満足感をもたらしてくれます。この満足感は、経てきた人生が長い者、つまり年長者ほど大きくなります。人間が年を取ると、なかなか自分の意見を変えることができなくなるのは、こうした心理が働くからです。
 つまり、単純化は、人間本来の心理に根差した自然な反応だということができます。しかし、単純化の弊害は、今や無視できない状況になっています。自然が単純化に向かわせるのであれば、こうした単純化人間を増やさないためには、人工的な「教育」が必要なのです。それも偶発的・問題解決的な学びを主とする家庭教育や社会教育ではなく、意図的・計画的な学びの場である学校教育こそが担うべきなのです。学校教育を通じて、少ない知識、偏った情報のみで安易に評価し判断するのではなく、相反する考えや見解について慎重に吟味して結論を出そうとする態度を培っていかなければならないと考えます。
 そして、従来望ましいとされてきた、早い決断、一度決めたことはやり通すという態度を見直し、いつまでも悩む、一度出した結論も疑って問い直す、異なる意見の間で右往左往する、というような態度こそ好ましいものとして再評価する方向性を持つべきだと考えます。
 今、決める政治が評価され、異論を排する姿勢が強いリーダーシップと見なされる風潮が広まるときだからこそ、学校教育はいつまでもこだわって考え続ける子供を育てて、バランスをとる必要があるのです。日々の授業は、粘り強く考えさせるものになっているでしょうか。

 

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リンチに加わるのか

2020-11-19 08:29:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「責任の取り方」11月13日
 『「不倫をリンチ」の世に一石』という見出しの記事が掲載されました。『共に衆院議員だった夫の宮崎健介さん(39)の不倫騒動を振り返った著書「許す力」(集英社)を出したコメンテーターの金子恵美さん(42)』へのインタビューを中心に構成された記事です。
 記事の中で金子氏は、『不倫は家族と相手方の問題で、第三者が介入すべきではないと考えます。でも、現実的には不倫が明るみに出た人は犯罪者のような扱いを受けている』と述べ、ています。考えさせられる指摘です。つまり、社会的に責任載るのある立場(?)にあるものは、清く正しく生きる責任があるという考え方は正しいのかという問題です。
 私は以前このブログで、クラブでバイトをしていた女性がそのことを理由にアナウンサーの内定を取り消されそうになった問題を取り上げ、教員の場合はどうなのかと問題提起をしました。その職に求められる清廉性という言葉が使われていましたが、今回の記事でも、東大教授瀬地山角氏がこの問題を取り上げ、『職業差別の一種』と指摘なされています。当時の私はそこまでの言及はしていなかったのですが、今回、改めてこの問題について考えたいと思います。
 私は教委勤務時代に、数多くの教員の「不倫」に遭遇してきました。校長とPTA役員が泊りがけの旅行に行って一時行方不明になったこと、女性教員が同じ学校の事務職員と男女の仲になり離島に異動になったこと、管理職が同時に2人の部下の教員と不倫をしていたこと、共に配偶者のいる男女の教員が双方が異動した後も5年間以上も関係を続けていたこと、全て書けばまだ数ページが必要になります。
 一方で私は、教員の不祥事による処分に関わる仕事をしていた時期もありました。そこでは、体罰、わいせつ行為、公金横領、交通事故など多くの「非行」の処分や研修に関与しましたが、「不倫」は1件もありませんでした。つまり、「不倫」は、公になることはなく、金子氏の指摘通り「家族と相手方の問題」止まりだったということです。しかしそれから10年以上の年月が経ちました。今はどうなのでしょうか。
 昔も、異性関係について「噂」が流されるということはありました。不倫などではなく、婚約中の女性教員が相手を自分のアパートに入れた、というようなことも、保護者の間で話題になり、校長が注意したというようなケースがあったのです。中には、田舎から出てきた弟と歩いていただけで、あまり好意的でない「噂」を立てられた女性教員もいました。でもそうしたケースは稀でした。「噂」を拡散する手立てが乏しかったからです。
 しかし今は、誰でもSNSを使い、「噂」の拡散が簡単に、しかも匿名でできるようになっています。その破壊力は格段に強くなっているのです。もし、ある教員について、不倫現場の写真が拡散されたとしたら、校長は、教委はどのように対応すべきなのか、少なくとも都道府県教委レベルでは統一見解をまとめ、区市町村教委や校長に周知しておくようにすべきです。
 教職に求められる「清廉性」、プライバシー保護という人権上の配慮、そして金子氏が語るように『今の社会はあらゆる事象に対して不寛容。失敗を許さない社会でいいのでしょうか』という問いかけに寛容の精神を訴える教育の場としてどう応えるかという視点、公務員として求められる信用失墜行為の禁止との兼ね合い、整理すべきことはたくさんあります。個人的には、教委が不倫リンチに加わることは避けるべきだと考えますが、どうでしょうか。

 

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教員を目指す子供たちのために

2020-11-18 08:21:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「責務」11月13日
 ネットフリックスでアニメ作品を統括する櫻井大樹氏へのインタビュー記事が掲載されました。その中でに次のような記述がありました。『アニメの制作現場では、低収入や長時間労働など厳しい待遇に置かれる人が依然として少なくないことも憂慮する。「アニメ制作を目指す子供たちに「入っておいでよ」と言える世界にしなければ」。それも自らの責務と、心にとめている』。
 櫻井氏の、アニメ愛が伝わってくる記述だと感じました。アニメ作品そのものに対する愛情だけでなく、アニメ界で働く人たちへの愛情、そしてアニメ界の将来への愛情が込められた言葉だと思うからです。
 学校の教員に、櫻井氏のアニメ愛と同じような意味での学校愛をもっている人がどれくらいいるでしょうか。一部のとんでもない教員を除く大部分の教員は、子供への愛情をもっているはずです。私は末っ子の甘えん坊で面倒を見てもらうことに慣れ、他者の面倒を見たり世話を焼いたりするのが大嫌いでした。私の家族はそんな私が小学校の教員になると知って、大丈夫なのかと心配しました。確かに、教員になりたての頃の私は、言うことを聞かない子供に対して、「面倒臭い奴」としか感ぜず、教員失格でした。しかしそんな私でも、教員3年目を迎えるころには、子供といることが楽しく、自分のどこにこんな感情があったのだろうと思うくらい、子供たちに愛情を感じることが多くなってきました。そんな自分の経験からも、ほとんどの教員が子供への愛情をもっていることは間違いないと思います。
 学校は、子供だけでは成り立ちません。教員にとっても快適な場所でなければ、子供にとって楽しい学校にはなりません。多くの教員は、同僚の教員に対して同志としての連帯感をもっているのではないでしょうか。教員は世界が狭いと言われます。それは悪い意味で使われる言葉ですが、その一方で企業のような競争社会ではない教員社会では、助け合いや協働意識、良い意味でのおせっかいや自分のノウハウを惜しみなく伝える文化があります。これは、教員の教員愛だと言ってもよいのではないでしょうか。私も、勉強会や区の教育研究会の先輩から受けた指導には、今も感謝しています。
 そこまでは良いのです。ではその先、未来の教員たち、つまり教員志望の若者への愛情を意識している教員は多いのでしょうか。これから教員になる若者が、生きがいを感じ充実した教員生活を送ることができるように、学校教育の状況を整えておこうという意識をもっているか、そしてそのために具体的に行動しているか、ということです。
 残念ながら、ほとんどいないと思います。私自身がそうでした。私の周りには自分の生活を犠牲にしてまで、職務に邁進する教員たちがいました。生活上の問題を抱える生徒のために深夜まで働き、自腹を切ってファミレスで夕食を食べさせながら話を聞いてやるような教員たちです。
 彼らは、くたくたになりながら、そんな自分に教員としての誇りと満足感を得ていました。そんな教師像を理想としていたのかもしれません。でも、そんな働き方が教委として当然であるとすることは、将来の教員志望の若者に苦しみを背負わせることにもなってしまうのです。自分は出来たから、後輩にもこれくらいは頑張ってほしい、というのは、実は若い教員を疲弊させ、長期的に見たときに学校を崩壊させることにつながっていくのです。
 「教員をを目指す子供たちに「入っておいでよ」と言える世界にしなければ」。現職の教員には、こういう気持ちをもって職務の見直しや社会への働きかけを進めることが自らの責務であると考えてほしいと思います。

 

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信教の自由と性教育

2020-11-17 08:19:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「宗教の視点からの要求には」11月12日
 『フランス「処女証明書」禁止に波紋』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『「処女証明書」は、結婚前の女性に性交渉の経験がないことを重視する仏国内のイスラム教徒や少数民族ロマが利用している』とのことで、仏政府は『フランス社会や文化への同化を拒否する「分離主義」がイスラム過激派を助長しているとみており、「処女証明書」もこうした「分離主義」に含まれる』と考えているということです。
 過激派対策という点については、こじつけという印象をもちますが、よく分かりません。私が気になったのは、処女と宗教の関係です。我が国では、かつて純潔教育が行われていました。女性は結婚するまで男性と性交渉をもつべきではないという考えで行われてきたものです。近年は、科学的な知識に裏付けられた性の自己決定権に基づく性教育が行われるようになってきていますが、今でもいわゆる保守派とされる人たちから、行き過ぎた性教育批判がなされ、その根底には「純潔教育」への郷愁があると思われます。
 保守派の「純潔教育」は、女性差別の側面もあり、声高に主張されることは稀になってきていますが、もし仮に、イスラム教徒などから、信仰の自由という大義を掲げて、婚前の性交渉を認めるような教育を学校で行うべきではない、少なくともイスラム教徒の子供にはそうした性教育を拒否する権利を認めるべきだ、というような要求が出されたとしたら、学校や教委はどのような対応をすべきか、という問題意識をもったのです。
 我が国は無宗教を自認する人が多く、学校も教委も宗教絡みの問題に対応した経験が乏しいのが実情です。多くの学校が及び腰になり、明確な基準を方針を示すことなく、「妥協策」としてイスラム教徒の子供は性教育の授業中に、他の教室で別の学習をしていてもよい、というような対応策を選ぶような気がします。
 一度そうした対応をすれば、次に保守的な考えをもつ保護者が、「うちは○○教の信者なのですが、○○教では婚前の性交渉を認めていないので~」と申し出てきたときに、拒むことができなくなります。この場合「○○教」はなんでもよいのです。「鰯の頭も信心から」です。極端なことを言えば、その保護者が勝手に○○教を名乗っても、「そんな宗教聞いたことがありません」とは言えないのです。
 こうした動きが拡大すれば、計画された教育課程の実施は難しくなります。信教の自由と学校教育の在り方について、教育行政は内部の検討を進めておくべきだと思います。

 

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崩壊しやすい「我が家」

2020-11-16 07:55:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「動的なもの」11月11日
 専門編集委員古賀攻氏が、『されどツイッター政治』という表題でコラムを書かれていました。米大統領選について書かれたものです。その中で古賀氏は、『副大統領になるハリスさんの自戒に共感する。「民主主義を当たり前と思ってはいけない」。そう、民主主義の尊さは実践にある』と書かれています。
 私も同感です。そしてこのハリス氏の言葉こそ、我が国の学校教育で欠けていたものだと考えます。もちろん、民主国家である我が国では、民主主義について学校で学びます。憲法の国民主権を敷衍したものとして、自由権や参政権について学び、その具体的な姿として、表現の自由や思想・良心の自由、選挙権や被選挙権、住民投票などについて調べていきます。また、政治にかかわる学習において、三権分立の仕組みや国会・内閣の構成などについて知っていきます。さらに、歴史を学ぶ中で先人が民主主義と出会い獲得していく経過を、自由民権運動や憲法発布、普選運動などを事例に取り上げて学んでいきます。
 これらについて学ぶことは大事なことですし、私自身、社会科を研究教科としてきた者として指導してきました。しかし、自分自身の実践も含めて反省すべきなのは、民主主義について静的なイメージを与えがちであったということです。
 つまり、過去の経緯や理念や仕組みについて学んだ結果、子供の頭の中に、民主主義という立派な建物が厳然と聳え立っているという感覚を与えてしまっているのです。民主主義という建物は、確かに立派で大切なものなのですが、それはその立派さゆえに未来永劫揺るぐことがなく、壊れたり倒れたりすることはないというイメージです。大切に使ったり、常に点検修理が必要なものではなく、放っておいても100年先も1000年先も、今と変わらぬ姿で私たちの前にあり続けると思い込ませるような学習になっているのです。
 しかし実際は、ハリス氏の言葉のように、民主主義は何もしなくても当然のようにそこにあり続けるような堅牢なものではないのです。ヒトラーが民主主義の中から生まれたように、少しでも気を許せば、民主主義という建物は崩れ去り、独裁や全体主義という牢獄が姿を現すのです。一人一人の国民が、民主主義という建物が壊れないように、注意深く民主的社会の形成者としてのふるまいを続けなけらばならないという覚悟が必要なのです。古賀氏はそれを「民主主義の尊さは実践にある」という言葉で表現したのです。
 民主主義を常に揺れ動いている動的なものとして学ばせること、これが必要なのです。

 

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モヤモヤする

2020-11-15 08:02:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「モヤモヤ」11月10日
 専門記者大治朋子氏が、『偽情報でスッキリ?』という表題でコラムを書かれていました。その中で大治氏は、平気で嘘を連発するトランプ米大統領について触れ、『情報の真偽を見極めるには時間も労力もかかる(略)人間は情報を一つ一つ時間をかけて吟味するより、すでに持っている思い込みの型に当てはめて「やっぱりね」と思いたがる生き物』と述べていらっしゃいます。トランプ氏は、こうした人間の習性を巧みに利用しているというわけです。
 自分を顧みても、そうだなと思います。しかし、こうした習性は、これからの情報過多時代には、とても危険なものになります。デマや嘘に乗せられて判断を誤り、それが組織や社会の方向性を誤らせ、取り返しのつかない失敗をもたらす可能性が高くなるからです。
 歴史を振り返れば、過去の戦争や独裁は、ほぼ例外なく、国民が自分にとって心地よい情報だけに依存し、間違って選択を続けた結果として生じています。ヒトラーが政権を握る過程もそうでしたし、2度の大戦もそうでした。今も、日本はすごい、日本は素晴らしいといった書籍や、韓国はお終いだ、中国は世界の嫌われ者といった本が、ただ売れるというだけで書店に平積みになっています。こうした話は心地よいですからね。
 こうした問題意識をもってこれからの学校教育を考えると、スッキリからモヤモヤへ、という発想が大事になると考えます。教員が説明をし、「そうかそういうことか、よく分かった」というスッキリ感で終わる学習ではなく、「ふーん、そうなのか。でも何だかちょっと違うような気がするな。例えば、○○さんが言っていたけど~」というようにスッキリとは割り切れない、何が分からないのかは分からないけれど、なんだかモヤモヤするという、そのモヤモヤを大事にする学習というイメージです。
 私は指導主事時代に、これから求められる学習過程というレジュメを作っていましたが、そこでは問題が解決して終わるのではなく、問題を解決してもまた新たな疑問が生じてきて、次はその疑問を学習問題に設定して新たな学びが始まるというサイクルを提唱していました。内容については粗いところが多く、今見るともっとブラッシュアップが必要だと感じますが、基本的な発想は間違ってはいないと思います。
 つまり、スッキリとは終わらず、まだこれは未解決という、モヤモヤ感のある授業です。こうした学習を繰り返すことで、考える力、問題解決力を高めるとともに、全てわかるというのは嘘っぽい、そんなスッキリと割り切れるのはおかしい、と疑い深い姿勢を身に着けることが大切なのです。疑うことはいいことだ、というと怒られるでしょうか。

 

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「友達」に囲まれていても寂しい

2020-11-14 08:17:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「千差万別」11月9日
 『「非モテ」研究会が活動報告書刊行 男性の苦しさ 考える軌跡』という見出しの記事が掲載されました。『「モテないけれど生きてます」。そんなタイトルの本が青弓社から刊行された』ことを報じる記事です。『「モテない」悩みに絡み合う多様な生きづらさを時にユーモアを交えて描く』ものだそうです。
 記事の中に、『自身の生きづらさを「不本意出家」という言葉で分析したリュウさんは非モテ当事者の差異に言及し、「その差異こそが孤独の苦しみであり~」』という記述がありました。つまり、モテないという共通項がありながらも、「非モテ」研究会のメンバー一人一人が置かれている状況や苦しんでいたり悩んでいたりする事柄は違っていて、非モテ仲間がいることでも孤独感は解消されないということです。
 最初は「非モテ」という言葉に引きつけられて記事を読み始めたのですが、読み終えてみると、教員にとっても留意しなければならないことがあることに気づかされました。それは、子供たちをある視点や基準で一つの集団として見ることに潜む恐ろしさです。
 現実問題として、多くの教員は子供たちを様々な集団として把握しています。勉強ができる子供と出来ない子供、不良と優等生、明るい子供と暗い子供といった誰でも思いつくような集団分けもあれば、色気づいた子供とまだ性への関心が薄い子供、おしゃれな子供と無頓着な子供、過保護にされている子供と放任されている子供、一人が好きな子供と大勢で群れたがる子供などの集団で学級を把握している教員もいることでしょう。
 私は今まで、子供にレッテルを貼り、この子はこういう子と決めつけてしまう姿勢を非難してきました。上記のリュウ氏がいうように一人一人に差異があることを無視しているからです。しかしそれだけでなく、これもリュウ氏の指摘にあるように、同じ属性をもつと思われる集団に属し共に行動をしていながらも、そこにも孤独の苦しみがあるということについては言及してきませんでした。というよりも、考えてもいなかったのです。
 私は小学校の高学年を受け持つことが多かったです。この時期の子供は個人差が大きく、いわゆる色気づいた子供とそうでない子供がいるものです。ある女子グループは、誰が誰を好きだとか、誰と誰がデートしたとか、デートのときは男の子におごってもらうとか言った話題や、ネイルやリップなどの化粧、大人っぽい下着の話などで盛り上がっていて、ときどき担任である私にも、「靴下は→ソックス、6はシックス、最大はマックス、じゃああれは?」などという謎々を出し、私は一瞬詰まっていると「あれはザット。先生なんだと思った?」などとからかってくる、そんな感じでした。
 私は彼女たち一人一人がそうした共通点を持つ一方で、家庭環境や親の束縛、進学先や成績、容貌や性格などについて、それぞれに悩んだり不満をもっていたりすることは理解しているつもりでした。しかし、彼女らが上記のような話で盛り上がっているとき、お互いにその場の雰囲気を大切にし表面的に周囲に合わせている部分があるとは分かっていましたが、そのときに仲間といても孤独というような感情を抱いているまでと想像することはほとんどありませんでした。
 「また、楽しそうにやっているな、塾だ受験だと大変なことも抱えているのだから、休み時間のバカ話がストレス解消になればいいや」くらいの気持ちだったのです。そうしたグループに属せず、早く休み時間が終わるのを待っているような子供について、孤独や寂しさを懸念することはあっても、いつも集まって笑っている彼女らがその瞬間にも寂しいと感じているとは思いもしなかったのです。そして、家庭訪問や個人面談では保護者に対し、「お子さんはいつも大勢の友達に囲まれて楽しく学校生活を送っています。安心してください」などと伝えていたのです。
  何人もの「友達」に囲まれていれば寂しくない、そんな薄っぺらな子供理解は、教員として恥ずかしい限りです。

 

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くだらない質問ですが・・・

2020-11-13 08:16:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「言い方は違うが」11月8日
 作家高橋源一郎氏が、『語る』欄でインタビューを受けていらっしゃいました。その中で高橋氏は、『「生半可な学者」という言葉があります。時間はかかりますが、ある生半可なレベルに知識が達すると、専門家には当然かなわないけれど、専門家にはできない質問ができるようになる』と語っていらっしゃいました。
 素晴らしい言葉です。これこそが、近年の学校教育が目指してきたものなのです。学校教育については、それが目指すべき能力・資質について、様々な表現がとられてきました。生きる力、自ら考え行動する力など、どこがどう違うのか、門外漢にはよく分からない状況でした。そんな中、私は、自ら考え問題を解決する能力では足りないと考えていました。そうした考えの人は多く、自ら考え問題を解決するというのは、受動的で、外部から与えられた問題を解決するだけで、それではコンピューターに代替される人間を生むだけだ、という批判があったのです。
 そこで教育関係者の中では、微妙に表現は違いますが、自ら問題を発見し、自ら考え、その問題を解決する、という趣旨の能力・資質が重要であるということが共通理解されるようになってきました。もっとも、問題を発見するというのではすでにある問題を見つけるだけのことで、それでは創造的な人間とはいえない、自ら問題を作り出し、自ら考え~とすべきだという主張もありますが、個人的にはそこまでのレベルは難しいかな、と思っています。
 では、自ら問題を発見(創造)するとはどういうことなのか。専門的な学問の社会でのことはよく分かりませんが、普通の市民で言えば、高橋氏の言葉にある「専門家にはできない質問」をするということなのだと考えます。一つの専門分野を深く掘り下げ続ける場合、ある種の暗黙の前提のようなもの土台にしていることが多いもので、その前提自体を問うという「生半可な知識をもつ素人」の存在が、専門家の暴走や迷走を防ぎ、脱線しかかった社会を正常な軌道に戻す働きをするのです。
 「使えば破滅なのにどうして何千発もの核兵器が必要なのか」「黒人と白人って同じじゃないの」「核のゴミの処理ができないのにゴミを増やしていいのか」「自分を信じない人は殺せなんて言う神様がいるの」「人間も体外受精で工場で生産すればいいんじゃないの」「天皇が女だと何が困るの」など、その分野の専門家が笑うような、でも矛盾なく論理的には説明するのが難しいような問いを発し、しつこく「でも、この場合は~」「こんなケースでも~」問いを重ねていくする能力です。簡単に納得しない能力とも言えます。
 戦争の反省に立って出発した戦後教育は、民主的社会の形成者としての能力育成を掲げてスタートしました。民主的な社会をつくるということは、判断を他人任せにせず、自分で考えるということです。それは、常識や既成の概念を疑うということでもあります。無知による問いではなく、生半可レベルまで知ったうえでの問い、これこそが教育の目指すところなのです。

 

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勉強する人は偉い

2020-11-12 08:38:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「見えにくい危機」11月7日
 専門記者伊藤智永氏が、『三島事件50年の軍と大衆』という表題でコラムを書かれていました。その中で伊藤氏は、菅首相による日本学術会議人事への介入に関して、『気がかりは、学者に対する世論の冷淡さだ(略)学問の厳しさ、真理の険しさ、言葉の奥深さに対する敬意も萎えている』と書かれています。多くの人が触れてこなかった視点です。
 私は今回の人事介入については、菅首相に批判的な立場ですが、今はそのことには触れません。ただ伊藤氏が提示した点について考えてみたいと思います。私は、伊藤氏の指摘の共感します。学者、学問、いずれも「学」という文字でできている言葉です。そして伊藤氏の指摘は、つまり「学」ぶということに対して、社会に否定的感覚が蔓延しているということを表しているのではないか、と感じるのです。
 そうした感覚は、学校でも顕著に見ることができます。まじめに勉強する子供がからかいの対象になったり、勉強以外にもコツコツ努力することをカッコ悪いと見做す風潮があるように感じるのです。もちろん、私が子供のころにも、がり勉はカッコイイものではありませんでした。試験の前日に必死で勉強していても、当日は「昨日ついテレビ見ちゃって、全然勉強してないよ」と嘘をついたものでした。それでもお互いにそれが嘘であることは見抜いていて、「こいつはきちんと勉強してくる奴だ」ということは分かっていました。そして、その本当の姿、真面目に勉強してよい成績をとる奴は、「不良」からも、それなりに一目置かれていたものでした。
 今も、勉強ができ、麻布や開成に進むような子供は特別視されています。しかしそれは、う集団、小学校で言えば、クラスの上位グループで私立中学校への進学を目指しているような子供の中で「あいつにはかなわない」という評価を受けているだけで、学習が遅れている子供たちにとっては、自分とは別の人種のような感覚、興味のもてない無縁な人という感じになっているのです。
 この別の人種のような感覚が、中学校、高校と進むにつれ、無関心から蔑視や敵意のようなマイナスの評価に転じていくのです。そこでは、「勉強はよくできるけれどただそれだけ。そのほかのことは知らないし、役にも立たないつまらない奴」というようなレッテル貼りが行われ、そうすることで、「学校の勉強はできないけれど、いろいろなことを知っていて面白い自分」に高評価を与えて安心感を得るという構造です。
 そこには「他人をやっかむ」という日本人の特性が影響しているのかもしれません。平均的日本人を自負する凡人たる私にも似たような感覚はあります。しかし、やはり読書で触れる学者の見識には感心させられるのも事実なのです。そしてそれは学識への敬意につながり、専門家を尊重する姿勢へとつながっていきます。
 学校は学ぶところです。もっと、学ぶことの意義、知識を得ることの価値、真摯に考える姿勢の尊さといったことを子供に伝えていく必要があるように思います。しかし、近年の学校は、勉強こと以外にも大事なことはあるというメッセージを伝えることに重きを置いているように思えます。授業の充実よりも特色ある教育活動を学校のアピールポイントに据え、基礎基本を疎かにしたまま見栄えの良い活動の導入に頭を絞り、不易と流行の不易を忘れてしまっているように思えてならないのです。勉強再評価、です。

 

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教員が出なければ収まらない

2020-11-11 08:20:31 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「結局は」11月7日
 『コロナと教員の働き方 負担軽減の方策が必要だ』というタイトルの社説が掲載されました。『(感染防止のための)消毒やトイレの清掃を業者に委託』するなどの具体例を挙げて教員の負担軽減の必要性を主張するなど、もっともな内容です。
 しかし詳細に見ていくと、大まかなイメージだけで語っている部分も少なくありません。例えば、『保護者が感染リスクを恐れて投稿させないケースもある。担任まかせにせず、スクールカウンセラーを含む学校全体で対応しなければならない』という記述がありました。この保護者に、SCが対応するという場面を考えてみてほしいのです。
 子供が恐怖を感じているのではないわけですから、保護者が抱いている恐怖について、話を聞くことになります。いろいろ話しても、保護者は「あなたは医者ではありませんよね。だったら校医の先生を説明によこしてください」というでしょう。そして校医との面談で、消毒や手洗い、マスク着用の効果について聞かされた保護者は、「実際に、全ての子供がマスクをし、休み時間にはきちんとうがいと手洗いをするのでしょうか。熱があるのに登校させる家庭はありませんか、寒い中換気するとしても文句を言う子供もいるのではありませんか」などと、学校の体制や指導について不安を訴えるでしょう。そうなれば、直接子供と向き合い、子供の様子を知り、直接子供を指導する担任が出ていかざるをえません。
 その保護者の子供が在籍する学級には、ほとんど子供を放置している家庭があり、そのことを知っている保護者はその子供から感染することを懸念しているのかもしれません。また、変わり者で有名な保護者がいる家庭もあり、クレーマーとしても知られているその保護者が「うちの子は寒さに弱いので換気は止めて」と言ってくる可能性も心配の種なのかもしれません。そんな個別の事情に答えられるのはやはり担任だけなのです。
 つまり、SCと校医と管理職と生活指導担当主幹で保護者対応をする仕組みを作っても、最後は担任がでなければ保護者を納得させられないというケースは必ずあり、その数は少なくないのです。
 担任一人に背負わせずに全校体制で、ということには私も賛成です。私が教委にいたとしても、同じ要請をするでしょう。でも、実際には、そんなに簡単なものではないのです。良くも悪くも学校というところ、特に小学校は、他の職員やシステムでは補えず、担任に頼るしかないことがある、このことを常に念頭において、効果的な負担軽減策を考える必要があるのです。

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