「若者に思想を」11月9日
沖縄国際大非常勤講師山本章子氏が、『若者にも共有される思想を』という表題でコラムを書かれていました。その中で山本氏は、先の総選挙における沖縄の若者の投票行動について述べていらっしゃいます。『学生の中には「オール沖縄は基地問題ばかりで経済政策が弱いから指示できない」との声がある。求められているのは、若者が、低賃金や非正規労働の問題と同様に基地問題や憲法もわがこととして感じられるような思想なのだろう』というものです。
同じ思いです。しかし、こうした傾向を示す若者を責める気持ちにはなれません。それは、教育の責任だと思うからです。私はこのブログで、主権者教育について再三言及してきました。それは、「政治を分かりにくい、自分たちには関係ないと考えがちな高校生に対して、通学のバスの本数を増やしてほしいというような自分に直接関わりがあることから考えてみよう」というような身近主義を批判する内容でした。
こうした態度で政治と向かい合うことを勧められた若者が、数年後の自分の問題として雇用と賃金にしか目が向かなくなるのは当然です。つまり、身近主義的主権者教育こそ、山本氏が問題視している、憲法や基地問題軽視に結びついているのです。
このように書くと、基地反対運動を推し進めているオール沖縄、革新派支持を押し付けようとしていると受け取られるかもしれませんがそうではありません。私はこのブログで明言してきたように保守派で、自民党支持者です(平成26年総選挙までは)。教員時代も職場でただ一人の非組合員として国旗国歌問題で発言してきました。
長年社会科指導の実践家として経験を積み重ねてきた私が主張したいのは、「社会科は暗記教科であり、生徒は政治の仕組みや憲法、民主主義や人権、自由や法治主義などについて教科書的な知識はもっているが、実際の政治で生きて働く姿に触れていない」という捉え方は間違っているということです。
実際には、民主主義が暴走する恐ろしさ、どのような暴君も最初はヒーロー、救世主として歓迎されたという歴史、立憲制が確立するまでの試行錯誤の経緯などを十分に学習しないまま、歴史や政治の学習を終えてしまっている者が大半なのです。足りないのは、現実の政治の形式的に触れる中途半端な主権者教育ではなく、歴史に学ぶ政治なのです。このことを抜きにして、憲法や人権、平和を考えようとする若者は育ちません。きちんと学んだ結果、基地の建設を認めるというのであればそれは立派な有権者です。
「立場を変える」11月9日
『日本発の迷惑外来種は?』という見出しの記事が掲載されました。『ヒアリが話題になったけど、日本から海外に出て問題となっている生物もいるんじゃない』という疑問に答える記事です。記事によると、『植物のイタドリやクズ、海藻のワカメ、淡水魚のコイなど』が、『世界の侵略的外来種ワースト100』に入っているそうです。
私はこの記事をとても興味深く読みました。こうした事実をはじめて知ったのです。もちろん、私が不勉強な所為もあるでしょうが、そもそも我が国は外来種によって不利益を被っている「被害者」であるという意識が強く、我が国を「加害者」の立場に置くという発想がなかったため、モノやヒトが盛んに行き来する時代であれば、被害も加害も双方向で発生しているはずという、冷静に考えれば子供にでも分かることがみえなくなっていたのです。
実は、こうした「盲点」が、子供の興味関心を惹き付け、探求心をかきたてる「よい教材」開発の鍵を握っているのです。私は社会科を専門に研究する教員、指導主事として、多くの研究授業に関わってきました。おそらく300以上になるはずです。その中で、こうした「盲点」をついた教材開発という事例はほとんど目にすることがありませんでした。私自身についていえば、皆無だったように思います。
私は真面目な研究家であり、実践家でしたが、真面目な分頭が固く、常識で凝り固まり、自らの「盲点」、子供たちの「盲点」、世間の「盲点」に気付く柔軟性が足りなかったのです。記事では、『英政府は、イタドリの根絶費用が15億ポンド(約2300億円)に上ると試算』という数字や、コイもイタドリも観賞用に持ち込まれ捨てられたという事情も説明されています。また、『ほとんどの国ではワカメを食卓に並べる習慣がなく、自然界にもウニなど餌にしている動物があまりいない所で爆発的に増えました』などの記述もありました。
鑑賞や食習慣という、その国の文化や伝統、感性などに関連づける学習もできそうですし、食品としてのワカメの良さを伝え、調理法を伝えれば、一石二鳥の効果的な対策となるのではないかなど子供ならではは発想も生まれそうです。社会科だけでなく、理科や総合的な学習の時間の教材としても期待がもてそうです。
今までも繰り返し述べてきたことですが、教員は頭を柔らかくし、新聞をよく読むことを心掛けてほしいものです。
「大胆」11月7日
劇作家で女優の渡辺えり氏が、人生相談に答えていらっしゃいました。『夫がものを捨てられなくてこまっています(略)ずっと使わないでいる物も、捨てようとすると泣いて怒ります』という相談です。それに対する渡辺氏の回答は、『旦那様が留守の間に古本屋と古着屋に売ってしまってください』というものでした。さらに、後段では、『病的な固執であるのなら、もう旦那様を捨ててしまってください』とも述べていました。
正直なところ、「すごいことを言うなぁ」という感想を抱きました。渡辺氏の回答は、具体的な行動を示し、そのことによる反応によって次の行動も示すという、親切な内容です。しかし、私ならこんな快刀乱麻の切れ味のある回答はできません。話し合うとか、旦那が信頼している人から話してもらうとか、鑑定士にみてもらって価値のないがらくたばかりだと宣言してもらうなどの、微温的な回答をするでしょう。
それは私が長年教委をし、教委に勤務をしてきたからだと思います。学校も教委も組織です。保護者や市民から相談されるとき、話を聞いているのは私一人であっても、相談に対する回答がもたらした結果については、私一人の責任では済みません。校長や教育長、話がこじれて裁判沙汰にでもなれば、市長や知事の責任まで問われかねません。
ですから、どうしてもじっくりと話を聞いた上で、いくつかの選択肢を示し、それぞれの選択肢について予想されるプラスとマイナスを説明し、相手に選択させるという形になりやすいのです。実はそうした態度は、カウンセリング的な手法としては間違いではないのです。
しかし、相談をする保護者からすると、そうした態度よりも「これしかない!」と言い切ってくれる方が頼りがいがあると見えるようなのです。私も相談をする側に立って考えると、同じような感想をもつかもしれません。どうしたらよいか迷っているから相談しているのに、相談した結果更に多くの選択肢を示され迷うことになるのでは、不満が募るのも理解できる話だからです。
でも、組織人としてそれはできないのです。カウンセリングの考え方からも外れます。とはいえ、選択肢提示法では、頼りないと思われるし、と当時の私は悩んでいました。最近の傾向として、すべてを黒か白か、敵か味方か、などグレーゾーンを認めずに割り切ることを好む傾向が強まっていると言われています。後輩たちは私以上に、相談者への対応に苦慮しているのでしょうか。
「いいとこ取り」11月8日
『論点』欄で、『英語教育のあり方』というタイトルで特集記事が組まれました。識者へのインタビュー記事ですが、さすがに参考になる意見が盛り込まれています。もちろん、それぞれに対立する考え方なのですが、私の著書「断章取義」そのままに、いいとこ取りをしてみたいと思います。
まず、小説家水村美苗氏です。米エール大を卒業後、プリンストン大で教鞭を執っておられる水村氏は、『日本が英語の世紀を生き抜くには、さまざまな「バイリンガル戦士」が絶対に必要ある。国際会議や貿易交渉の場で、日本のために公平に戦える人。さらに、力強い文章で真実を訴えられ、人類のために戦える人。だがそのような人は少数で構わない』と語っていらっしゃるのです。私がこのブログで繰り返し語ってきた、広く薄く中途半端に英語教育を実施して、その分他の教科について支障が生じることを避け、国家戦略としての英語エリート養成制の勧めです。同じような主張は他の方もなさっています。
次に、米ペンシルベニア大准教授バトラー後藤裕子氏です。バトラー氏は、『大学入試でスピーキングの力を本当に測らないといけないのか。世の中は英語が必要な人ばかりではない。それぞれの将来の目標に沿ったスピーキング能力を大学で身に着け~』と語られています。バトラー氏は、小中高における英語教育拡充について、適切ではないと言っているのです。事実上義務教育化している高校までは、英語の基礎を学び、大学生になり具体的に自分の将来像を描けるようになった段階で、それに相応しい英語教育を受ければよいという発想です。研究職に就くのであれば、英語の論文を読める能力を身に着けることは不可欠でしょうが、伝統工芸士を目指すのであれば、必ずしも英語の優先順位は高くないのですから。
水村氏とバトラー氏は、選抜制で英語力強化という点で一致しています。違いは、水村氏は、国力という観点から述べ、バトラー氏は個人の必要性という視点から述べているという傾向が伺えることと、英語教育拡充の時期について、水村氏は特に触れていないのに対し、バトラー氏は大学でと述べている点だけです。
また、バトラー氏は、『会話力偏重の傾向にも問題がある(略)外国語でメールをやりとりしたり、ネットにあふれる外国語の文字情報を読んで理解したりする機会は減らないだろう』と述べ、英語教育においては読み書き能力の基礎をしっかりと固めることが必要であると言っています。留学時、ほとんど英語を話すことができなかった学生が、3カ月で急速に会話力を身に着けた背景には、母国で英語の読み書きの基礎をしっかりと身に着けていたからだ、というご自身の体験でこの考え方を補強しています。
これも、私の、必要とされる英語力を具体的に想定して英語教育の内容を決定すべきという主張に重なります。外国人観光客に道順を教えることができるというようなレベルを想定した英語教育とビジネスの場で英語で書かれて膨大な契約書を読みこなすレベルと想定した英語教育はまったく異なるのですから。
実際に英語を生活と仕事の中で使っている方の発言に留意して英語教育を考えることは有意義なはずです。
「お茶くみゴミ捨て」11月6日
『働き方改革 部課長板挟み』という見出しの記事が掲載されました。『働き方の見直しを啓発しているNPO法人「ファザーリング・ジャパン」の調査』結果を報じる記事です。『従業員50人以上の企業の部課長クラス約1000人が回答した』そうで、記事によると、『「業務が減らない」「部下は帰すが自分が残業している」』などの声が寄せられているということです。
よく分かります。私が教委に勤めていた頃、いつも一番先に出勤していました。出勤すると、まず、お茶用のお湯をくみ、ゴミ捨てをし、机を拭くのです。昼休みになると、部下は全員食事に出ますが、私は電話番を兼ね、自分の席でパンやおにぎりの昼食を摂っていました。退勤時刻が過ぎると、部下には早く帰るように促し、特別に用事のあるとき以外は、最終退勤者となるのが普通でした。
私だけが特別だったのではありません。つれ合いも教頭時代には、朝は勤務時間の1時間前には出勤し、校内巡視を終えてから教員たちを迎えたものでしたし、退勤時刻を過ぎると、居残った教員たちとの雑談に付き合い、教員たちが帰ると、警備員に声を掛け、近くのラーメン屋で夕食を摂って学校に戻り、事務仕事を始め、帰宅は日付が変わる頃でした。一足先に帰宅していた私が、自転車を漕いで駅まで迎えに行き、いけないことですが二人乗りで帰ってくることもよくありました。
記事は、『企業は働き方改革の号令を掛けるだけで現場に丸投げするのではなく、トップが経営方針として打ち出し、具体的で適切なサポートをすることが大事だ』という言葉で結ばれていましたが、まったくその通りだと思います。
教員の働き方改革というと、ブラック部活やMP対応、会議の多さや提出書類の多さなど、教員の多忙さが問題になりますが、実は教頭・副校長という中間管理職層こそが、最もしわ寄せを受けているケースが多いのです。教委には、学校を直接支える指導主事や指導室長に業務が集中するという体質があります。
外部からは目に見えにくい、そして当事者が我慢強く声を上げない、こうした人たちへのサポートを考えてほしいものです。
「フラット」11月6日
『上司と部下 置かない職場』という見出しの特集記事が掲載されました。「ホラクラシー」について報じる記事です。「ホラクラシー」というのは、『組織内の立場が対等なため、上が命令するのでなく、自立した各現場での話し合いにより意思を決定でき、速やかに行動できるのが特徴』な非階層組織のことだそうです。
実際に導入している企業等では、『現場のことは現場が最も詳しい』『当事者意識を持ち、責任とやりがいを感じてこそ成果が上がる』『従来型の会社で働きにくい人たちが活躍』『立場に関係なく、必要なことを話し合える』『テレワークにも向いている』などの肯定的な見解が聞かれるようです。
「ホラクラシー」という言葉は初めて耳にしましたが、これはまさしく私が教員になった頃の学校の姿ではないか、という感じがしました。学校組織を表す言葉に「鍋ぶた型」があります。鍋のつまみの部分が校長と教頭で、あとは全て横並びという意味です。
学年のことは学年会で決める、というのが当然のやり方でした。例えば遠足について言えば、学年会で相談し、「実地踏査に行ってきます」と教頭に声を掛けるだけで、実地踏査に出かけ、交通機関の手配をし、教委に提出する行事届を書いて、「公印お願いします」と言うと、教頭がろくにないようも見ないまま押印してくれる、という具合だったのです。
資料集などの補助教材の選定、学芸会や運動会の演目、学年便りの内容、保護者会の内容、全て管理職は実質ノータッチでした。私の記憶に間違いがなければ、右も左も分からない新卒の私でさえ、管理職から「命令」を受けたことはありませんでした。アドバイスを受けたり、事後報告を求められたことはありましたが、それだけでした。
職員会議を、最高意思決定機関だと主張する教員もいるくらいで、校長の意思よりも職員会議における多数決が重みをもつような現状でもありました。私が赴任した学校は、「組合立学校」と揶揄される職員団体の拠点校でしたから、全ての学校が校であったとは言いませんが、学校というものが、とてもフラットな組織、記事で言う「ホラクラシー」的な状況であったことは間違いありません。
そしてこうした現状が、「組織体として機能していない」という批判を浴びるようになり、職員会議の補助機関としての位置付けの明確化、主幹・主任制度の導入などの改革が行われ、いわゆる「管理強化」が進められてきたのです。
私自身は、元々「反職員団体」的な発想の持ち主であり、教委に入り幹部になっていった経歴からも明らかなように、「管理強化」の動きを推し進めてきた人間です。それは間違っていなかったと思っています。しかし、今、働き方改革の一環として「ホラクラシー」が最先端の改革として評価されつつあるという記事を目にすると、自分のしたことは何だったのか、という気分になります。
学校教育行政の場でも、「ホラクラシー」は課題になっているのでしょうか。
「花形」11月5日
書評欄に、ダニエル・コーエン著『経済成長という呪い』について、松原隆一郎氏が書かれた書評が掲載されていました。その中で松原氏は、『AIが「二歳児とサッカーをする」たぐいの作業を不得意とする』という言葉を引用し、その理由として『数学的推論は高等に見えて最近の創造物であるのに対し、「感覚と運動の調整」は人類が進化の途上で数百万年をかけて習得した複雑なフォーマットによるから置き換えられないらしい』と書かれています。
なるほど、です。AIの進化により多くの職が人間の手を離れ、失業者が増えると言われています。しかし、「二歳児と~」は最も遅くまで人の仕事として残るというわけです。著者は「~」にサッカーをするを当てはめていますが、サッカー以外に、話し相手になる、遊ぶ、食事を摂らせるというような言葉を入れても、成り立ちそうです。そこで必要となるのは、合理的な推論ではありませんから。
以前にもこのブログで、大学教授の職はAIに取って代わられても、幼稚園や小学校教員の職はAIで代替することはできない、という見解を紹介しました。それはつまり、コーエン氏が言うところの「数百万年をかけて習得した複雑なフォーマット」がなければ成り立たない職だからということなのです。
ということは、保育士や幼稚園・小学校の教員という職は、様々な能力を複雑な組み合わせで駆使することによってやり遂げることができる「高度な仕事」だという見方もできるわけです。いわば、これからの花形職業なのです。
世の中には、様々な花形といわれる職があり、人々の羨望の的になってきました。CAであったり、弁護士であったりしましたが、今ではCAは重労働であることが敬遠され、弁護士も年収300万円以下で生活が苦しい若手がいるなど、かつての輝きを失いつつあります。
そこで、これからの時代の花形は、AIに脅かされることのない、教員だという認識が拡がれば、今まで以上に優秀な人材が集まってくるのではないでしょうか。「あなたも20年後のエリートを目指して」という謳い文句で教員募集をする教委が現れるかもしれません。99%は冗談ですが、1%の真実が込められているのではないでしょうか。
「自分が得をする」11月4日
『保湿薬 処方制限しないで』という見出しの記事が掲載されました。『美容目的の不適切な使用が横行している』と問題になっている保湿塗り薬の処方制限を巡る動きを伝える記事です。
記事によると、『この薬は雑誌などで「美肌になれる」と紹介され、医療保険を使って安く入手できるため処方を求める女性が急増(略)アトピー性皮膚炎など治療を伴わず単独で処方する場合は保険適用外とすべき』という意見に対し、『がん患者が処方を受けられなくなる恐れがある』と患者団体から懸念が示されているそうです。
私はこの記事を読んで、主権者教育の在り方を考えさせらられました。どんな関係があるのかと首を傾げる方もいらっしゃると思いますが、キーワードは、視野の狭さと利己主義です。
今、選挙権が18歳から認められるようになったことを受け、主権者教育が注目されています。そこでは、「政治は難しい」と考える高校生に対して、自分の身近なことから考えようという、自分にとって望ましいのはという視点で選択しようという、身近主義が蔓延っています。
私はこうした風潮を疑問視し、民主主義や立憲主義、自由と権利など、根本的なことについて、歴史的な経緯を踏まえきちんと学ぶことが大切だと主張してきました。そうでないと、近視眼的に損か得かが基準になってしまい、それは民主主義を破壊すると考えたからです。
保湿薬を美容目的で処方させる行為は、近視眼的には、自分にとって得になる行為です。国民健康保険の3割負担制を「活用」すれば、市販薬を購入するのに比べ格安で入手できるのですから。賢い選択、生活の知恵なのかもしれません。しかし一方で、こうした「活用(悪用)」が拡がれば、我が国の大きな財産である国民皆保険制度は崩壊してしまいます。そうなれば、長期的には大損害を被るのです。これが視野の狭さと指摘したい点です。
また、自分は得をしたかもしれませんが、本当に保湿薬を必要としているがん患者たちは、治療や生活に支障を来してしまう結果となってしまうのです。少し考えれば、分かることです。でも、自分さえよければ見たこともないがん患者などどうでもよいという考え方です。そこには社会の構成員としての連帯感はありません。しかし、この連帯感は、健全な社会の構築と運営のためには不可欠なものであり、公民にとって不可欠な資質なのです。
もちろん、主権者教育がこうした不正行為を生んだわけではありません。両者の間には因果関係は存在しないでしょう。でも、身近主義に基づいた主権者教育が続けば、こうした視野狭窄・利己主義をさらに助長することにつながるような気がします。小さな記事ですがとても気になりました。
「教員の目」11月4日
浦幌町立上浦幌中央小学校長野上泰宏氏が、『作物の生命力に子供感動』という表題でコラムを書かれていました。その中で野上氏は、学校農園のトウモロコシについて、『台風18号の強風でほとんどのトウモロコシが倒伏(略)子供たちは落胆したが、いざ収穫の際には、倒れていてもしっかり大地に根を張る作物の生命力に感動していた』と記述なさっています。
台風によって倒伏した作物から、野上氏は、生命力に着目されたようです。ですが、他の見方も可能です。このことを命の尊さをテーマにした道徳の教材に組み立てることができそうです。また、収穫の際の『全然びくともしないよ』という子供の感想から、農作業の大変さに結びつけ、社会科の「我が国の農業」の学習のきっかけにすることもできるかもしれません。もちろん、植物の生育として、理科の教材にもなり得ます。
さらに、北海道で台風被害ということですから、異常気象←海水温上昇←地球温暖化という問題追究過程を組めば、総合的な学習の時間として、温室効果ガス排出の仕組みという理科的なアプローチを考えたり、トランプ大統領のパリ条約離脱など国際理解や政治といった社会科的アプローチも構想可能です。
今、学校教育に対しては、教科書の記述をそのまま辿るような学習ではなく、アクティブ・ラーニングが求められています。そのとき重要になるのが、子供の目の前の事象を教材として再構成することです。それこそが、授業の専門家である教員の仕事です。今述べてきたように、作物の倒伏という一つの事象について考えてみただけでも、様々な教材化の可能性があるのです。教員は、日頃からアンテナを広げ、自分が目にし耳にした事象の関心をもち、「もしこのことを授業で取り上げるとしたら」と考える癖をつけておくことが必要です。そうした習慣なしに、アクティブ・ラーニングは成り立ちません。要は、教員自身が能動的な学習者になることが求められているのです。
「個から」11月3日
レスキューストックヤード代表理事栗田暢之氏が、『命を守る 防災の現場から 復興支援 個から地域へ』という表題でコラムを書かれていました。その中で栗田氏は、『次世代にどんな町を残していくかを示していかなければならない。この意味で、今なお仮設住宅に入居されている方々に代表される、「被災者」という個の支援に加え、「地域」という面の視点による支援が必要とされている』と述べられています。
確かにそうです。何かのトラブルに直面したとき、直接の被害者に対する救済が必要なのはもちろんですが、そこで終わってしまうというのはよくあることです。しかし、人は社会的な存在です。自分の傷が塞がれば、それだけでもとの生活に戻ることができるわけではありません。依然と同じような、仲間、人間関係が存在してこそ、再び同じ歩みを始めることができるのです。
こうした「個から○○へ」という発想は、学校教育を考える際にも重要です。例えば、深刻ないじめ問題が起きたとします。被害者は自殺未遂で病院に運ばれ、事実確認のための調査が行われ、子供同士の間には犯人探し、加害者告発による疑心暗鬼が生じ、保護者は不確かな情報に右往左往し、教員は外部からの非難の嵐の中で萎縮し、というような状態です。
このとき、今までの例からすると、第三者委員会が設けられて調査が行われ、スクールカウンセラーが増員されて悩みや不調を訴える子供のケアに当たり、保護者向けには説明会が複数回開かれると同時にPTA役員などを通じて騒ぎを収めるような働きかけがなされる、というような動きがみられます。それが悪いというのではありません。私も教委勤務時代に似たような対応をしてきました。
しかしそれだけに止まることなく、混乱した学校が、来週には、来月にはどんな姿になっているか、少しでも明るい前向きなイメージがもてるように、子供と教員が作る学校というもの全体に対する支援が必要であるように思います。
新たに具体的且つ短中期的な目標を掲げる、立ち直りを象徴するようなイベントを企画し取り組む、調査や懲罰的な役割を担う機関ではない外部協力機関を立ち上げる、教委が監視を強化し詳細な報告を求める役割から人や物の支援を強化するなどが考えられます。特に教委の対応が大切になります。私が勤務した教委では、嘱託の職員を派遣し、問題のあった学級を支える対応を取りました。些細なことですが、教委が学校を責めるだけではなく、これからの立ち直りに力になれることはありますか、と尋ねるような発想が重要だと感じたものでした。
管理叱責する教委から、支え共に歩む教委へ、難しいですが模索し続けることが大切です。