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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

風土と性格

2014-11-10 07:32:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「風土と性格」11月6日
 読者投稿欄に、大阪府の大東明弘氏の『教育委員への恫喝許せぬ』という表題の投書が掲載されていました。数日前にも同じ趣旨の投書があり、取り上げることにしました。大東氏は、『女性教育委員に対する威圧的な発言が問題となった大阪府の中原徹教育長は、教育界に籍を置く人間としては失格』とし、中原氏について、『「誰のおかげで教育委員でいられるのか。罷免要求出します」という発言は恫喝』『府教委の課長たちからも「ワーッと言わないでほしい」「部下の話を聞いてほしい」などと13項目もの問題点を指摘された』と具体的に問題発言を紹介しています。
 私は、アンチ中原ではありません。中原氏が府立高の校長時代に行った口パク検査についても、以前にこのブログで擁護しています。それでも、中原氏の今回の発言には驚いています。しかし、この問題を正確に理解するためには、ただ中原氏を非難するのではなく、華原氏個人の資質の問題と大阪府庁の風土の問題とに分けて考える必要があります。
 まず、課長への対応ですが、中原氏の個人的な資質、自分に対する過大評価、部下を職務運営のパートナーではなく指示通りに動くロボット視している独裁者体質、などが要因として占める部分が大きいように思われます。
 一方、教育委員への恫喝については、大阪府庁の風土が大きな影響を及ぼしていると思われます。なぜなら、教育長よりも教育委員の方が「偉い」という事実があるからです。従来の一般的な教育委員会制度下では、教育長も教育委員の一員ではありますが、他の教育委員が、教育委員会のトップである教育委員長になることがある(一般的には委員間の互選制)のに対し、事務局トップという位置づけの教育長は教育委員長には就任できない、一段格下の教育委員なのです。もちろん、実質的権力は教育長が優っているのですが、あくまでも格下なのです。
 さらに、教育委員を辞めさせることは、教育長にはできません。教育委員は議会の同意を得て任命されているのですから、教育長ごときが罷免できることはありません。しかし、大阪府の場合、絶対権力者である知事と陰の実力者である橋下大阪市長、2人が牛耳る府議会の維新勢力という政治家集団と密接な関係があるということ、しかもその政治家集団が教育行政への積極介入を是としているという背景が、中原教育長の問題発言を可能にしているのです。
 より重視し問題にすべきはどちらなのかといえば、答えは明らかだと思います。よいことではありませんが、トップが部下の話を聞かず独走しようとするというのは、どこの組織にもあることです。私も、ずいぶん難しい上司に仕えたことがあります。
 一方、教育長が教育委員を恫喝するなどという「下剋上」は、ほとんど目にしません。異例中の異例なのです。大阪府、維新の会、橋下代表という土壌でのみ起きる出来事なのです。今は、大阪のみですが、今後各地で「教委改革」が進み、ミニ橋下、ミニ維新が教育行政への関与を深めていけば、全国共通の減少となっていくのです。私は、中原氏の個人的資質の問題に矮小化し、中原氏を攻撃して溜飲を下げて終わりにはしてほしくありません。

 

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難しい注文

2014-11-09 08:26:46 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「難しい注文」11月5日
 精神科医の香山リカ氏が、『スマホない間、心配りを』という表題でコラムを書かれていました。岡山県教委が、9時以降のスマホやゲームを禁止する方針を示したことについてのものです。その中で香山氏は、『取り上げるだけでは、かえって逆効果』『「家族で音楽聞こうか」「こんな本、あるけど読んでみない?」など、「ああ、スマホより楽しいな」と子どもの心が満たされるような何かを、最初のうちはまわりの大人が用意しなければならない』と書かれています。
 その通りだと思います。しかし、そうではあっても、そうした心配りができる家庭は非常に少ないと思いますし、そもそも、そうした心配りが出来る家庭の子供は、スマホ中毒状態にはなっていないケースがほとんどだと考えます。
 私が教員だった時代には、スマホも携帯もありませんでした。しかし、私は香山氏のコラムを読んで、読書習慣を身に着けさせることについての保護者とのやりとりを思い出しました。「うちの子はいくら言っても本を読もうとしないんです」「本を買ってやるんですが、置いてあるだけで手に取ろうともしないんです」。こんなことを言う保護者が少なくありませんでした。そうした保護者に、「お母さんやお父さんは、家で本を読まれますか」と訊くと、ほとんどの保護者が読んでいないのでした。
 香山氏は、『子どものスマホを預かって、保護者がスマホでのゲームに夢中で会話もしない』ことがあってはならないと、保護者への警鐘を鳴らしていますが、正に「子供には本を読みなさいと言っておいて、保護者はテレビを見て笑っている」という状況だったのです。
 子育ては、説得や指示、命令で行えるものではありません。大人が自らの言動で手本を示す、いわゆる「後ろ姿で示す」ということを抜きには成功しないのです。それは、保護者だけでなく、教員も同じです。保護者は子供への愛情によって自らを律し、教員はプロの責任感によって己を律するのです。この覚悟を持たない者は親になってはいけませんし、教員になってもいけません。しかし、最近、子供と一緒の時も、ペットを散歩させているときも、スマホだけを見つめている大人をよく見かけます。私の教員時代よりもさらに状況は悪化しているのです。
 私は、「後姿の教育」についての覚悟なく教員になり、その重要性に気付くのに10年以上かかりました。もし今、22歳に戻れたら、もう一度覚悟をもって教員生活をスタートさせたいとしみじみ思います。

 

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東京から

2014-11-08 07:58:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「都市目線」11月4日
 上智大准教授の宮城大蔵氏が、『「普天間問題」の行く末』という表題でコラムを書かれていました。その中で宮城氏は、『毎日新聞も全国紙の一つだが、「全国」といいつつ政治経済、中でも外交安全保障は政府当局者のいる東京中心になりがちである』と書かれています。
 私は東京生まれの東京育ち、生まれてから今まで一度として東京23区の外で暮らしたことがないという東京モンです。ですから、東京=日本的な発想が染みついているはずです。そうした目で改めてこのブログを振り返ってみると、正しく東京目線で学校教育を語っていたことを再認識させられました。
 私は、このブログを、学校や教委の現場を知らずに学校教育や教員について論じている世間に対して、その両方を体験してきた経験を生かして、実際はこうなんですよ、それは机上論にすぎませんよ、と異なる見方、捉え方を示すというつもりで書いてきました。しかし、その「現場の現実」が、東京に偏り過ぎていたということです。
 私だって、東京以外の地域の学校んついて全く知らないわけではありません。視察に行ったり、他の都道府県の教委や学校からの訪問を受けたりした経験から、同じ日本の学校でもこんなに「常識」が違っているんだと感じたことも、枚挙に暇がありません。
 教員の自家用車がずらりと並ぶ校庭を見たときの違和感、校長室で足を机の上に載せたまま遠来の客である私を迎えた校長の「偉さ」、指導主事が学校の主任に戻るという人事システムへの驚き、県立の教育センターに指導主事が10名以下しかいなかったときの戸惑い、某県において同和教育の担当となることが「出世」の絶対条件となっていることを知ったときの複雑な気持ち、どれも生々しく記憶に残っています。
 しかし、あくまでも部外者として、数時間、せいぜい数日訪れただけの体験は、私にとって学校教育について考える際の血肉とはなりませんでした。とはいっても、このブログを止めるつもりはありません。全国共通の問題提起も多いはずですし、一部は、東京目線の、という注釈つきで考える材料にしていただければと思うからです。先週、通産の閲覧数の50万を超えました。100万目指して続けていくつもりです。
  ところで、「識者」の方々に、東京目線の偏りはないでしょうか。

 

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偶然を当てにしない

2014-11-07 07:41:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教材」11月4日
 教育問題について触れられることの多い専門編集委員の玉木研二氏が、『生きた教材』という表題でコラムを書かれていました。道徳教科化について語られている内容は概ね共感できるものでしたが、『現実の問題はもつれた糸のようになって起きる。教師がしばしば落胆、悲嘆しても、しぶとく、しなやかに応じることが生きた教材ではないか』という記述については、首を傾げてしまいました。
 玉木氏は、問題行動を重ねる子供への対応に苦悩する教員の姿が、子供に好ましい影響を与えることもある、だから教員は子供の前で取り繕う必要はない、というようなことを述べたかったのだろうと思われます。私自身の経験からしても、玉木氏の指摘を否定することはできません。ただ、玉木氏が使われている「教材」という言葉が気になって仕方がありません。
 私が専門としてきた社会科では、社会事象を教材化するという言い方をします。高齢化という社会事象、ヘイトスピーチという社会事象、原発事故という社会事象、いずれも良い教材となる可能性を秘めた社会事象です。しかし、そのままでは授業で取り上げることはできません。例えて言うならば、生きている松阪牛をレストランに連れてきて、お客さんに料理を提供しろと言われているようなものです。サーロインステーキにするにしろ、すき焼きにするにしろ、その前にいくつもの工程を経ていなければなりません。いくら素材が良くても、加工処理の工程は欠かせません。
 社会事象も同じです。小学校で扱うのか、中学校なのか高校なのか、同じ中学生でも、1年生と3年生では違うはずですし、5時間の単元にするか、15時間にするかでも違ってきます。
 また、ねらいによっても違ってきます。ヘイトスピーチを表現の自由を考えるというねらいで教材化するのか、日韓の歴史を考えるという趣旨で教材化するのか、人権侵害という視点から教材化するのかによって、重点の置き方が変わってきます。
 つまり、子供の発達段階、授業のねらい、授業時間等によって社会事象のどの部分に光を当てるかを決め、その方針に合わせて情報を集め、集めた情報を子供が理解できる形に加工し、子供の発達段階から見て子供が自ら取材調査できる調べ活動を設定し、評価の視点を定め、学習指導計画を作成するという一連の作業、子供や保護者の目には見えにくい作業を「教材化」と呼んでいるのです。
 これは他の教科についても同じです。理科であれば社会事象が自然事象に変わるだけですし、算数・数学であれば数学的思考を促す状況設定を、国語であれば「文章」を対象とすることになります。ですから、同じ17文字の「さみだれを集めてはやし最上川」であっても、小6で扱うのと高3で取り上げるのとでは、教員の準備は異なるのです。話が少しそれてしまいますが、こうした教材化の過程が存在することが、高校の古文の教員であれば小学校でも授業ができるというわけではない、ということの理由でもあるのです。
 学校教育は意図的計画的な営みです。そのことが端的に表れているのが、どの教員も授業の前に行っている教材化であり、教材研究なのです。ちなみに、教材研究とは、既に先駆者によって教材化されているものを再度目の前の子供に合わせ、費やす授業時間に合わせて再点検することです。
 玉木氏がコラム中で使われている「教材」という言葉には、こうした意図的計画的なイメージがありません。偶然に依拠したイメージです。それは「教材」ではないのです。学校教育は、偶然に頼って行われるようないい加減なものではないのです。それでは説明責任を果たすことはできませんし、授業や教育活動を評価することもできません。
 教育活動が、当初は意図していなかった効果を上げることは少なくありません。でもそれはあくまでも「おまけ」であり、「幸運」だと考える必要があります。

 

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悪い個性

2014-11-06 07:38:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「悪い個性」11月2日
 読者投稿欄に、熊本市の高校生M氏の『道徳の教科評価納得できぬ』という表題の投書が掲載されました。その中でM氏は、『個人の考え方や個性を否定する可能性がある』と述べ、道徳「科」における評価に反対しています。
 道徳の評価の問題についてはたびたび触れてきたので、ここでは繰り返しません。ただ、M氏の意見を拝見して、20数年前の「論争」を思い出してしまったのです。当時、学校教育では、個性尊重が声高に叫ばれていました。私は指導主事試験を受験していたのですが、論文試験の練習でも、「個性尊重」や「個性重視」に関わる出題が多かったものです。
 誰も彼もが、個性を伸ばす教育、個性が輝く学校、などというスタンスで「論文」を書いている時代でした。そんなとき、講師を務めるある校長らが口にしていたのが、「個性には良い個性もあれば悪い個性もある」「悪い個性は早いうちに剪定して矯正しなければならない」ということでした。つまり、個性というものを無条件に「善」としてはならない、それでは教育という営みが存在する意味がないということです。
 考えてみれば当たり前のことです。自分と考え方が違う人間は殺してもよい、という考えをもっている人に対して、「それも君らしい考え方だね」と受け入れる教員はいないでしょう。まあ、「イスラム国」にはいるかもしれませんが。
 そこまで極端ではなくても、ばれなければ嘘をついてでも利益を得るようにするのが賢い生き方である、という考え方をもっている子供に対して、正直の価値を教えることを問題にする人はほとんどいないでしょう。電車やバスで、高齢者がいるのに席を譲ろうとせず「自分は自力で座る権利を手に入れたんだ。座りたかったらその分の金を出せ」と言う若者を目にしたら嫌悪感を感じる人がほとんどでしょうし、我が子にはそうはなってほしくないと考える人が圧倒的に多いはずです。そして、そう考える親たちは、学校で教員に思いやりや助け合いを重視した指導を求めるでしょう。
 人間は、生物としてのヒトとして生まれ、社会的存在としての人になっていくのです。そのための営みを広義の教育と呼ぶのです。もちろん、何を人としての「善」とするかは、絶対的な基準があるわけではありません。実際、最大のタブーである人殺しでさえ、ある時代、ある地域や集団においては肯定される考え方でした。しかし、少なくとも現代の我が国において、ほぼ万人が受け入れる「善」はあります。それに反する考え方をもっている子供がいるとしたら、様々な機会と方法を用いて矯正を図ることは多数の支持を得られると思います。
 個性や考え方を断固として否定する強い姿勢も、教育には求められることがあるのです。

 

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もう一つの未来への想像力

2014-11-05 07:44:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「数値万能主義の落とし穴」10月30日
 論説委員の落合博氏が、『好ましくないこと』という標題でコラムを書かれていました。その中で落合氏は、学校におけるいじめや暴力行為の状況が改善されていないことを理由に財務省が求める40人学級復活について触れ、『いじめと暴力行為は「認知件数」で、不登校は「発生件数」であることの違いを知らないと誤解する。前者は教師が見て見ぬふりをすれば関数は限りなくゼロに近づけることができる。逆に根絶に向けた取り組みを進めれば問題は見つかりやすく、件数は増える。だが、後者は見ないふりはできず、客観的な把握ができる。認知件数が増え、発生件数が減ったことは好ましいことなのだ』と「数値」の捉え方の視点から、財務省批判をしています。
 その通りだと思います。落合氏の主張に沿って言えば、いじめと暴力行為については、「認知件数」に併せて「解決件数」を明らかにし、5年間なり10年間のスパンで、「認知件数」に占める「解決件数」の割合の変化を見るようにしていけばよいということになります。不登校についても同様に、「発生件数」に占める「解消件数」を見るようにすることが適切であるということになります。
 しかし私は、そうしたとしても、それらの「数値」で35人学級という施策の効果を評価するのは間違っていると考えます。そもそも、今まで述べてきた考え方の根底には、「40人学級制を継続していたとすれば、いじめも暴力行為も不登校も前年度並みで推移してきたはずである」という前提があります。だから、より多くの予算(人件費)を投入した以上件数が減らなければならないということになるわけです。
 話が飛躍するようですが、私の母はアルツハイマー型の認知症です。現在の医学では、アルツハイマーを治す医療行為は存在しません。母は、メマリーとアリセプトという薬を処方されていますが、これらの薬には、アルツハイマーの症状を改善させる効果はありません。ただ、病状の進行を遅らせる効果があるだけです。つまり、メマリーとアリセプトを処方しても、認知症は進行し、患者の要介護度は重くなるばかりなのです。だからといって、無駄だからメマリーとアリセプトの服用をやめさせろという人はいないはずです。これらの薬があるからこそ、母は発病して4年たっても、まだ簡単な会話ができるのですから。もし、メマリーとアリセプトがなかったら、今頃は母寝たきりで一切会話が不能になっていた可能性が高いと思われます。
 35人学級制は、メマリーやアリセプトと同じかもしれません。いじめや暴力行為の認知件数を減らすことはできなかったけれども、もし40人学級を継続していたらもっと状況が悪化していたのに、それを防いでいたのかもしれないのです。
 見えない仮の未来について考える想像力が必要です。想像で血税を投入することはできないというのであれば、諸外国の例や私立校の例、学級の児童生徒数と学校不適応の関係調査、子供や保護者へのアンケート調査、など様々な方法で想像を裏付ける研究に取り組むべきです。教育学者の奮起をき期待したいものです。

 

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非公式統計

2014-11-04 07:46:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「公にはできないが」10月29日
 『密売も経済活動!? 欧州、GDPに算入』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『違法薬物の販売、売春、酒・たばこの密輸~(中略)~欧州各国は、今秋から地下経済の活動が生み出したお金を算定し、GDPの統計に反映させ始めた』というのです。こうした措置には、賛否両論あるようですが、その是非は私には判断不能です。
 ただ、記事に付けられた別表『主要国の地下経済の規模』を見て、各国経済に占める地下経済の割合が、ロシアで40.6%、韓国で24.7%、イタリアで26.7%ということを知ると、実態把握には、公の統計では分からない「裏」の部分も含めて考える方がよいのではないかとも思い始めました。
 正しい施策や対策は、正しい実態把握から生まれるものです。そう考えれば、「裏」や「地下」を見て見ぬふりすることは、かえって不誠実な態度だともいえそうです。そこで、学校の授業についての実態が問題となります。
 授業参観や研究授業では、「裏」や「地下」といったものはありません。しかし、普段の授業では、教科内容に関係のない「雑談」がある程度の時間を占めているケースは珍しくないはずです。私自身、教員時代にそうした経験がありますし、他の教員の授業についても、子供の口から様々な「雑談」の存在を知ることができました。また、著名人の方が「学校の思い出」のようなことを語ったり書かれたりした中でも、「雑談」の存在感を知ることができます。
 つまり、ある教員の授業において、週案簿上は社会科の授業が、45分×3回で、135分間行われたことになっていても、実際には、社会科の授業内容として相応しい内容に費やされたのは97分であり、社会科と関連はあるが判断が難しいものが21分、社会科と全く関係性が認められない内容が17分であった、ということは十分あり得るのです。
 もし、こうした実態を放置し、無視したまま、この内容に対して想定されている指導時間は十分ではないという結論を出してしまったとしたら、そこからは間違った対策が打ち出されてしまう可能性が高いでしょう。
 一方、「雑談」をハンドルの遊びのようなものとして、一定の効用を認める立場もあり得ます。教員の中にも、教員の授業力として自分の雑談力を含めて考えている者が少なくありません。雑談で子供を引きつけている、雑談で子供との距離を縮めている、と考えているのです。しかし、それは間違いであり、こうした考え方を認めてしまうと、大事なことは教科書を読んで終わりにし、授業の大半を雑談で終え、子供が集中して自分の話を聞いていたと自己満足に陥ってしまう教員が増えてきてしまいます。実は、指導力不足教員の中にこうしたタイプが少なくなかったのです。
 学校ごとにすべての教員について日常的に授業を録音し、授業の中に占める雑談等の「裏」や「地下」の時間を算出して、真の授業時間を明らかにしたら、授業の実像はどのように変わるか、興味深いものです。

 

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創意工夫か、野放しか

2014-11-03 07:39:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「勘違いしていないか」10月29日
 『性的マイノリティー 「授業で触れず」教員8割』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『性的マイノリティーについて、学校の授業で扱った経験がある教員は約14%にとどまる』ことが明らかになったそうです。さらに、『「性同一性障害について教える必要があると思う」と回答した教員が約73%に上った』という結果も示し、『どのような教科でもよいから授業で触れたり肯定的なメッセージを伝えたりするだけで、当事者の子供は孤立から救われる』という識者の声を紹介しています。
 私は子の記事を読んで、何を訴えようとしているのかが分かりませんでした。私は個人的には、LGBTについて、学校の授業の中できちんと教え、考えさせるべきだと考えています。それは、最近そうした考えをもつようになったのではなく、教委勤務中に人権教育を担当していたころから、約20年間変わらぬ思いです。
 しかし、もし、この記事が、性的マイノリティーについて授業に取り入れる必要を感じている教員は、積極的に触れるようにすべきだ、という主張をしているのであれば、それには反対です。授業は、教員が自分の考えや思いによって内容を決めてよいものではないからです。
 各教科の授業は、学習指導要領の制約を受けますし、授業内容の決定に際しては、各校の年間指導計画を無視することは許されません。さらに、授業の実施に当たっては、週案という形で校長の承認を得る必要があるのです。そうした手順を踏まずに、教員個人が、これは大切なことだから授業で教えるという行為を認めることは、「偏向教育」を認めるということにつながってしまうのです。
 私は、教委勤務中に、多くの「偏向教育」を行う教員を見てきました。社会科の授業で、日本にある米軍基地の問題を数か月も扱った教員、家庭科の時間に食の安全を考えるということで食品添加物や遺伝子操作をした農作物の問題を半年近く取り上げた教員などです。食の安全も、米軍基地の問題も、大切でないのかと問われれば大切だと答えるしかありません。しかし、教科内容全体の中のバランスを失してはいけませんし、取り上げ方に偏りがあってはなりません。だからこそ、こうした教員の実践を肯定できないのです。
 性的マイノリティーの問題も同様です。これを教員個人の自覚や使命感に委ねてはいけないのです。性的マイノリティーに関する指導の充実を求める記事は、文部科学省や各都道府県教委、市区町村教委に対して、指導理念、各教科・道徳・特別活動・総合的な学習の時間の関連を示した全体計画、各学年、教科毎の年間計画の策定、指導資料の作成などを求めることに力を注ぐべきなのです。
 

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へぇー、そうだったのか

2014-11-02 08:18:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そうだったのか」10月26日
 書評欄で、大竹文雄氏が、ウリ・ニーズィー、ジョン・A・リスト著の『その問題、経済学で解決できます』という本の書評を書かれていました。その中に、『彼らは、シカゴの学校で成績が上がったらご褒美をあげるというインセンティブの効果を大規模な実験で明らかにした。特に効果があるのは、あらかじめご褒美をあげておいて成績が下がったら取り上げるという方法だった』という記述がありました。
 驚きました。私は、事前に報酬を約束することは学習意欲を削ぎ、主体的な学習の妨げになると考えてきたからです。幼児を対象に絵を描かせる場合、上手く描けたらシールをあげるという約束をして描かせると、幼児は絵を描くことに喜びを感じなくなり絵にも独創性がなくなるという事例を引き合いに出し、指導主事として教員にもこうした立場で指導をしてきました。
 私は間違っていたのかもしれません。あるいは時代遅れの古い理論にしがみついていたのでしょうか。私自身の感覚からしても、前述の実験結果はある意味で納得のできるものです。それは、もらい損ねたときよりも一度は自分のものであったものを取り上げられるときの方が苦痛であるという感覚です。親戚の叔父さんがきてお小遣いをもらえると期待していたのにもらえなかったときと、自分の財布にある100円玉を取り上げられるのとでは、明らかに後者の方が苦痛だということです。
 しかし、この実験は、アメリカ人を対象としたものです。日本人でも同じ結果になるのでしょうか。「ご褒美」の大きさによって違いが生じるのではないでしょうか。「ご褒美」による成績の向上は一時的なものでしかないのではないでしょうか。「ご褒美」によって成績が向上したとしてもそれは真の意味での知的好奇心や向上心とは呼べないものなのではないでしょうか。同じ「ご褒美」では感覚が麻痺してしまい次々と「ご褒美」をレベルアップしていかなければならないのではないでしょうか。等々、私は、今までの自分の認識を安易に捨てることができません。
 このブログでも繰り返し述べてきたことですが、我が国では教育研究に実験はふさわしくないという考え方が主流でした。子供をモルモット扱いしないというモラルがあったからでした。でも、シカゴに負けない「大規模な実験」を見てみたいという欲望が消せません。

 

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いやになるくらい

2014-11-01 07:58:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それでいいのだ」10月25日
 柳田邦男氏が、『被害者救済 科学主義・法規主義の壁を破れ』という表題でコラムを書かれていました。その中で柳田氏は、サル学の権威河合雅雄氏のエピソードについて述べています。
 『エチオピアにゲラダヒヒの調査に出かけた時、子どもの雌のヒヒに出会った。1年半後、現地を再訪してその子に再会した時、右手を出すと、その子も手を出して、握手をしたという。そのことをめぐって、(河合氏は)こう語るのだ。「論文に『<ヒヒの>人間識別の記憶は1年半持続することが分かった』と書けても『懐かしいという感情を持っていた』とは書けない」「科学の進歩が動物の命の輝き、生の躍動から遠ざかっていったからでしょう」と』
 布施氏は、このエピソードを行き過ぎた科学主義の悪例としてあげていますが、私はこうした「抑制的」な姿勢に共感を覚えます。サルについてはまったくの門外漢ですので、これ以上は触れませんが、教員と子供の関係に当てはめて論じてみたいと思います。
 私は指導主事として、特に若い教員を指導するとき、児童理解のために徹底した客観的記録の蓄積を推奨してきました。児童理解は、事実の上に成り立ちます。そこで授業中の子供の様子を記録させます。そうすると、多くの教員は、「たいくつそうに消しゴムをいじっていた」「つまらなそうにシャープペンの指回しをしていた」などと書いてしまいます。しかし、それは記録ではありません。「たいくつそう」も「つまらなそう」も記録者である教員の主観にすぎません。
 ある子供にとっては、消しゴムの臭いを嗅ぐことが考える際の癖なのかもしれませんし、指回しで無意識のうちに思考のリズムを整えているのかもしれないのです。ちょうど、プロ棋士がセンスの開閉で読みのリズムを取るように。
 また、つまらないのではなく、授業内容以外に何か気になることがあってそのことが頭を離れないのかもしれません。その場合は、考えてはいるけれども授業とは関係のないことについて考えているということになります。
 教員に限らず、人には自分でも気づかない思考の偏り、捉え方の癖があります。だからこそ、自覚のないまま自分の主観を事実として書き留めてしまうのです。それでは、児童理解は深まりません。
 ですから、単に「消しゴムを左手でもち、その後消しゴムを置いて指のにおいを嗅いでいた」というように主観を排した記録を取り、そうした記録が何回も積み重ねられてはじめて、その行為の意味するところを解釈をするという態度が大切なのです。河合氏の例で言えば、ヒヒとの握手を他の場でたのヒヒと何回も繰り返し、その時の様子を詳しく記録することによって、はじめて識別から懐かしみへと解釈を深めることができるということです。
 若い教員の皆さんは、まずイヤになるくらい記録を取ることが重要です。

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