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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

見逃すな

2014-11-20 07:55:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「見逃すな」11月12日
 東京社会部の澤圭一郎記者の『総合学習のいま 達成感も 学力向上も』という表題の記事が掲載されました。その中で澤氏は、様々な事例や学力テストの結果などを紹介し、『総合学習は、学校教育を深化させられる極めて大きなツールだ』と「総合学習」について高く評価しています。ちなみに、澤氏が言う「総合学習」とは、「総合的な学習の時間」を指すと思われます。
 澤氏の指摘は間違いではありませんが、その中でも特に大切な指摘を見逃してしまうと、「総合学習」をどんどんやればいいんだというような間違った認識をもってしまいかねません。大切なのは、澤氏がさり気なく引用している、文部科学省教科調査官田村学氏の『基礎になる教科をしっかり教え、総合学習でそれを使って達成感も与える「ハイブリッド型」学習』という言葉なのです。
 何かを調べるとき、文章の読解力、表やグラフの理解力、人の話の要点を聞き取る能力などがなければどうにもなりません。また、調べたり体験したりしたことを基に話し合うとき、調査結果をまとめる力、要点を分かりやすく語る力、的確な質問をする力がなければ話し合いは成立しません。学習の成果をリポートにまとめるときには、統計的な処理能力や地図・図表などを作成する能力などがなければ、分かりやすいリポートは完成しません。もっと初歩的なことを言えば、正しい文字が書け、四則計算ができなければ、「総合学習」どころではないのは、誰でも分かることです。
 身も蓋もないことですが、「総合学習」で成果を上げているのは、元々子供の学力が高いとされる「地域の名門校」が多いこと、「総合学習」だけでなくその他の教科についても指導力の高い教員が指導したケースが多いことは、まぎれもない事実なのです。つまり、何もないところで「総合学習」を実施しさえすれば効果が上がるという話ではないのです。
 基礎のなる学び→その学びを生かした「総合学習」→「総合学習」で得た学び方や学ぶ自信→主体的に臨む教科学習→より高度な「総合学習」というスパイラルを実現することが大切なのです。スタートに「しっかり教える」ことがあるのを忘れてはならないのです。

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そんなことは考えたこともない

2014-11-19 08:14:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「頭の中にない」11月12日
 毎日出版文化賞の受賞者を紹介する連載記事の4回目は、『企画部門「仏教の事典」(朝倉出版)』の共編者である仏教学者末木文美士氏を取り上げていました。同事典は、『全執筆者は51人。仏教学者や仏教史学者だけでなく~』によって作られたということです。
 私の家は「真言宗」。とはいえ、もし外国人に真言宗について説明しろと言われても、「弘法大師が~、唐に留学して~、高野山に金剛峯寺を~」というような切れ切れの知識の断片をしどろもどろに話すことしかできません。言い訳ではなく、私と同じという人も少なくないと思います。それは、日本人が宗教音痴だからです。だからこそ、私はこのブログで再三学校における宗教教育の必要性を訴えてきました。
 そんな私がいつも不思議に思っていたのが、いわゆる宗教学者という立場の方々が、宗教教育の必要性や、学校教育導入に向けた具体的な方策について発言しないことでした。学校には、多くの「○○教育」がありますが、食育でも環境教育でも、福祉教育でも金融教育でも、人権教育でも平和教育でも、学校教育への導入に際しては、それぞれの分野の専門家が積極的に発言し、議論に影響を与えてきました。
 しかし、私の不勉強もあるとは思いますが、宗教学者が学校教育における宗教教育の必要性を訴えることは少なく、特に「形式的」には我が国最大の宗教である仏教を研究している学者からの建設的提言は皆無に近いと思います。
 戦前の国家神道への反省から、我が国では宗教について、「羹に懲りて膾を吹く」的な態度が見られますが、それだからこそ専門家としての責任感をもって、仏教を学校で学ばせるとしたら、という声を上げるべきだと思うのです。
 末木氏へのインタビューで、信者や僧侶ではなく、多くの仏教関係の研究者がいることを知り、そんな思いに駆られました。

 

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だからやっているって

2014-11-18 08:04:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「だからやっているって」11月11日                         
 精神科医の香山リカ氏が、『「学問」は疑問から始まる』という表題でコラムを書かれていました。その中で香山氏は、大学をめぐる議論に触れながら「学問」について論じています。具体的には、『大学とは「学問」を教えるところ。決して「難解なこと」という意味ではない。基本的には「これまでの成果に疑問を持つ」「裏付けをしながら答えを探す」「答えを見つけて主張する」「自分なりに残った疑問を記す」という一連のプロセスこそ「学問」の条件だ』と簡潔に述べられているのです。
 全くその通りです。そして、香山氏は、『今こそ必要なのは、誰もが「学問」的な態度を身につけること』とも述べています。これにも同感です。しかし、いくら進学率が向上しているからと言って大学を卒業するのは国民の半数程度です。つまり「誰もが」という以上、義務教育である小中学校の段階で、「学問」的な態度を身に付けさせることが求められていると考えます。
 そして、そうした取り組みは既に行われているのです。私が専門としてきた小学校社会科の授業法の研究も、社会的事実を従来とは異なる切り口で見せ、子供に疑問をもたせ、その疑問を学習問題という形に昇華させ、学習問題に対する予想をもたせ、学習問題を解決するための方法を考えさせ、その計画に基づいて調べさせ、調べた結果を他の子供や教員にわかりやすく伝え、他の子供や教員からの疑問や指摘を受け止めて自分の考えを再検討させ、最終的に明らかになったことと分らないまま残ったことをまとめさせるという一連の流れ、それを問題発見解決型学習と呼んでいましたが、を限られた授業時間の中で実現するための研究でした。
 今、私が専門としてきた社会科だけを取り上げましたが、実際には、理科でも算数でもこうした工夫・努力は行われてきました。もちろん、国語でも。しかし、世間の多くの人は、教員から子供への一方通行の知識教授型の授業が学校教育の大半を占めていると誤解しています。メディアもそうした報道を繰り返していますし、「アクティブラーニング」などと言いだした下村文部科学相など政治家もそうした認識です。
 実は、「アクティブラーニング」や香山氏が言う「学問」的な学習も、今までの学習指導要領の改訂で繰り返し主張されてきたことなのです。そして、小学校の教員は、愚直にその理想を実現させようと努力してきたのに対し、中高では授業改善への熱意が乏しかったというのが実情なのです。香山氏の提言も、下村氏の思いも、対象を絞って実行を迫ってこそ、効果があると思います。

 

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教員と法治

2014-11-17 07:50:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「法治主義と教員」11月11日
 第26回アジア・太平洋賞の受賞者とその著述物について紹介する特集が組まれました。その中に、ハイエク研究者である古賀勝次郎氏の『鑑の近代「法の支配」をめぐる日本と中国』についての評と古賀氏の談話が掲載されていました。古賀氏は、『西洋の法治国家思想は、支配者、為政者の行き過ぎを抑えることで個人の自由を保障するものです。一方、韓非子は政治的目的を実現するためには徳や礼などでなく法で厳しく統治すべきだという考え方』と、西洋型法治の日本と中国を比較して述べていらっしゃいました。
 韓非子は法家の代表者であり、「法」という日本語が共通なこともあり、私は、古賀氏が指摘するような違いについては考えたことがありませんでした。そこで、古賀氏の指摘を学校に当てはめてみるとどうなるかということについて考えてみました。
 学校における「支配者」を校長とみなせば「個人」は教員です。しかし、学校には「支配者」である校長の行き過ぎを抑える「法」はありません。では、「個人」である教員が抑圧されているかといえば、そんな実態はありません。むしろ、他の組織体、企業や役所に比べて、「支配者」の権力行使は控えめであると言えます。また、法家思想のように、校長の統治のために厳しいきまりが存在するわけでもありません。要するに、西洋型法治も法家型法治も学校では希薄なのです。
  教員と子供の関係においてはどうでしょうか。「支配者」である教員を牽制するようなきまりはあるかといえば、学校教育法で体罰を禁止していることや子供の権利条約などが浮かびますが、教員の多くは、法的に自分の子供に対する権力行使が抑制されているという実感をもってはいません。むしろ、学校のきまり、クラスのきまり、先生との約束などの形で、法家的な発想の方になじみがあります。
 結論として、我が国の学校には、西洋型法治の発想が乏しいという気がします。そもそも教育行政自体が、指示命令型ではなく指導助言型であり、法や規則を重視する他の行政分野と大きく異なっています。校長や教員という組織を構成する個人に依拠するのが学校教育という仕組みの特性なのでしょうか。学校における法治の概念というようなテーマで研究分析してくれる教育学者はいるのでしょうか。

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指導者の無責任

2014-11-16 08:18:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「指導者ということ」11月11日
 『羽生選手「強行」の警鐘』という見出しの記事が掲載されました。フィギュアスケートの羽生選手が、本番前の練習で他の選手と激突し大けがをしながらも、その後の演技を行ったことについて論じる記事です。
 記事では、『直前のアクシデントにもめげず演じきり、不屈の精神を見せたが、選手の健康や競技の安全性の観点で決して美談で終わらせることはできない。頭部も負傷しており、専門家は「棄権させるべきだった」と警告する』と、強行の判断に疑問を投げかけています。
 私もこの判断は疑問だと考えています。しかし、ここでは判断の是非事態は問いません。羽生選手とコーチ等との関係に絞って考えてみたいと思います。コーチは棄権が望ましいと考えていたが、羽生選手の出場したいという意思が強く、最終的に同意したとのことです。そこが私には理解できないのです。
 私が教委に勤務し始めた20年ほど前、学校教育において、教員の役割を指導者から支援者に、という動きがありました。そうした流れの中で、教員は子供の意思決定を尊重すべきという考え方が強まり、その結果、子供の判断が明らかに間違っている場合でも、教員はそれを強制的に変えさせるということをしなくなっていきました。
 人生には失敗の体験が必要です。ですから、指導的立場にある者が、このままでは失敗すると見通せていても、あえて失敗への選択を見守る、ということはあってもよいと思います。しかし、その場合には、致命的な失敗にはつながらないこと、今回の失敗を取り返す機会があること、が条件となります。
 しかし、そうでない場合には、経験豊富な年長者として、多くの知見を有する指導者として、無謀な試みに対して断固として「NO」を言う強さをもつことが指導者の条件であると思います。羽生選手のコーチにはこの強さが欠けていたと思うのです。
 そして、同じ意味で、教員の多くがこうした強さをもたず、子供の主体性尊重の美名に隠れて、子供と対峙することを避け、対峙すること信頼関係が損なわれることを恐れ、子供の反発に丁寧に反論しつつ説得する面倒くささから逃げる教員が増えているように思うのです。特に、教員の場合、子供本人以外に、我が子の判断を過剰に尊重する保護者も説得しなければならないために、余計に迎合的になってしまうように思います。
  「君の人生だから、君のしたいようにすればいい」という言い方に潜む無責任さについて考えて見てほしいものです。

 

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実は重症

2014-11-15 07:58:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「実は重症」11月11日
 『神戸の私立中講師 罰の正座姿フェイスブックに』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『講師が、生徒を正座させた写真を撮影し、自身のフェイスブックに投稿していた』ということです。体罰発生の状況については、『宿泊研修で、講師は、室内でペットボトルを蹴ってサッカーをしたとして、中1の男子生徒2人を約30分間正座させて撮影』と書かれています。
 この記事を読んで、この講師についてどのような感想をもたれたでしょうか。殴ったわけでもなければ、怪我をさせた訳でもありません。フェイスブックに投稿したのは問題だが、体罰については罪が軽いというように考えた方が多いような気がします。確かに、公立校にあてはめてこの講師を処分するとすると、体罰部分だけであれば、正式な行政処分の中で最も軽い処分である戒告まではいかないかもしれません。でも、この講師の教員としての資質には大きな疑問符が付きます。
 体罰の発生状況で最も多いのは、教員が激情に駆られて、というケースです。注意したのにいうことを聞かない、教員である自分を馬鹿にするような態度をとられた、儀式や試合など大事な場面でふざけたなどの場面に遭遇して、つい手が出てしまうという形です。
 もちろん、許されることではありませんが、教員も人間であり、感情をもっています。教員として未熟ではありますが、正直なところ、私自身、こうした激情に駆られて大声を出したり、口汚くののしったり、子供の人格を否定するような暴言を吐いてしまったことがないとはいえません。そして、こうした行為の後、激しい自己嫌悪にとらわれるのです。
 しかし、この講師の場合は、激情に駆られて、というケースとは違います。ペットボトルでサッカーをしていた生徒は、既に教員によって制止されています。そして、おとなしく正座しているのですから、講師の指示や注意に逆らっているという状況でもありません。それらのことから考えて、精査を命じた時点で、講師は冷静であったはずなのです。それにもかかわらず、正座という体罰を平然と行っているのです。おそらく、正座を止めさせた後にも、自責の念にかられたり、教員としての自分に自己嫌悪を感じたりという感情の動きもなかったはずです。それは、まだ善悪を判断する基準をもたない幼児が昆虫の羽や足をもいでしまっても何の罪悪感も感じないかのように、です。
 冷静に体罰をする人間には、子供を自分とは異なる存在とみなし、あたかも捕まえた昆虫のように、自分が相手に対し生殺与奪の権限をもった存在であるかのような潜在意識をもっているのです。これは、最も教員に相応しくない性向です。
 ちっとも怒らず、にやにや笑いながら体罰をする教員、想像しただけでぞっとします。本当はこうした教員こそ、厳罰に処したいところです。                    

 

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ookunosisa

2014-11-14 07:58:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「多くの示唆」11月10日
 青山学院大特任教授猪木武徳氏が、『大学の未来は教養教育から』という表題で寄稿なさっていました。猪木氏は、大学教育について語られているのですが、その内容は小中学校の教育を考える際にも多くの示唆に富んでいるように感じました。
 まず、『競争は、概して、短期的効果を狙った行動に支配されやすい。教育も研究も、その効果が表れるのにはある程度の年月が要る。そして「こうしたから、そうなる」というほど単純なものではない』という指摘です。これは、学校選択制、教員の業績評価、保護者、児童生徒による学校評価、民間人校長採用など、近年行われてきた諸改革への批判になっています。いずれも、短期的な視野で評価するという共通点がありますし、原因と結果を短絡的に結び付けるという点でも共通しています。最近、学校選択制などについて見直す動きがありますが、猪木氏の指摘を踏まえれば、個々の改革の成果を点検するだけではなく、その根本理念についても再吟味が必要であるということになるのです。
 また、『技術変化の多い社会で直接役に立つ知識や技能は、大学教育によってではなく、実際の仕事を通して獲得されるものがますます多くなるだろう』という指摘にも考えさせられます。それは、学校教育を「実務」に役立つという視点で再編成しようという動きを真っ向から否定するものだからです。私は社会人としてすべての期間を学校教育に携わってきたので、他の分野については分かりませんが、少なくとも教員の仕事ということで考えたとき、猪木氏の指摘には首肯させられます。教員の主務である授業は、実際に授業を繰り返す中でしか授業力を延ばすことはできないと考えるからです。そうした立場で教員養成を考えると、大学院卒を教員に求めるというような改革が的外れであることは明らかであると思います。
 さらに、『古典を含む人文学や社会科学の遺産をよく学び、自らの考えを、まず母語で正確にそして豊かに語る能力、説得力のある文章を書く技術を養うことが、これからの大学の教養教育の中核を占めるべき』という指摘も貴重です。そこでは、小学校から英語教育をとか、理数系の教育充実をといった進行中の教育改革の問題点が指摘されています。手前味噌のなりますが、社会科復興を繰り返し唱えてきた私の主張につながるものでもあります。具体的には、英語と理数系偏重を改め、国語と社会の重要性を見直すべきということです。
 

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東大3つとその他

2014-11-13 08:13:14 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「東大が3つ」11月7日
 経営共創基盤CEOの冨山和彦氏が、『東大学長選とこの国の行方』という表題でコラムを書かれていました。その中で冨山氏は、『知識産業が主役の時代にあって、グローバル競争の鍵は圧倒的に世界トップクラスの知識人材であり、その最大の供給責任は東大にある』と書かれています。
 全くその通りだと思います。多くの日本人がそう考えていると思います。少し出来の良い子供をもった親は我が子を東大に入れたいという夢をもちますし、東大卒の男性と結婚した女性には「よかったね」「羨ましい」という声が掛けられるというのも、日本人の「本音」を示しているはずです。
 しかし、全国紙の紙面で冨山氏のような意見を述べると、必ず批判する人が現れます。そうした人の頭の中には、一流校と二流校、トップ校と底辺校という差別があるのは好ましくない、というある種の平等論があるように思います。確かに公立の小中学校では、そうでしょう。もちろん、あくまでも建前としてですが。
 しかし、多様な学力の子供が自分の能力に合わせて進路を選択し、選抜試験を経て入学する高等学校では、各校間に格差があるのは当然です。でも、そうした考えは好ましくないとされてしまうのです。
 私が教委に勤務しているとき、高等学校教育を担当する主任指導主事に「学校間格差」について尋ねたところ、「それは個人としての雑談?それとも指導主事として?」と訊かれ、「後者なら都立高に格差はありません、だね」と言われたことがありました。現在は、様々なタイプに高校をそろえており、「違い」は認めていますが、「差」は認めたがりません。
 ですから、大学に対しても、個性や学風、伝統や特色という言い方で違いをアピールしていますが、「差」について話題とすることはほとんどないのです。こうした建前があるために、我が国ではエリート育成教育が広がりません。しかし、誰でも冨山氏が言う「世界トップクラスの知識人材」になれるはずはありません。ごく一部の優れた資質をもつ子供や若者を早期に選抜し、鍛えることなしにそんな人材は育たないと考えるのが現実的です。東大1校では十分ではないというのであれば、東西中日本に一つずつ「世界トップクラス知識人材育成大学」を設け、少数精鋭で教育資源を投入すべきだと思うのです。
 そして、その他の大学、その大学に続く高校、その高校に進む小中学では、過度な要求を押し付けることのなく、ゆとりある教育を行うようにすべきです。小学校の低学年から英語を学ばせるという政策の背景にある、すべての国民がネイティブのように英語を遣えるようにするなどという非現実的な悪平等論に侵されることなく。

 

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むやみに褒められても・・・

2014-11-12 07:15:02 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「嬉しいのか」11月6日
 熊田明裕記者が、『全員をたたえる大会』という表題でコラムを書かれていました。熊田氏は、知的発達障碍者によるスポーツの祭典「スペシャルオリンピックス(SO)」について触れ、『特徴はメダリスト以外も全員表彰すること。メダル獲得に一喜一憂しがちな近年の五輪・パラリンピックとは一線を画し、「自分自身と競った」成果として観客も一緒になってたたえる様子に感動を覚えた』と書かれています。
 私の読解力不足なのかもしれませんが、読み終えて「?」だらけでした。「自分と競う」という考え方は大切だと思います。それこそ、教育における評価のあるべき姿であり、個人内評価と呼び、教委勤務時代に、私も教員に重要性を説いてきたものです。
 しかし、「自分と競った」結果は常に「勝利」ではありません。自分を甘やかし、様々な理由を言い立てて努力を怠り、昨日の自分に負けてしまうことは珍しくありません。むしろ凡人は一進一退を繰り返すというのが現実ではないでしょうか。
 子供も同じです。わかりやすい例で言えば。機能の練習で1m50cmのバーを跳べた生徒が、今日は1m40cmのバーさえ落としてしまうことがあるのです。その原因は、昨夜遅くまでスマホに夢中になり体調を崩してしまったことだと、本人も自覚しています。そんなとき、「よく頑張った」と褒められて嬉しいものでしょうか。私なら、皮肉られたとしか受け取れません。指導者としては、むしろ叱責すべきでしょう。無定見に褒めるのはプロの教員がすることではありません。私は、「指導力不足教員」の研修を担当していたとき、子供が何を言っても「よくできました」しか言わない教員を何人も目にしてきただけに、安易な称賛には否定的なのです。
 私が、熊田氏のコラムから感じた「?」は、SOに参加している選手は、満足できない結果に終わったとしても「称えられ」れば嬉しいと感じるのか、そうではないのではないか、という疑問だったのです。
 さらに、もし、知的発達障碍者は、真面目で純粋で、上記の生徒のように誘惑に負け努力を怠るようなことはないという思い込みがあるとすれば、それは知的発達障碍者を真に理解していることにはならず、むしろ健常者とは異なる存在としているという意味で障碍者差別に当たります。もちろん、知的発達障碍者だから褒められればうれしいだろうというのも偏見です。
 どうにも理解できません。

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そんなに冷静じゃない

2014-11-11 08:07:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そんなに冷静じゃない」11月6日
 東大名誉教授の唐木英明氏が、『「中国産」根拠ない排除を憂う』という表題でコラムを書かれていました。その中で唐木氏は、様々なデータを示し、中国製の食品の違反率が他国に比べて高くなく、国産製品とも微差しかないことを紹介した後、『一科学者として、科学的根拠のないリスク情報が広がるのを憂えている』と述べています。
 さらに、具体例として、『東京都内の一部の区が学校給食から中国産食品を排除し始めた』ことを取り上げ、『科学を教育する学校教育現場にありうべからざる行為である』『文部科学省は、教育現場の混乱や保護者の誤解を放置するのではなく、科学的事実に基づき適切な判断を行うよう指導すべき』と書かれています。
 正論です。しかし、学校と教委に長年勤務してきた者として、保護者や市民という者は、唐木氏が思い描くような冷静に他人の話に耳を傾ける存在ではないと思います。保護者の多くは、自分にとって快い、都合のよい話を信じようとする傾向があります。理性ではなく感情に左右されるのです。
 給食の食材問題について言えば、まず「不安」という感情があります。そこに、「これこれの理由で不安を感じる必要はない」と伝えることは、自分たちの「不安」という感情を否定されたことになり、それだけで受け入れがたい話となってしまうのです。
 一方、まず「そうだよね、不安だよね」と言ってくれる人が現れると、それだけで、この人は私たちの不安を理解してくれる良い人、となってしまうのです。そうなれば、良い人の言うことに心が傾きます。しかも、不安のもとである中国産は一切やめようという、毎回で分かりやすい提言がなされれば、もうそれしか耳に入らなくなってしまうのです。そして、次々と伝染し、集団ヒステリーのような状態に陥ってしまうのです。
 次には、こうした習癖をよく知っている議員が、議会の質問という形で「安全か否かが問題なのではない、安心か否かという問題なのだ」という論法で保護者の心情を代弁し、当局としても、民の声を代表するという建前の議員には逆らえず、中国産食品の排除という施策が採用されるのです。これは、文部科学省からの一片の通知などで解決できる問題ではないのです。
 こうした傾向は、現在進められている教委改革の結果、教育行政に民意を過度に気にする政治家が関わる度合いが増すことによって、ますます強まっていくはずです。学校教育は、偏見と浅薄な知識、思い込みと都市伝説が支配する魔界になっていくのです。かなり大げさに書きましたが、方向性としては間違いないはずです。

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