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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

無意識に、ではなく

2012-11-10 07:56:41 | Weblog
「言葉の吟味」11月5日
 三木陽介記者が『言葉のつまずき』という標題でコラムを書かれていました。その中で三木氏は、『「200円の鉛筆と消しゴム50円を買ったら代金は?」という問題。足し算ができてもこの問題が解けない子がいる。なぜか。「代金」の意味が分からないのだ』という事例を挙げ、『先生が何気なく使う言葉が気付かぬうちに壁になっているのだという。「人間は、知れば知るほど「分からない人」の気持ちが分からなくなる」と西川教授(上越教育大学教授)は言う』と述べていらっしゃいます。
 こうした事態の改善策として、『子供同士による「学び合い」』が有効であると、話は展開していくのですが、その前に大切なことがあるように思います。それは、教員の話す力の向上です。
 私は、子供同士の学び合いに反対ではありません。大切なことだと思いますし、私自身も「学び合い」の活性化を心掛けてきました。指導主事としても、子供の相互交流を重視した授業づくりを訴えてきました。しかし、授業が、教員の意図の下に展開されるものであることを考えると、教員の発する言葉が子供に浸透することなしには、子供同士の「学び合い」も成り立たないと考えるのです。
 私は、指導力不足教員の研修を担当したときにも、授業における「言葉」を重視して指導をしてきました。実は、子供の前できちんと説明したのだから、子供は分かっているはずだという思い込みは、指導力不足教員がもつ共通の欠点でした。彼らは、子供が分かっているという前提で次の説明に移ります。そしてすべての説明が終わった後、子供が理解していないことに気付き、怒りだすのです。なぜ怒るかといえば、自分の説明が原因とは考えず、子供が真面目に聞いていなかったから、と思うからです。そして怒った後、もう一度同じ説明を繰り返すのです。そしてまた同じことが切り替えされ、やがて子供が分かったフリをして、一段落ということになるのです。今、「説明」という言葉を使いましたが、実際には、「指示」や「質問」や「叱責」・「称賛」など、教員が発する言葉すべてにおいて、この勘違いが起きているのです。
 台風一過はいくつかの台風が家族のようにくっついて来襲すること、中央線不通は中央線がいつも通り動いていること、これは私が子供時代にしていた誤解です。子供が演技ではなく本当に分かったと思っていても、間違った理解をしていることはあるものです。こうした事態を避けるためにも、教員は、子供が分かるように話すことが必要なのです。
 今までにも繰り返し書いてきたことですが、私は授業に際して、「音声原稿」を作ることを奨励してきました。三木氏は「先生が何気なく使う言葉」と書いています。何気なく、ではなく、意図的計画的に言葉を使う習慣をもつことが教員の務めなのだと思います。

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学校を守る

2012-11-09 07:52:10 | Weblog
「学校を守る」11月4日
 書評欄で、吉村典久著「会社を支配するのは誰か」が取り上げられていました。その中に、『株主が選んだ取締役会が、トップを選任する。株主の意向を受けた社外取締役が、経営を監査する。場合によっては経営トップを入れ替える。このGMが破綻した。企業統治がうまくいかなかったのである。株主に不信だったフォードの経営が対比される。一株で普通株の何倍もの議決権を持つ複数議決権株によって、投資家から経営を守る制度が紹介される。グーグルもフェイスブックもこれ~(中略)~ESOP(従業員持株制度)の企業も多い』という記述がありました。
 経済や企業活動についてはまったくの無知なのですが、気になるのは「投資家から経営を守る」というフレーズです。投資家を経営を脅かす存在と規定しているからです。従来の一般的な考え方では、経営者の自己保身的な行動こそ経営の敵であり、大勢の株主の「世論」こそが、経営を正常化するという見方だったはずです。経営の公開はこうした考え方があってこそ意味があったのですし、こうした考え方が企業以外の分野にも敷衍され、それが学校理事会制度に結びついていったのです。
 改めて学校理事会制度との関係を説明すると、株主にあたるのが住民や保護者になります。「住民や保護者が教員の採用を行い、学校のトップである校長を選び、住民や保護者の代表である理事が校長の学校経営を評価し、場合によっては交代させる」というのが学校理事会制度なのですから、まさにGM方式です。
 そして、「住民や保護者から学校経営を守る」ということは、住民や保護者は学校経営を脅かす存在と見なすということです。これも従来の発想の逆です。どちらが正しいのでしょうか。
 私の経験から言えば、住民や保護者が学校経営を脅かす存在であるというのは言いすぎですが、そうしたケースもあるというのは事実です。具体例を挙げれば、米国帝国主義打倒を信条とし反米教育を行ってきた教員を支持する保護者や住民が教員を処分しようとした校長や教委に圧力をかけてきた事例があります。もし、この学校が理事会制であれば、声が大きく行動的な支持グループによって、校長の経営が妨害され、校長の更迭要求にまで至ったことは確実でした。また、部活の熱心な保護者グループが、チーム強化のために他区からの組織的な越境入学を推進した教員を支持し、適正化を働きかけた校長と教委に議員を使って圧力をかけてきたこともありました。
 理不尽で強圧的な住民や保護者から学校経営を守る、という発想には、検討の余地があると思います。

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裏切られた大臣

2012-11-08 07:58:30 | Weblog
「大臣と首長」11月3日
 田中真紀子文部科学大臣の「政策判断」について、否定的な意見が掲載されていました。主な意見は、「解説」の中で『審議会答申無視の前例ができれば「意に沿わぬ」法人の申請を不認可にしたり、逆に問題ある申請を認可する可能性もある。今回の決定は将来の危険をはらんでいる』、教育社会学者藤田英典氏のコメント『法令に準拠した審議会無視のとんでもないこと』、神戸女学院大学名誉教授内田樹氏の『設置基準のルールは文科省が定めたもの。それが不適切ならば教育行政を主管する文科相はまず、謝罪と反省をすべき』という見解などです。
 内田氏は、『政治家は教育への干渉をできる限り自制すべき』とも語っています。私も同じ意見です。ただ、「政治家主導の決定」に対する肯定的評価がないのが気になります。橋下大阪市長や安倍自民党総裁などが、教委制度を廃止し首長が教育行政を主導することの必要性を主張し、それらについては一定の評価を与えてきたメディアが、今回は政治家の暴走的な捉え方をしていることが腑に落ちないのです。
 大学教育に質の低下という問題があることは多くの方が指摘しています。そして、大学設置審議会のあり方への疑問も耳にします。そうであれば、官僚ではいつまでも問題の解決が図られない事案について、政治家がリーダーシップを発揮したという見方があって然るべきです。
 しかも、現行制度下では、首長は教育行政を主管する立場にありませんが、文科相は、所管大臣です。越権行為には讃辞を与え、所管内の合法的・合制度的決断には非難の嵐というのでは、どこにメディアの判断基準があるのか、分からなくなってしまいます。ダブルスタンダードなのでしょうか。
 私は、教委制度存続論者です。私は、行政の継続性という視点から、今回の田中大臣の判断は問題があると思っています。しかし、教委制度廃止論者は、今までのしがらみや慣行にとらわれず首長がスピーディーに物事を変えていくスタイルに魅力を感じていたはずです。つまり、私とは反対に、「真紀子よくやった」という声をあげなければおかしいのです。もちろん、メディアもです。もし、「改革者」の橋下氏が行う政治家主導はよくて、「お騒がせ」田中氏が行う政治家主導はダメということであるならば、そんなものは政策でも何でもありません。田中大臣は裏切られたような思いでいるのではないでしょうか。

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小学校の不思議

2012-11-07 07:53:24 | Weblog
「小学校の不思議」11月2日
 社会学者の山田昌夫氏が、『日本企業の業績低迷の一因か』という標題でコラムを書かれていました。山田氏は、企業における女性差別が業績低迷の理由の一つだとし、『(大卒女子総合職の女性が)配属先でも上司の指示で男性総合職と同じ仕事を任されず、雑務ばかり』『誰が見ても仕事ができない男性社員でも、ある程度の年齢になれば役職が付く。一方、相当仕事ができる女性でも男性の平均程度の昇進スピード』などの事例を挙げていらっしゃいました。
 よく聞く話です。実は、学校の教員の世界でも、管理職になるのは圧倒的に男性という現実があるのです。そもそも男性教員が多い中高ならばともかく、女性教員が7割近い小学校においても、女性管理職は、1割程度なのです。それが、不思議でなりません。
 教員の社会では、上述の企業のような差別はほとんどありません。そもそもが「鍋ぶた」組織であり、校長と副校長以外には「役職」がなかったのです。近年、主幹や主任などの「役職」ができましたが、上司が「役職」につけるのではなく、「試験」の比重が高く、恣意的な差別はほとんどできないのです。しかも、試験は筆記と面接であり、筆記については判定者が男女の別を知らないまま行うので、そこでの差別はあり得ません。
 また、日常の職務も、担任として授業をするという同じ形態がほとんどで、雑務ばかりなどということは起こり得ません。要するに差が付かないのです。しかも、一般的に管理職にとっては、管理職を目指す教員を多く育てることは自分の「業績」として教委に評価されるのですから、男女の別なく優秀な教員には「管理職を目指してみないか」と声を掛けるのです。私も随分声掛けをしましたし、指導室長になってからは、校長に声掛けを依頼したものでした。それでも、いっこうに女性管理職は増えなかったのです。
 誰かこの謎を解いてはくれないでしょうか。

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10秒、30秒

2012-11-06 07:01:57 | Weblog
「音声原稿」11月2日
 編集編成局の冠木雅夫氏が、先日逝去された丸谷才一氏についていくつかのエピソードを書かれていました。その中にある授賞式でのエピソードがありました。『あるとき、思い付くままに延々とスピーチを続けた受賞者がいた。珍しく憤慨した丸谷さんが学芸部長だった私に苦言を呈した。翌日には「式次第の改革案」が届く。場を盛り上げようと必ずスピーチ原稿を書いていた丸谷さんは、場を困らせる長話が許せなかったのだ』というものです。
 才能豊かな丸谷氏は、もちろん話すことにも秀でた能力をお持ちだったと思われます。そんな丸谷氏でもというか、そんな丸谷氏だからこそというべきか、きちんと原稿を書いてスピーチに臨まれていたのです。
 私は無類の話し好きです。人の話を聞くのは嫌いですが、自分で話すのは大好きで、30分でも1時間でも話していたいタイプです。そんな自分の「危険性」を知っているからこそ、私は取材を受ける際や会合に出席する際には、原稿を作っていきます。取材の場合は要点ごとの箇条書きですが、教え子の結婚式などでは1500字以内にまとめた原稿を作り、一字一句暗記していきます。そうしないと、エピソードのてんこ盛り状態になり、気が付けば参会者がイライラしているということになってしまうからです。
 同じことは、授業にも言えます。教員は概ね長話の傾向があります。しかもその傾向は、ベテランになればなるほど強まってきます。私は指導力不足教員の研修を担当していましたが、その半数はこの「長話」タイプでした。特に「専門分野」をもっている中高の教員にそうしたタイプが多かったように思います。
 授業中、酔うように「演説」を続ける教員たち、授業後彼らに訊ねると、判で押したように「今日は上手く話せた」と言い、生徒が欠伸をしたり、ノートにいたずらがきをしていたりしていることに気付いてさえいないのが常でした。それは、「延々とスピーチを続けた受賞者」と同じ姿です。
それでもスピーチならばまだ救われます。そもそも一方通行のものだからです。しかし、授業は、教員と子供の双方向のやりとりであり、子供同士のやりとりを巧みに援助し誘導するのが教員の役割なのですから、自分だけ話して満足では困ります。私は、彼らに「主発問・指示・説明」用の音声原稿を作って授業に臨むように指導してきました。授業が上手くいかないと悩んでいる教員がいるならば、この音声原稿作りに挑戦してほしいと思います。
 小学生であるならば高学年でも、発問・指示は10秒以内、説明は30秒以内に一区切りをつけられないと聞いてもらえません。やってみると分かるのですが、慣れるまではかなり苦労します。でも、5年間習慣化すれば、それ以降は、自然に分かってもらえる、聴いてもらえる話し方ができるようになってくるはずです。

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それでも学校で?

2012-11-05 07:59:50 | Weblog
「何で学校で」11月1日
 論説室の落合博氏が、部活について『週3日じゃダメですか?』という標題でコラムを書かれていました。その中で落合氏は、『週6日も練習する必要があったのかと今になって思う。週3日だったら、スポーツ以外の趣味を楽しんだり~(中略)~部活動は週3日にすべきだと言っているのではない。週1日でも構わないし、休日にも練習したい人はそうすればいい』と述べています。
 まったくその通りだと思います。私の身近にもそう考える人はいました。問題はその後です。週1日の生徒もいれば、休日まで練習する生徒もいる、要するにバラバラです。個人技の場合、技量が違いすぎて共に練習するのは難しいでしょうし、団体競技の場合は、同じチームを構成することはできません。それでも、学校が行う教育活動、教員が行う指導の一環として部活動が位置付けられなければならないのか、ということが疑問なのです。
 私は中高と卓球部に所属していました。下手でしたが、弱小校ということもあり、レギュラーの一員でした。試合に向けての高揚感や敗戦後の悔しさ、様々な感情を仲間と共有できたことは、大きな財産だったと思っています。もし当時、「来週の試合のために、100本ラリーに挑戦しよう」などと私たちが話し合っているわきで、「昨日のベストテン見た?」なんて会話をしながらのんびりと「ピーン、ポーン」と遊んでいる奴がいたとしたら、腹が立ってしまったことでしょう。それが人情というものです。これでは、友情を育むどころか、無用な対立が生じてしまうことは必至です。熱心な保護者の間から、「あんな子(週1日しか参加しない生徒)たちのために練習の質が低下する」という苦情がくることも予想されます。指導にあたる教員は、今まで以上に大きな負担を強いられることになるはずです。
 落合氏が言う「緩い部活」の良さは分かりますが、それは現在のわが国の学校というシステムには相応しくありません。もちろん、『違いを理由に排除するのではなく、それぞれの違いを認めて仲間として受け入れる』という理念の下、学校改革の手段として「緩い部活」を導入するという選択肢はあるでしょう。しかしその結果、教員が疲弊してしまい、本業である授業の質が低下するというのでは、意味がありません。
 そして、学校教育に及ぼす負の影響を避けるために、外部委託という形で進めるのであれば、むしろ部活動は学校教育とは切り離し、社会教育の一環に位置付けた方がよりメリットがはっきりとするはずです。杉並区で始まった部活動の一部委託化が、その先駆けとなってほしいものです。

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反日、親韓教育?

2012-11-04 08:09:24 | Weblog
「目標は?」10月30日
 『島根県が竹島問題で学習指導案を作成』という見出しで、島根県竹島問題研究顧問の佐々木茂氏へのインタビューを基に構成された記事が掲載されました。記事では、『竹島について学ぶことは意味がある。一つは竹島問題を通じ国家や領域、主権について学ぶ。二つ目は領土問題を知った上で、解決のためどうすべきかを考えることだ』と書かれています。
 私は、個人的には妥当な考え方だと思います。しかし、本当に記事の通りだとすれば、大きな議論を巻き起こすことは必至なはずです。なぜならば、上記の2点を素直に読み取れば、国家や主権、領土問題等について学び考えた結果、生徒たちが「そんな小さな島のことで隣国と争うのはつまらないことだ。譲歩することによって友好関係を維持した方がよい」という趣旨の結論を得てもよい、ということだからです。
 私は、社会科を専門に研究し、多くの授業実践をし、その成果を発表し、指導主事になってからも社会科研究において多くの教員を指導してきました。社会科は一部の人が偏見をもつような暗記教科ではありません。社会事象を多面的に理解し、その上で社会的思考力を育成することを目指す教科です。要するに考える教科であり、考えた結果多様な結論に至ることを積極的に評価する教科なのです。そうした立場から、先ほど「個人的には妥当」と考えたのです。きちんと考えた結果であれば、竹島放棄論も学習の成果として評価し、「よく調べ筋道立てて考えることができたね」と褒めるべきだということです。
 でも、島根県民、もっと広く言えば国民の多数はそれでよいと考えているのでしょうか。おそらく、「竹島は我が国固有の領土であり、そのことを否定するような考えを生徒にもたせるような教育は偏向している」という批判が出されるはずです。
 私は、社会科は多様な結論を評価する教科だと言いました。しかし、実際には、学習指導要領の内容に「価値判断」が含まれており、「何でもあり」にはなっていないのです。例えば小学校の社会科ではわが国の明治期について「大日本帝国憲法の発布、日清・日露の戦争、条約改正などについて調べて、国力が次第に充実し、国際的地位が向上したことを理解する」となっています。決して、帝国主義の拡大とか軍事大国化の進展という捉え方をイメージしているのではないのです。もちろん、調べる過程で帝国主義や軍事大国化というマイナスの側面に気付き、そのことを含めて多面的に理解することはかまわないのですが、授業を構想する教員は、「国力充実」「国際的地位の向上」というキーワードを意識した学習指導案を立てるものなのです。
 竹島問題の学習指導案でも、そうしたわが国の立場にたった「見方・考え方」を設定しているはずだと思います。記者の「誤報」ではないのでしょうか。

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屋上屋を架す

2012-11-03 07:49:28 | Weblog
「屋上屋を架す」10月29日
 大津市のいじめ自殺問題についての記事が掲載されました。その中に第三者調査委員会について、『来月9、18日に専門家を呼び意見を聞く勉強会を開くことになった』という記述がありました。不思議な話です。
 同委員会は、いじめ自殺問題について、実態や自殺に至った事実関係を明らかにするために、専門家を集めて構成されたものです。実際、委員は弁護士、教育評論家など、その肩書きから見ても専門家と思われる人で構成されています。それなのに、なぜ、ここにきて勉強会などを開く必要があるのでしょうか。呼ばれる専門家は、精神科医と児童福祉論、教育社会学を専門とする大学教授の3人です。実態や事実関係を明らかにするためにどのような助言を受けるつもりなのか、私にはイメージが浮かびません。まさか今さら、学校や子供、いじめ問題の基礎について一から学び直すというのではないでしょう。
 大津市が設置した第三者調査委員会方式は、今後のいじめ対応のモデルケースとなることが期待されています。全国の教委や学校関係者が注目しているのです。しかし、同委員会が、まるで素人の集まりであるかのように、改めて学校参観をしたり、別の専門家を呼んで勉強会を開いたりするのでは、やはり第三者調査委員会方式は、好ましくないという雰囲気が生まれかねません。
 こうした対応は、スピード感に欠けるばかりではなく、市の予算や人員を注ぎ込むことにもなり、財政基盤の弱い自治体では、そのことを理由に設置に二の足を踏ませることにもなりかねません。
 余計な回り道をしているばかりで、調査の本丸である加害生徒や校長への聞き取りもまだ行っていないのです。同委員会の委員には、学校のいじめ問題に関する新しい仕組み作りを担っているという自覚をもって集中的に取り組み成果を上げてほしいものです。

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専門性はどこに

2012-11-02 07:26:49 | Weblog
「専門性はどこにある?」10月28日
 『横浜市教委 通知表の事前確認要請』という見出しの記事が掲載されました。横浜市教委が、通知表の記載ミスをなくすために、学校を通じ生徒や保護者に確認を要請しているというもので、尾木直樹氏が、学校の責任放棄であると厳しく批判しています。
 とうとうそこまできたかという気がします。開かれた学校、住民や保護者の学校参加という理念からすれば、想像できたことです。元々行き過ぎた「開かれた学校」には懐疑的な私ですので、尾木氏同様、もちろん違和感はありますが。
 それよりも気になったのは、次の記述でした。『確認を求めたのは、宿題などの提出物やテスト成績などに基づき「意欲」や「理解」などを評価する「観点別評価」~(中略)~一般的な成績への不満は受け付けないとしている』というものです。
 記事を書いた記者の勘違いか、表現が言葉足らずなのではないかと思うのですが、素直に読めば、①宿題などの提出物が「意欲」や「表現」を評価する際の主たる基準になっている、②テストの成績が「意欲」を評価する際の主たる基準になっている、③「意欲」や「理解」の「観点別評価」は、保護者が適否を判断できるものである、④「観点別評価」は成績ではない、ということになってしまいます。
 ①について言えば、宿題などの提出物の提出状況は、家庭の意識や教育力に大きく左右されます。学校のことに高い関心をもつ保護者とそうでない保護者の場合、子供本人の努力に関係なく大きな差が生じるということです。横浜市の小中学校では、本当にこんなことで子供を評価しているのでしょうか。
 ②について言えば、ペーパーテストでは、子供の興味・関心・意欲は測ることができないし、測ろうとすることは適切ではないというのが「定説」です。そこで、教員が一人一人の子供の日常の学習の様子ををきちんと観察することの大切さが強調されてきたのです。そうした考え方は否定されたのでしょうか。
 ③について言えば、教員の専門性の否定だと思います。この発想の背後には、ある数値化されたデータさえあれば自動的に評価が導き出されるという評価観があります。通知表は、入試の合否判定とは違います。教材と子供に精通し、子供を教えるプロである教員が、自ら積み上げ磨いてきた暗黙知を活用して、その子供のもっている良さや特性を発見し意味づけるのが「観点別評価」なのです。
 ④について言えば、「評定」と「評価」の混同があるように思います。そして、保護者が重視するのは、内申書等に影響する成績=評定であり、「観点別評価」はさほど重視されていないので、前者についてだけ学校が決定権を握っていればよいという考え方がうかがえるのです。
もし、私が指摘したことがすべて事実であれば、それは今まで確認されてきた義務教育における学習や評価・指導の概念を否定するものです。あくまでも記者の勘違いや言葉足らずであることを祈りたいものです。

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kakonozissenfairu

2012-11-01 07:37:25 | Weblog
「特異例の一般化」10月26日
 専門編集委員の近藤勝重氏が、『平均値に明日はない』という標題でコラムを書かれていました。その中で近藤氏は、『「平均値に明日はない」とは、ビジネスの世界で耳にする言葉である。世の新しい流れは売上数量の単なる平均値からは読みとれない。それより極端な値、言ってみれば異常値が出ているところに注意して時代を読みとるべしという意味が言外にある』と書かれています。
 学校教育においても、この「格言」は生きているのでしょうか。私は、新聞で報じられた「特色ある教育活動」をファイルしています。得意な事例が一般化するには時間がかかるでしょうから、1年前から4年前の3年間分のファイルを見直してみました。
 「国防教育」に取り組んでいる大阪府の高校、受験のために「勉強部」という部活を設けた都立校、しつけ授業をも受けた群馬県のI市、授業時間を25分間に分割してカリキュラムを組んだ福岡市の中学校、ゼロトレランスを導入した愛知県の高校、アラビア語の授業を創設した神奈川県の高校、児童相互に他学年の授業参観を取り入れた神奈川県A市など、全校でトイレ清掃を取り入れた神奈川県Y市、斬新で意欲的な取り組みが綴られていました。
 この中で、その後の大きな流れにつながっている取り組みはあるのでしょうか。私が知る限りでは、トイレ清掃がやや広がりを見せているくらいです。学校教育では、近藤氏が指摘する「異常値から時代の流れが」という原理は成り立っていないように思えます。
 これは、学校や教委、あるいは教員が創意工夫の精神に欠けているからなのでしょうか。それとも、与えられる教育課題が多すぎて、それをこなすだけで精一杯なのでしょうか。あるいは、文部科学省を頂点とした上意下達システムが強固なため、下からの改革が進まない仕組みになっているのでしょうか。
 実際には、それらの一つ一つが影響しているのでしょうが、最大の「原因」は、学校や教委の取り組みは、教育関係者の中だけで話題になり、国民全体の目に触れることがほとんどないことではないかと思います。それゆえに、大きなムーブメントにならないのです。教育改革を先導する可能性のある実践を広く広報し、世論の評価を得るような仕組みを整えることこそ、文部科学省の仕事なのではないでしょうか。

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