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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

私の学校

2012-11-20 08:07:58 | Weblog
「私の…」11月14日
 バイオリニストの葉加瀬太郎氏へのインタビュー記事が掲載されました。その中で葉加瀬氏は、『日本人は日本のことを「この国」って言うことが多い。なんでマイカントリー、我が国って言えないんだろう』と語っていらっしゃいました。
 そう言えば、私がこのコラムで取り上げ続けているM新聞の夕刊の特集も「この国のかたち」でした。葉加瀬氏は、愛国心や郷土意識との関連でこの言葉を発していらっしゃいましたが、私は「学校」との関連で考えてみました。
 教員は、数年で次の学校へ異動していきます。当然、私も異動を経験しました。私が最初に異動したとき、新任校は、区内でトップクラスの職員団体の力が強い学校でした。正直なところ、職員室にいるのが苦痛でした。職員団体に加入していない私に対して、「俺が必ずお前を変えてみせる」という古参教員、校庭の真ん中に生えていて休み時間や体育の時間に邪魔になっている木の伐採に反対し「この木を切ったら自衛隊のヘリコプターが降りてくる」と真顔で言う教員、そんな彼らと向かい合っているのが嫌だったのです。
 当時の私は、「この学校は…」「この学校では…」と言っていました。意識してはいませんでしたが、自分の学校という感覚をもてなかったのでしょう。数年が過ぎ、その間、自分が教務主任や研究主任などの立場になり、学校の雰囲気を変えていきました。そして気が付くと「うちの学校では…」「うちでは…」という言い方をするようになっていたのです。ときには非難され、面と向かって罵倒されたこともありましたが、自分が汗をかいて学校を創り上げていくうちに、自分の学校という愛着が湧いていったのです。
 教委に勤務するようになり、所管の学校で問題が起きると、校長などと一緒に保護者や市民に対応する機会が増えました。そんなとき、「この学校は…」という言い方をする保護者が相手の場合は、話し合いが拗れることが多かったものです。「うちの先生」と言わずに「あの先生は…」という言い方を耳にするときも同じでした。要するに、保護者が、学校と自分を同じ側においているか、対峙的に見ているかの違いです。
 校長は、自分のの学校経営方針に、9割の保護者に「うちの学校」と言ってもらえるようにする、という目標を書き込んでみてはどうでしょうか。開かれた学校という使い古された言葉よりもよいと思うのですが。

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恐怖心を取り除く

2012-11-19 07:53:18 | Weblog
「恐怖心を取り除く」11月13日
 専門編集委員の牧太郎氏が、『怖い「差し迫った加害」』という標題でコラムを書かれていました。その中で牧氏は、パソコン遠隔操作で誤認逮捕された学生が虚偽の自白をしたこと、尼崎連続変死事件で地の命を奪ったことなどの例をあげ、『人間って、こんなに弱いのか?「差し迫った加害」を予感すると「権力者」の言いなりになる』と述べていらっしゃいます。そして、『イジメもそうだ。「差し迫った加害」を避けるため、イジメられそうな子が「イジめる側」に加わる』と指摘しています。
 私は弱い人間です。ですから、牧氏の悲しい「問い」に対する答えはYESです。人間は弱い存在と認識することから、全ての対策がスタートするのです。いじめ問題についても同じです。
 学校におけるいじめ対策で最も大切なのは、いじめが発生した初期の段階で、子供たちの恐怖感を取り除くこと、「イジメに加わらなければ自分が標的にされるのではないか。そして誰も助けてくれないのではないか」という「差し迫った加害」への恐れを取り除くことなのです。なお、蛇足ながら、ほとんどのケースで、子供は教員よりも先にいじめ発生の不穏な空気を察知するものです。
 では、誰がその役目を果たすのかと言えば、もちろん教員です。教員は、どんな事情があろうとも、どんな妨害があろうとも、いじめという行為は絶対に許さないという強い姿勢を常に示しておくことが必要です。そして、実際にいじめが発生したとき、断固とした対応をすることです。
 「加害者」の子供がどれほど多数であっても、「加害者」の保護者が議員や地域の有力者を巻き込んで圧力をかけてこようとも、「被害者」の子供が「もういいです。大丈夫です」と教員の介入を拒んでも、弁護士が面談を求めてきて「(加害者側の)子供に対する人権侵害だ」と脅しをかけてきても、一歩も譲ることなく、「いじめという行為は許さない」という強い姿勢を子供たちと保護者に見せ続けることが重要なのです。
 教員が、他からの圧力に屈したり、様々な思惑からいじめに対して迎合的、融和的態度をとれば、子供は「差し迫った加害」を予感し、いじめに屈してしまいます。弱い態度をとった教員が、子供に対して「強くあれ」「正義感をもて」と求めるのは筋違いだと言わざるを得ません。それは責任転嫁ですし、専門家としてのプライドを捨てることです。
 しかし、ここで前述した「前提」が立ちふさがります。教員も人間であり、「差し迫った加害」に怯える弱い存在なのです。ここで、教員に「スーパーマンになれ」と強要することは非現実的ですし、問題の解決になりません。弱い教員を支える味方が必要になるのです。それが、校長であり、教委であり、「良識ある」保護者なのです。そうした人々の支えがあると確信できるからこそ、教員は自らの弱さを克服できるのです。しかしまた、彼らも「弱い人間」です。ですから、一人で強くなることはできません。彼ら相互に支え合うことが必須なのです。
 いじめ問題というと、ふがいない学校や教員とそれを責める保護者や市民、メディアという図式になりがちですが、本当に求められるのは、最前線で頑張る教員を精神的に支える分厚い支持層の広がりなのです。「私たちは先生を、学校を信頼しています」というメッセージを送ることができる雰囲気を保護者や市民の中に醸成することが、教育行政の使命です。 

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義務教育の経済効果

2012-11-18 08:31:10 | Weblog
「教育の経済効果」11月13日
 元内閣府参与の湯浅誠氏が、『絆社会実現への展望』というパネルディスカッションにパネラーとして参加なさっていました。そのことを報じる記事の中で湯浅氏は、『私の兄は障がい者ですが、兄が働く場があるということは、母親に日中自由な時間が生まれて社会活動ができるということです。一日中母と兄が家の中にいたら2人とも具合が悪くなって、私が何とかしないといけなくなる。つまり兄が働く、社会参加の場をつくってくれている人は、私も支えてくれていることになります』と語っていらっしゃいます。
 また、湯浅氏は、『日本のGDP470兆円は、そういう人たちもかかわっています』とも語っています。私は、こうした考え方で学校教育を見てみることが必要だと思います。
 教育と経済というと、ビジネス社会で外国のエリートと渡り合える英語力向上とか、技術立国を支える先端科学者や技術者の育成などという文脈で語られることが多く、そのために教育改革を進めるという構図が一般的です。しかし、湯浅氏的な見方からすれば、日の当たらない場所でも陰日向なく働く誠実さ、独創的ではないものの決められた手順に従って黙々と職責を果たす責任感の強さなどを身に付けさせ伸ばすことも、学校教育のわが国の経済への貢献の形だということになるはずです。
 義務教育修了程度の読み書き計算の能力がなければ、自立できる職を得ることは不可能です。一定時間席に着き静かに話を聞くだけの根気や習慣がなければ、ほとんどの職に就くことはできません。英語が話せなくても、微分や積分が理解できなくても、したがって「エリート」ではなくても、そうした人たちが「自立」すること自体が、わが国の経済の発展に寄与しているという発想が大切です。
 特に、義務教育においては、この基礎的な能力や姿勢の育成こそ重視されるべきだと考えます。個性伸長や特色ある教育の推進、選択制によるエリート育成などは、高等学校以降に重視されるべきであり、義務教育は基礎基本の徹底こそ本務であることを再確認したいと思います。

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信じることは美しきかな?

2012-11-17 08:01:09 | Weblog
「信じること」11月13日
 夕刊編集部の小国綾子記者が、『夫を信じられますか?』という標題でコラムを書かれていました。小国氏は、『あなたは夫が痴漢容疑で逮捕されたとき、無実と信じられますか』という書き出しでコラムを始め、『塀の中は一人では闘えない。最大の敵は孤独。最大の味方は家族や人とのつながりだ』という言葉で締めくくっています。
 思わず「私のつれあいだったら…」と考えてしまいました。それとは別に、「信じること」の難しさについても考えさせられました。
 学校でいじめが発生したとします。教員が複数の子供への聞き取り調査を行い事実確認します。教員自身の日頃の観察や他の教員からの情報提供も踏まえて総合的に判断した結果、Aさんは「加害者」であるという結論を得ました。Aさんも認めました。ところが、Aさんの保護者は、「私は我が子を信じています。誰が何と言おうとうちの子はいじめなどという卑劣な行為をするはずがありません」と言い、「うちの子は、先生に問い詰められやってもいないのに嘘の自供をさせられたのです」と徹底抗戦の構えです。
 本当にAさんが「加害者」であったとしても、この保護者の信じる姿勢は、麗しい行為、美しい人間性の発露なのでしょうか。これは決して絵空事ではありません。現在、学校では、保護者の我が子中心主義に悩まされています。親子の信頼関係というようなことではなく、我が子を「神」のごとく無謬の存在として決して過ちを認めず、動かしようのない事実を突きつけられても、「悪いのは先に手を出したBさん」「うちの子はCさんに誘われただけ」など、我が子の「罪」を軽くしようと詭弁を弄するばかりか、最終的には「学校内で起こったことは学校の責任」という論法で責任転嫁を図ってきます。
 私も教員時代保護者会などでは、「我が子を信じることが親の役目です」という趣旨の話をしてきました。その後、子育てのあり方を研究する団体の仕事に関わったときにも、同じ意味の話をしてきました。それは間違っていなかったと思っています。ただ、それは、当時の保護者は、信じることと真実を見ることのバランスが取れていたからです。今はそうではありません。
 保護者の盲信が、いじめ問題の解決への障害となっている面もあるのです。
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ここにも共通点

2012-11-16 08:13:40 | Weblog
「ここにも共通点」11月11日
 心療内科医の海原純子氏が、『「思い込み」と「レッテルはり」の連鎖』という標題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、『思い込みは、あらゆる分野で様々なトラブルをひきおこす。こわいのは、自分の思い込みとは異なる可能性を全く考えなくなることでありこれは思考の硬直化である』と述べていらっしゃいます。そして、良い医師は、『患者さんに症状をきき、診察したとき、その情報から、あらゆる可能性を思いうかべる』ものだと語っています。
 以前、「聖職?」で述べたように、医師と教員が置かれた状況には共通点がありますが、ここでも共通点があるようです。それは、思い込みを排除することが良い教員(医師)の条件であるということです。
 子供が、嘘をついたとき、教員の言うことを聞かないとき、学習内容を理解しないとき、他の子供に暴力を振るうとき、その理由についてあらゆる可能性を考えることができる教員が良い教員なのです。「あいつは嘘つきだから」「ひねくれているから」「分かろうとする気がないんだよ」「元々粗暴な奴なんだ」などと決めつけてしまう教員は、原因はすべて子供の側にあり、自分の指導を振り返ろうとしません。従って、教員としての進歩もありません。また、子供の内心の苦しみや悩みに思いを致すことができません。それでは、子供に信頼される教員にはなれないのです。
 さらに、上記のような悪い状態のときばかりでなく、子供の「善行」を目にしたときにも、その理由についてあらゆる可能性を考えることが大切です。それまで消極的だった子供が委員などの責任ある役を引き受けようとする、授業中の私語がなくなりきちんとノートをとるようになる、すぐ手を上げる子供が悪口を言われても我慢しているなどの変化の背景にも、様々なことが考えられるものなのです。「善行」の陰に、追いつめられた子供の心情があり、教員に注目してほしい、助けてほしいというサインを発している場合だってあるのですから。
 医師も教員も、人と接する仕事です。そこに共通点があるのは当然のことなのかもしれません。看護師、介護士、カウンセラー、接客業など、人と接する職業から学べることは多いのかもしれません。

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いじめは犯罪ではない

2012-11-15 08:15:09 | Weblog
「いじめは犯罪ではない?」11月10日
 品川区の中学校でいじめを受け自殺した生徒の父親が、いじめ調査の結果を受け、インタビューに答えていました。その中で父親は、『いじめは立派な犯罪なのに、加害者にはそういう意識がない。全ての大人が、いじめとくくらず、暴行罪や傷害罪などの犯罪行為であると、子どもたちに教えてほしい』と語っていました。
 その心情は察するに余りありますが、間違っていると思います。私も本ブログでいじめのことをたびたび取り上げ、「犯罪として警察と連携して対応することを躊躇うな」という主張をしてきました。しかし、その主張には、前段がありました。
 現在、学校において「いじめ」とされているのは、「被害者」がいじめられていると感じていたらいじめはあるという考え方に基づいて認知されたものです。当然のことながら、その「いじめ」には、客観的に見ればからかいという表現が適当であるもの、「被害者」の誤解によるものまでもが含まれています。さらに、「加害者」側にまったく悪意が存在しないケースもあります。そして、それ以外では、世間の人が「いじめ」というイメージから思い浮かべる「よくあるいじめ」が大部分を占めているのです。
 また、この「よくあるいじめ」について言えば、ほとんどの子供が、被害者と加害者の両方を経験しているはずです。小中学校で9年間、学級だけでなく、部活などにおいても「いじめ」に関わる機会があるのですから、延べ10000時間も子供同士の集団生活を営んでいて、何のトラブルも経験しないなどということはあり得ないのです。もし、「私はいじめなどという卑劣な行為はしたことがない」と言う人がいるとすれば、その人は自分の好意を冷静に振り返ることができない愚か者であり、他人の痛みを想像できない欠陥人間なのです。
 もし、父親氏の言うとおり「いじめは犯罪」ということになれば、それはあなたの可愛い息子や娘も犯罪者であるということになるのです。納得行かない話です。大切なのは、「いじめ」は多様であり、憎んでも憎み足りない卑劣な犯罪としか言えないものから、「そういえば自分にもそんなことがあったっけ」と思い出して笑うことができる牧歌的なものまで、全てを含む概念であるということを、全ての人がきちんと認識することなのです。だからこそ、学校や教委はその対応に悩み苦しんでいるのです。解決が難しいのです。
 ですから、こうした「いじめ」問題への対応に必要なのは、「外野席」から無責任なヤジをとばすことではなく、学校という事件の現場で多くのいじめに遭遇している教員を信頼し、応援し支えることなのです。
 学校や教員は、信頼に応えるために、いじめについての個々の経験を蓄積・共有化し、教員個人として、学校という組織として、いじめ対応能力の向上のに務めなければなりません。常に自己の専門性を磨き上げる専門家とそれを信頼する関係者という図式にこそ、いじめ問題の未来はあるのだと思います。

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誤解を広める

2012-11-14 07:37:06 | Weblog
「ミスリード」11月9日
 埼玉県入間市の中学校の「総合的な学習の時間」の実践が紹介されていました。記事によると、『全生徒が茶道に挑戦している。全11校に茶室を設けており、生徒たちは総合的学習の時間を利用し計13時間学ぶ』ということです。内容としては、『入門編ともいえる「盆手前」。お盆を使う簡単なお手前で、道具類をお盆に乗せて運び出し、お盆の上で点前を進めるため、手軽に茶道を楽しめる』と書かれています。同市教育長は『茶どころ出身の特技として習得し、誇りも持ってもらえれば』と語っています。
 この記事を読んだ人は、「総合的な学習の時間」についてどのようなイメージをもつでしょうか。学習指導要領で内容が決められている教科の授業では取り組むことができない内容を学ぶ、地域の特長を生かした学習を行う、座学ではなく実際に体を動かし感性で学ぶ、といったイメージではないでしょうか。
 それで正しいのです。それらこそ、「総合的な学習の時間」の特徴です。でも、それだけでは、十分ではありません。「総合的な学習の時間」において最も大切なのは、「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する」資質や能力の育成です。
 ですから、いくら教科の内容ではないことを地域の特性を生かし体験的に学んだとしても、この「問題発見・解決能力」を伸ばさない実践であっては意味がないのです。入間市の実践で言えば、茶道体験を通し、生徒が課題を発見し、解決の方法や解決への見通しをもち、粘り強く試行錯誤しながら、一定の結論を導き出すという過程があるはずなのです。
 例えば、どうして入間市ではお茶づくりが盛んなのだろうという疑問をもつ生徒もいれば、お茶を飲むのにどうしてこんな面倒臭い手順を踏むのだろうと考える生徒もいるはずです。追究は、お茶づくりや喫茶法の歴史に向かうかもしれませんし、お茶の種類や植物学的な方向に向かうかもしれません。
 具体的には、理科の教員の指導の下、お茶の成分分析に取り組み生徒がいるかもしれませんし、社会科の教員のアドバイスで農家の人へのインタビューに取り組み生徒もいるでしょう。そうした多様な学習をうまくコントロールし、全ての生徒に学ぶ喜び、やり抜いた自信を味わわせるのが「総合的な学習の時間」であり、指導する教員の指導力が問われるところなのです。
私は、入間市の取り組みを批判しているのではありません。おそらく茶道の作法を覚えるだけではなく、私が例示した以上の主体的な学びが行われているはずだと思います。ただ、そうした学びの部分を報じなければ、「総合的な学習の時間」は、何かを体験すればよいという間違ったイメージを広げてしまうと指摘したいのです。そうした誤解が広がれば、本来の趣旨とは違ってしまい、行政や業界、政治家や諸団体など「外部」からの「こうした体験をさせてくれればよいPRになる」というような圧力で、「総合的な学習の時間」が歪められてしまう危険性があるからです。報道がミスリードすることの内容に願いたいものです。

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はしたないことは口にするな?

2012-11-13 07:57:22 | Weblog
「聖職?」11月9日
 埼玉県済生会栗橋病院院長補佐の本田宏氏が、『勤務医むしばむ心身の疲労』という標題でコラムを書かれていました。その中で本田氏は、『勤務医の51%が週60時間以上労働に従事し、家庭生活が困難』という調査結果を示し、『社会の職業労働時間短縮の流れの中で医師のみが長時間労働は当然とされ、まとまった休みも取れず、それに見合う報酬が支払われない状態が続いている』と問題提起しています。
 この医師ないしは勤務医という言葉を教員に入れ替えても成立するように思います。特に運動系の部活の顧問をしている教員の場合、より過酷な勤務状況となっています。そして、他の職業とは異なる状況が「当然視」されている背景に、「医師は人の命を救う聖職」、「教職は聖職」という特別な職業という見方があることも共通しています。
 さらに、「特別な職業」視は、当事者である教員や医師が不満を漏らしにくい雰囲気を醸成します。休みたいとかその分の報酬がほしいというような「俗な」要求を口にすると、崇高な使命感が足りないと批判的な目で見られてしまうのです。
 また、医師も教員も経済的には、国民の平均よりも安定し恵まれていると思われているという事情もあります。不満の声をあげると、非正規労働者などより経済的に苦しい立場にある人たちから「何を贅沢なこと言っているんだ」と突き放されてしまうのです。 
 視野を広げてみれば、わが国は医療費も教育費もOECD諸国の中で下位のレベルにしかないということも共通するかもしれません。それでいて、要求されるレベルは高く、少ない予算と人員の中でかなりの高レベルを維持しているにもかかわらず、常に批判の対象にされていることも同じです。
そして、近年の特徴として、かつては「先生」と呼ばれそれなりの敬意を払われる存在であったものが、多くのクレーマーに悩まされるようになり、患者や保護者から罵声を浴びせられることが増えたという共通性もあります。
 これらの総合的な結果として、燃え尽き症候群に陥り、中途退職を選択するものが増えていることまで似ているのです。
 社会的地位の向上を含めた教員の労働条件の改善は、日教組や全教に任せておくのではなく、校長会や副校長会、教委など、関係者が協力して動くべき課題だと思います。

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小事と大事

2012-11-12 07:27:31 | Weblog
「大事と小事」11月6日
 専門編集委員の牧太郎氏が、『「ささいなこと」で騒ぐな』という標題でコラムを書かれていました。その中で牧氏は、田中慶秋前法相の外国人献金問題について、『どこにでも転がっている話ではないか。国会議員全員を克明に調査すれば、多分、20人に1人ぐらいの割合で「身に覚えがあること」だろう。この計42万円の献金で、何かが歪められたというわけでもあるまい』と述べています。
 まったく同感です。年間10万円余りで国会議員に言うことを聞かせられるのであれば、私も「献金」します。こんな安い投資はありません。まあそれはともかく、牧氏が続いて述べているように『バカバカしい話だ。新聞が「二流の政治家のお粗末」をやり玉にあげ、その「ささいなこと」を巡って国会は政策論議に入れない』状況をみると、主要メディアの見識を疑いたくなります。
 同じようなことは学校教育においても見られます。いじめ、不登校、「落ちこぼし」など、すべての学校で発生しています。「いじめはあってよいのか」「不登校はあってよいのか」と訊ねられれば、「よくない」と答えざるを得ません。外国人からの献金が禁止されており、「外国人から献金を受け取ってよいのか」と訊かれれば「よくない」と答えざるを得ないのと同じです。
 教員による不祥事についても同様です。体罰も飲酒運転も痴漢行為も許されないことです。しかし、教員は全国に数十万人もいるのですから、不祥事が0になることはありえません。それが現実というものです。確かに、週刊誌や「情報番組」を装ったバラエティ番組ウケする話題かもしれませんが、現在の学校教育に関わる大問題ではありません。
 義務教育の地方分権化推進か全国一律化強化か、教委制度の廃止か充実か、競争原理導入の是非等々、今後のわが国の教育の形を左右しかねない問題についての議論が、「小事」によって脇に押しやられるようでは困るのです。
 「小事」については、日々の営みの中で淡々と対応していくことで、問題の軽減に務めること、その際に「根絶」などという現実離れした目標を掲げないことが大切です。一方、「大事」については、「小事」が解決していないことを停滞の言い訳にしない姿勢が重要です。
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丸腰では戦えない

2012-11-11 07:57:00 | Weblog
「学校の限界」11月5日
 甲南大学准教授の阿部真大氏が、『いじめ「ある」現実直視した報道を』という標題でコラムを書かれていました。この中で阿部氏の『我々にできるのは、「いじめのない学校」を夢想することではなく、いじめがあるとの前提に立って、この問題に取り組む姿勢ではないだろうか』と述べています。大賛成です。ただ、そうした前提に立った阿部氏の主張には、首を傾げざるを得ません。
 阿部氏は、『社会が学校の暴走を防ぎ、学校が地域社会の暴走を防ぐ、互いに批判力を持つ開かれた関係を築くことこそ目指されるべき』としています。不可能だ、と言わざるを得ません。長年、教委に勤務し学校と地域社会双方を見つめてきた経験から、学校が地域社会の暴走を防ぐという姿がイメージできないのです。
 毎日朝食を摂らずに登校する子供がいたとします。教員が家庭訪問して、保護者に対して「お子さんにきちんと朝食を摂らしてください」と言おうとすれば、「他人の家のことに口を挟むな」とドア越しに怒鳴られ、ドアも開けてもらい得ないのが実状です。手紙をもたせても無視され、電話を掛ければ「そんなに気になるなら、学校で朝飯を食わせてくれ」と言われてしまうのです。
 子供が暴力を振るい教員が怪我をした場合でも、「子供に殴られるような教員が間抜けだ」という捨てぜりふを浴びせられてお終いです。警察に被害届を出せば、「子供を前科者にするのか。子供を警察に売るのが教育者か」と脅される始末です。
 よく「子供を人質に獲られているから学校に文句は言えない」というようなことを言う人がいます。私の実感とは違いますが、仮にそうだとしても、その保護者に対してさえ、前述したような体たらくなのです。まして、学校がEU協力をもつことができない地域住民に対して「暴走を防ぐ」ことなんて、まさに夢物語にしか思えません。
 保護者や住民は、メディアや議員を武器にすることができますが、学校には武器はありません。初めから勝負にならないのです。阿部氏の説く理想は素晴らしいものです。その実現のためには、学校に武器を与える方法を生み出す必要があります。

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