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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

学校観の転換

2012-04-10 08:20:21 | Weblog
「学校観の転換」4月4日
 大学生の意識に関する調査結果が掲載されていました。記事によると、『内閣府の「世界青年意識調査」では、「学校に通う意義」(複数回答)も設問に「友達との友情をはぐくむ」がトップ。66%がこう回答し、98年の60%から伸びた。韓国では「学歴や資格を得る」、米、英、仏は「一般的・基礎的知識を身につける」の回答が多く、対照的だ』ということです。
 我が国の大学生は、大学生活に於いて、勉強や研究よりも仲間との人間関係を重視しているのです。これは、逆の言い方をすれば、勉強や研究を軽視しているということです。こうした傾向は、大学生になってから急に顕著になってきたとは考えられません。小学生のときから徐々に育まれてきたものなのです。
 かつて、小学校の新入生を対象としたCMに「友達100人できるかな」というフレーズがあり、微笑ましくて人気のあるCMとして違和感なく受け入れられていました。つまり、子供だけでなく、保護者世代も、学校生活で大切なのは友達づくりという意識をもっていたのです。
 実は、友達との関係を過大に重視することが、我が国で「いじめ問題」が、自殺等の大きな問題に発展する要因にもなっています。いかに勉強ができようが、教員から高評価を得ようが、友達関係が躓くだけで、学校生活全般が耐えきれないものになってしまうからです。
 最近、橋下大阪市長が、小学校での留年制を打ち出したとき、反対論はほとんどすべて子供同士の人間関係に歪みが出る、という視点からのもので、学習成果の視点からの反対論はありませんでした。ここにも、学校で大切なのは勉強ではなく人間関係づくりであるという意識が反映されています。
 今、大学生の学習時間の短さが問題となっています。文部科学省は様々な施策を考えていますが、根本の課題である「学校は勉強するところである」という意識の弱さを改善しない限り、大学だけを対象にした小手先に改善策ではどうにもなりません。
 こうした意識を変えるショック療法としても、小学校の留年制は検討の価値がある施策だと思います。

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誰のお陰か

2012-04-09 07:30:28 | Weblog
「誰のお陰?」4月3日
 奥田碩氏が、JBICの総裁に就任したという記事が掲載されました。その中で、『日本は政治も経済も世界から2周も3周も遅れた。成長していくために存在感を示したい』という奥田氏のコメントが紹介されていました。
 超一流の経済人である奥田氏のコメントですから、おそらく正しいのでしょう。でも、私の実感では、現時点でも我が国が、世界の2流国や3流国であるとは思えないのです。依然として世界第3位の規模の経済大国ですし、対外資産も最高レベルです。国内の治安もよいと思いますし、日常生活を支える社会的システムも立派に運営されているように思えます。しかも、産油国のように天与の資源に恵まれているわけでもないのに、です。
 奥田氏の言うように、政治も経済もだめなのだとすれば、それでもこれだけの社会を維持しているのは、我が国には何かとても優れた面があると考えるのが自然です。私は、それは国民一人一人の資質だと思います。そして、そうした国民の資質を育て伸ばしてきたのは、「教育」の力です。さらに、我が国の国民の意識からすれば、「教育」の中心を担っているのは学校教育なのですから、我が国を支える功績第一は、学校教育ということになると思います。
 つまり、いろいろな批判がありますが、我が国の学校教育は、全体としては合格点であるということです。そして、多くの人が指摘しているように我が国の学校教育は、「大学型」ではなく、「義務教育型」です。義務教育システムは優れているが大学等の高等教育が遅れているということです。こうした認識を土台に学校教育改革を構想すべきなのです。
 東京の杉並区が、23区で初めて学校選択制を廃止するというニュースが流れました。的はずれな義務教育批判に安易に乗っかった改革の弊害が現れてきたということです。今までの義務教育システムを正当に評価した上で、革命ではなく改善という発想で義務教育改革を進めることが大切なのだと思います。
 
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事実無根の名誉毀損

2012-04-08 08:15:39 | Weblog
「名誉毀損」4月2日
 林田英明記者による『「君が代訴訟」15年の記録出版』という見出しの記事が掲載されました。見出しから分かるように、処分を受けた教員が執筆した本についての記事です。その中に信じがたい記述がありました。明らかに事実と異なると思われるのです。私が教委の担当者であれば、名誉毀損で訴えたいと思うほどです。
 『原告らは、「日の丸・君が代」の歴史と意味を教えずに「国旗掲揚・国歌斉唱」として強制し、従わないと処分する北九州市教委に対し~』とあります。素直に読めば、北九州市教委が、学校に対して、国旗である日の丸と国歌である君が代について、その歴史も意味も教えるなと指示したという意味に取れます。そんなことがあり得るでしょうか。
 学習指導要領では、国旗及び国歌について、学年や校種に応じて具体的に指導するよう求めています。北九州市教委は、学習指導要領に逆らう通知をだしていたのでしょうか。政令指定都市の教委は、一般の市町村の教委よりは独自性を発揮することが多いのは確かですが、法治国家であるわが国において、法的拘束力があるという判決が出されている学習指導要領に反する通知を出すということは、ほとんど考えられません。 
 万が一、そうした事実があったとしたら文部科学省から指導を受けたはずですが、当時東京の教育委員会に勤務していた私にはそうした記憶はありません。いくら忘れっぽい私でも、そんなめったいない事件があれば記憶していないはずはありません。もし、事実が、私がここで述べたとおりであれば、北九州市教委は、この記事に対して、事実と異なると講義すべきだと思います。
 また、別の部分には、『学校現場の主体は誰なのかを本気で問う裁判』という表現も見られます。まさかとは思いますが、「学校現場の主体」が教員であると主張する気なのではないかと疑わせる表現です。ここでいう「主体」とは、「団体や組織の主要部分」という意味でしょう。だとすれば、学校現場の主体は子供に決まっています。もし、学校の教育内容は子供が決めることはできないので子供は「主体」ではない、というのであれば、学校の意思決定は校長の権限ですから、学校の「主体」は校長ということになります。いずれにしても、教員が「主体」という理屈は成り立ちません。もちろん、具体的な教育活動の実施機関としての「主体」であれば、教員ということになりますが、そうだとすれば、教育内容としての国旗・国歌の是非を問う際の「主体」ではありません。
 それにしても、どうして記事で、「日の丸・君が代」という表現を使うのでしょうか。問題の本質は、君が代という歌、日の丸という旗ではなく、法律で国旗・国歌ときめられているものを公教育の場でどう扱うかということです。それを「君が代・日の丸」としたのでは、問題の本質が見えなくなってしまうと思うのですが。記者の好みなのでしょうか、新聞社の方針なのでしょうか。

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自分だけの経験

2012-04-07 07:51:39 | Weblog
「どの段階の話?」4月2日
 大和田香織記者が、『英語力を伸ばすには』という標題でコラムを書かれていました。その中で大和田氏は、『通信社の記事や海外から届くエッセー、評論など、とにかく毎日たくさん、形式の違う文章を読む。おかげで語彙が増えたのはもちろん、リスニングでも効果があり、テレビの英語の音声が頭に入りやすくなった』と自らの経験を述べています。
 その上で、『大学受験では英語で苦労したが、参考書より絵本や雑誌を多く読めばよかったとつくづく思う』と書き、『英語力を伸ばすには読む・聞く・書く・話す、どれも大切だが、一番の近道は「いろいろ読むこと」がお勧めだ』と提案しています。
 どうなんでしょうか。私は学生時代、「英語」が嫌いで苦手でした。今でも、英語アレルギーがあります。だから、大和田氏の考えの是非について判断することはできません。ただ、よく分からないことがあります。大和田氏の「いろいろ読むこと」という学習方法は、小中高大のどの段階を想定しての話なのか、ということです。
 小学生に英語で書かれた絵本や雑誌を与えても、何も分からず数分で放り出してしまうでしょう。関心をもち、実際にたどたどしくても読み進めることができる状況になるまでには、いくつかの英単語を知り、基本的な構文を知り、辞書の引き方を習得しなければなりません。それは、どの段階で可能なのでしょうか。
 また、そのレベルに到達させるための指導はどうあればいいのでしょうか。従来の文法重視でよいのか、会話重視が効果的なのか、それ以外の方法があるのか、そういったことがきちんと位置付けられて初めて、「効果的な英語学習」の体系が確立するのです。
 別に大和田氏を批判するわけではないのですが、英語教育に関する「提言」には、こうした個人の狭い経験に基づいたものが多いように思われます。おそらく大和田氏は、いわゆる成績優秀な生徒であったものと思われます。そうでなければ3大日刊紙の記者になることなどできないはずだからです。平均レベルをかなり上回る人の個人的体験は、英語の才能に恵まれない者にとって意味がない場合もあります。
 餅は餅屋、と言います。英語教育についても、英語教育の専門家による議論を慎重に見守り、質問をするというのが我々「素人」のあるべき姿だと思います。
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男だけ

2012-04-06 07:53:26 | Weblog
「男だけ」4月2日
 書評欄に、「男子校という選択」(おおたとしまさ著、日本経済新聞出版社)という本が紹介されていました。そこには、『男女別学の否定こそ教育の多様性を損なうと指摘する』と書かれていました。
 私が関係した「下田教育研究所」においても、いく人かの著作を基に、男女別学の問題を取り上げています。私とおおた氏の主張には共通点があるように思えます。是非皆さんに考えてほしい問題です。以下に引用しておきます。


 アメリカでの経験では、男子に匹敵する、あるいは男子を超えるような非常に立派な仕事をする女性は、全部女子校の出身なんです。共学出身の女子はあまり伸びないということが、経験的にわかっている。それは、共学だと性的に早く目覚めてしまって、男の関心を買うことばかりに一生懸命になるからではないかと考えられています。そういう点でも、男女別学はメリットがあるのかもしれません。(1997・10・15 PHP文庫「いじめと妬み」土居健郎・渡部昇一著)
 小学校にあがったばかりの年齢では、女の子の方が言語能力が高い。そのため男の子はどうしても国語の成績が悪くなる。よどみなく言葉が出てくる女の子たちを前にすると、男の子は自分がバカで、がさつで、頭の中がとっちらかった人間のような気がしてくる。それを考えると、男の子の就学年齢を一年遅らせるのも悪い話ではない。イギリスでは、国語、数学、理科など一部の科目を男女別のクラス編成にしている学校がある。たとえばエセックスにあるシェンフィールド・ハイスクールでは、数学のテストも男女クラスで設問のしかたがちがう。男女の脳のちがいに考慮したこの教育方針は実際に成果を上げており、男子生徒の国語の点数は全国平均の4倍、女子生徒の数学と理科の点はほぼ2倍の高さである。(2002・11・1 主婦の友社「話を聞かない男、地図が読めない女」アラン・ピーズ/バーバラ/ピーズ著)


「個に応じた教育」は、教育を考える際の基本原則となっています。学校教育ではなく、教育と書いたのは、家庭教育においても、子供一人一人の個性の違いに応じた子育てが重視されているからです。若い母親の「うちの子どもはまだ離乳食を食べようとしない。同じときに生まれたよその子どもは乳離れをしているのに。うちの子どもは発育が遅れているのではないか」というような質問に対し、通常は「よその子どもと比較するのは意味のないことです」という回答がなされます。つまり、個性尊重の子育ての勧めなのです。
 学校教育においても、「個に応じた教育」は、金科玉条となっています。わが国の学校教育を語るとき、画一的というのは悪い意味で使われます。授業においては、一人一人の発想の違いや興味・関心の違いに応じた展開が求められていますし、学校経営においても特色ある学校教育を行い子どもや保護者が自分に合った学校を選択できるようにすることが求められているのです。さらに、高等学校段階になると、コース制、単位制、三部制など様々な学校が行政主導で設けられるようになっています。現代は、まさに「個に応じた教育」の時代です。
 それでは、「性」は個性を考えるときの要件にはならないのでしょうか。昨年(平成一八年)改正された教育基本法では、旧基本法第五条にあった「男女共学」が削除されましたが、このことはほとんど話題にもなりませんでした。男女共学は当たり前のことだからです。
 しかし、一方では、私立中学校・高等学校の中には男女別学のところがあり、しかも「東大を初めとする一流大学」への進学率が高い名門と言われる学校ほどそうした傾向にあるのです。私の住む東京都でも、麻布、開成、武蔵、桜蔭、女子学院など、東大進学者数上位私立高校は、ほとんどすべて男女別学です。これは、男女別学に一定の意味があるということなのではないでしょうか。少なくとも、そう考える学校経営者、保護者がいるということは間違いありません。女性教員についての項でも述べたことですが、公には「男女に特性や能力の違いはない」という考え方に反対意見を言う人は、教育界にはほとんどいません。したがって、「公」の論理で運営される公立高等学校では、男女別学はごく少数になっています。しかし、綺麗事では済まない私立では、男女別学はしぶとく生き残っているのです。
 また、大学段階になると、東大や京大、早稲田や慶応という「一流校」では、男女共学が当たり前になっています。もちろん、公立小中学校はすべて男女共学です。つまり、中学校・高等学校という段階でのみ、男女別学という在り方が意味をもっているように思われるということなのです。現在では、男女別学がよいと主張することは、公立の学校関係者や教育行政に携わる者にとって一種のタブーになっています。ですから、いくら特色ある学校づくりが叫ばれても、男女別学という公立中学校は現れないのです。しかし、もし、本当に男女別学に教育的効果なり異議があるということであれば、もったいない話です。誰かこの点について、研究してくれる教育学者はいないものでしょうか。

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入れ墨教員

2012-04-05 08:03:49 | Weblog
「信用失墜行為」3月31日
 編集委員の網谷隆司郎氏が、『異文化で育った人たちを、迎え入れる覚悟はあるか』という長い標題でコラムを書かれていました。その中で網谷氏は、『ここ20年来のグローバル時代である。野球、バスケット、格闘技など欧米のスポーツ界の有名男女選手の入れ墨姿がテレビからどっと家庭に流入してきた。ポップス、ロックの人気エンターテイナーもだ。その影響でか、日本の若い世代の間で罪悪感が減り、護身、鼓舞、威嚇などの思いを込めてファッション感覚で入れ墨をする人が、以前より目につくようになった』と述べています。
 その後、『入れ墨人間を私たちの職場仲間、地域の隣人として迎え入れるか』と問題提起をしています。確かにいまの世の中を見ると、入れ墨だけでなく、鼻ピアスや唇ピアス、男の化粧、青や赤に染めた髪、カラーコンタクトなど、超保守的な私から見ると、目を背けたくなる「人種」が跋扈しています。橋下大阪市長は、『公務員が入れ墨を入れるなんて狂っている』と言っているそうですが、その点については全く同じ思いです。
 しかし、これからはそうした人も、受け入れていかなければならないのでしょうか。学校の教員が、「鼻ピアスや唇ピアス、男の化粧、青や赤に染めた髪、カラーコンタクト」をしていたのでは、生活指導などできないというのは古い感覚になっていくのでしょうか。そもそも、中学生が「鼻ピアスや唇ピアス、男の化粧、青や赤に染めた髪、カラーコンタクト」をしていることを問題視すること自体が時代遅れになっていくのでしょうか。
 公立学校の教員は地方公務員です。地方公務員は、「信用失墜行為」を禁止されています。私は指導室長として、教員の服務監督を所管していました。初任者教員には、「地域の人が見ている。出退勤のときの服装まで気を配ってほしい」と指導してきました。サングラスもスニーカーも望ましくないと話したものです。
 常識は時代とともに変わるものです。それは分かっています。かつては、女性教員のミニスカートや男性教員の「長髪(耳が隠れる)」でさえ、眉を顰める人がいたのですから。教員に求められる常識がどのように変わっていくのか、教委は変化を追認するだけではなく、積極的に合意形成に関わっていくべきではないでしょうか。

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憧れ

2012-04-04 07:50:51 | Weblog
「憧れ」3月31日
 放送作家の樋口卓治氏が、「漫才を愛する学生No.1決定戦」についてコラムに書かれていました。その中で樋口氏は、『どのジャンルも才能が集まるには、先人が輝いていなければいけないのだ。テレビでネタをする芸人が憧憬の的にならなければ次の才能が生まれないのである』と書いていらっしゃいます。
 そうなのです。私は大学4年生のときの教育実習で、素晴らしい「先人」に出会いました。目賀田八郎先生です。先生の授業の巧みさ、教員としてのプロ意識に魅了された私は、目賀田先生が主宰する勉強会に参加しました。そこには、私のように目賀田先生に私淑している若い教員が集まっていました。生まれついての怠け者である私は、目賀田先生のようになりたいという思いだけを原動力に社会科の研究を続け、それを教員生活の太い柱としました。
 私自身は「才能」に恵まれませんでしたが、目賀田先生の勉強会に集まった先輩たちは、みな社会科研究において優れた業績を残されました。全国大会での研究発表や助言者として活躍したり、区市の社会科研究部の部長や都の社会科指導主事会の会長を務めたりしたものでした。社会科の分野に止まらず、校長や指導室長、教育長など、教育界全般で大きな影響力を発揮した方もたくさんいました。すべて、目賀田先生への「憧憬」が原点だったのです。
 今、若い教員の皆さんは、憧れの対象となるような「先人」と出会っているでしょうか。話を聞いてみると、そうした幸運な人はほとんどいないようです。他者や外部から強制されるのではなく、教員が自ら進んで努力を重ねてこそ、授業力は向上していくものなのです。教員の授業力向上には、競争原理の導入などよりも、若い教員が憧れるような素晴らしいベテラン教員を一人でも多く生みだし、教育界の宝として大切にすることです。現在、100人の目賀田先生がいればそれだけで東京都の教育は心配ないのです。

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注目されるのに

2012-04-03 07:53:25 | Weblog
「おや?」3月29日
 横浜市副市長の山田正人氏が、任期を終え副市長時代を振り返っていらっしゃいました。その中に次のような一節がありました。『林文子市長が「CS(顧客満足)=ES(従業員満足)」を掲げ、職員は笑顔で市民に接するように徹底』というものです。
 私はこれを読んで、「おや?」と思いました。いうまでもなく、「=」というのは左辺と右辺を入れ替えても成立するのが原則です。つまり、ES(従業員満足)=CS(顧客満足)が成り立つのでなければ、「=」は使用できないはず、という疑問が浮かんだのです。顧客が満足する顔を見れば従業員も満足感を味わうことができるというだけではなく、従業員が満足して働いているのを目にすれば顧客も満足感を味わうということが言える場合にのみ、「=」を使うことができるはずなのです。私の性格がひねくれているからなのでしょうか、横浜市役所において、そのような状況が実現しているとは思えないのです。市役所に勤める公務員の皆さんが、我慢をしているのではないかと思ってしまうのです。
 これを学校経営にあてはめれば、TS(教員満足)=PS(保護者満足)という等式になります。つまり、教員が満足して働いているのを目にすれば保護者も満足感を味わうということです。不幸なことに、この等式が成り立たないことは事実が証明しています。もちろん、ごく希に成立することはありますが、それは例外でしかありません。
 もちろん、子供の成長を実感することが教員にとって大きな喜びであることはいうまでもありません。しかし、そんな理想論だけで現実を処理することはできません。
 一方で、教員が満足感を得ないまま働き続けている学校現場に於いて、子供が充実感を覚えるような教育が行われるはずがないことも自明の理です。だからこそ、教員の満足感と保護者の満足感を、どのようにバランスをとるかという問題に校長や教委関係者は悩んでいるのです。 
 教員満足度指数を目標に掲げ数値化する教委の出現が待たれます。注目を浴びるはずなのですが。  
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子供は神様

2012-04-02 07:47:05 | Weblog
「子供という神様」3月28日
 歌人の穂村弘氏が、幸福論についてインタビューを受けていました。その中で穂村氏は、『お客様は無限にサービスされて当たり前だという感覚がいつのまにか細胞にまで浸透している。そうすると、どんなに便利でも神様よりは不便だよな、となって、どこまでいっても満たされない』と語っていらっしゃいました。
 現代人の意識の問題点を正しくついた指摘だと思います。学校教育においては、子供や保護者を顧客とし、学校をサービス機関、教員をサービス提供者とする見方がもてはやされた時期がありました。今は多少その行き過ぎが是正されてきていますが、まだ、こうした考え方は一部で根強く残っています。
 それは、子供は顧客→顧客は神様→サービスされて当たり前→教員が提供するサービスが不満→無限に広がる要求→それでも残る不満、という図式で学校や教員を苦しめているのです。その象徴的なものがモンスターペアレントですが、そこまで大きな問題とはなっていなくても、終わりのない要求体質、それを正当な権利行使と信じる感性が保護者全般に蔓延っているのです。
 人は到達可能なゴールが見えていれば、苦しい状況の中でも頑張れるものです。しかし、いくら努力しても決してゴールできない状態、ゴールだと思っていた地点に到着したらゴールは先に延ばされていたという状況に置かれると、無力感や徒労感に苛まれ、やがて燃え尽き意欲をなくしてしまいます。早期退職や自殺を選ぶ教員のかなりの部分が、こうした状態にあるのです。
 教員と子供の関係は、商店と消費者の関係ではなく、師弟関係であるという当たり前の常識を取り戻し定着させることが重要なのです。それは、子供は神様ではないということを再確認することでもあります。

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教員だけではない

2012-04-01 08:18:09 | Weblog
「教員だけではない」3月27日
 「リスク管理」についての特集記事が掲載されました。その中に、『「災害に関する最も信頼できない情報源」を尋ねた設問で、「政府や省庁」と回答した人は、震災をはさんで2割強から6割近くに跳ね上がった~(中略)~もはや、市民は政府に対し、疑心暗鬼状態ともいえる』という記述がありました。
 この記述を見た私は、軽い驚きをもちました。私は、基本的に行政を信頼する傾向が強い方だと思っています。そんな私でも、当時頻繁に聞かれた「直ちに影響はない」というフレーズには疑問を感じていたので、「軽い」驚きで済んだのです。
 しかし、同じ紙面に掲載されていたグラフを見て、「軽い」驚きは「強烈な」驚きに変わりました。「政府や省庁」に対する2割強という震災前の数値も、実はその時点で、信用されないトップだったのです。要するに、震災時の対応の不手際によって「政府や省庁」への不信感が増したというよりも、元々「政府や省庁」は信用されていなかったということなのです。
 先ほど、「私は基本的に行政を信頼する傾向が強い」と書きました。しかし、それは私個人の傾向ではなく、日本人全体の傾向だと考えていました。よく言われることですが、我が国で庶民に人気のある「勧善懲悪」話では、主人公は権力者の側の人物が多いのです。「水戸黄門」も「遠山の金さん」も「暴れん坊将軍」も「大岡越前」も「旗本退屈男」も、すべて庶民の味方は「お偉いさん」なのです。これが、ウィリアム・テルのように反体制の人物が庶民の味方という話がほとんどを占める欧米と著しく異なる点で、ほぼ同一民族間で支配被支配の関係が続いた我が国の国民性であると思っていたのです。
 私は、教員批判、教委や学校不信が過ぎると批判をしてきました。それは、学校教育がスケープゴートにされ、庶民の批判が集中しているという図式を前提にしていた部分があります。しかし、そうではなく、行政というもの全体に対する不満や不信感が募っているのだとすれば、学校や教員に対する正当な評価の復活という問題の解決はとても難しいということになります。
 首長を含む政治家には、教委から権限を奪うことに血道を上げるのではなく、まず行政全般に対する信頼感の回復という難事業に挑むことで学校教育復興を後押ししてほしいと思います。

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