「子供の気持ち」4月17日
全国学力テスト関連の記事が掲載され、何人かの関係者の声が載せられていました。その中で、大阪市立小女性教員の『学校別の成績が独り歩きし「あの学校はあかん」とレッテルを貼られたら、子供たちがどれほど傷つくか』という発言が取り上げられていました。
子供はそんな捉え方をするでしょうか。受験を経て入学した学校であるならば、所属校に対する評価は、そのまま自分の学力への評価に直結します。しかし、現状は、単に居住する場所によって学校が決められているだけなのです。それなのに「傷つく」とは、考えられません。
私は、このブログで、学校教育への競争原理導入に対して疑問を呈してきました。その「疑問」の中の一つが、「競争とは、誰と誰が競争するのか」というものでした。上記の女性教員の発言は、子供同士が「競争」させられるという認識に基づくものです。だからこそ、敗者は傷つくという理屈が成り立ちます。しかし、橋下市長のような学力テストの結果公開派=競争原理導入派は、子供同士の競争ではないと言っています。
彼らの主張では、競争するのは教員同士であり、学校同士であるということです。そのことが教員の切磋琢磨を生み、校長の創意工夫、リーダーシップの発揮に結びつくという論理なのです。そこでは、子供の存在は視野に入っていません。しかし、実際の授業は、教える側と教わる側双方の「能力」によって左右されます。教える力と教わる力の合算が、授業の成果に結びつくのです。ですから、競争原理導入で学力向上を目指すのであれば、子供同士も競争させ、教員の教える力だけではなく、子供の教わる力も切磋琢磨させなければならないはずなのです。
でも、子供同士を競争させると言うと、我が国では反発をかってしまいます。だから、競争原理導入派の人々は、そのことに触れないのです。一方、反競争原理導入派の人々、おそらく上記の女性教員もその一人だと思われますが、本能的に子供同士の競争を感知し、反対するのです。
学力テストの結果公開については、子供が傷つくことを恐れずに、子供同士も競争させるのか、教員側だけの競争にとどめるのか、きちんと議論する必要があります。前者であれば、子供一人一人の「順位」を本人に知らせ、1位から最下位まで匿名で公開すべきです。それくらいの覚悟がなければ、公開の意味はありません。また、後者であれば、成果は中途半端になることを確認すべきです。
全国学力テスト関連の記事が掲載され、何人かの関係者の声が載せられていました。その中で、大阪市立小女性教員の『学校別の成績が独り歩きし「あの学校はあかん」とレッテルを貼られたら、子供たちがどれほど傷つくか』という発言が取り上げられていました。
子供はそんな捉え方をするでしょうか。受験を経て入学した学校であるならば、所属校に対する評価は、そのまま自分の学力への評価に直結します。しかし、現状は、単に居住する場所によって学校が決められているだけなのです。それなのに「傷つく」とは、考えられません。
私は、このブログで、学校教育への競争原理導入に対して疑問を呈してきました。その「疑問」の中の一つが、「競争とは、誰と誰が競争するのか」というものでした。上記の女性教員の発言は、子供同士が「競争」させられるという認識に基づくものです。だからこそ、敗者は傷つくという理屈が成り立ちます。しかし、橋下市長のような学力テストの結果公開派=競争原理導入派は、子供同士の競争ではないと言っています。
彼らの主張では、競争するのは教員同士であり、学校同士であるということです。そのことが教員の切磋琢磨を生み、校長の創意工夫、リーダーシップの発揮に結びつくという論理なのです。そこでは、子供の存在は視野に入っていません。しかし、実際の授業は、教える側と教わる側双方の「能力」によって左右されます。教える力と教わる力の合算が、授業の成果に結びつくのです。ですから、競争原理導入で学力向上を目指すのであれば、子供同士も競争させ、教員の教える力だけではなく、子供の教わる力も切磋琢磨させなければならないはずなのです。
でも、子供同士を競争させると言うと、我が国では反発をかってしまいます。だから、競争原理導入派の人々は、そのことに触れないのです。一方、反競争原理導入派の人々、おそらく上記の女性教員もその一人だと思われますが、本能的に子供同士の競争を感知し、反対するのです。
学力テストの結果公開については、子供が傷つくことを恐れずに、子供同士も競争させるのか、教員側だけの競争にとどめるのか、きちんと議論する必要があります。前者であれば、子供一人一人の「順位」を本人に知らせ、1位から最下位まで匿名で公開すべきです。それくらいの覚悟がなければ、公開の意味はありません。また、後者であれば、成果は中途半端になることを確認すべきです。