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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

子供の気持ち

2012-04-20 08:18:08 | Weblog
「子供の気持ち」4月17日
 全国学力テスト関連の記事が掲載され、何人かの関係者の声が載せられていました。その中で、大阪市立小女性教員の『学校別の成績が独り歩きし「あの学校はあかん」とレッテルを貼られたら、子供たちがどれほど傷つくか』という発言が取り上げられていました。
 子供はそんな捉え方をするでしょうか。受験を経て入学した学校であるならば、所属校に対する評価は、そのまま自分の学力への評価に直結します。しかし、現状は、単に居住する場所によって学校が決められているだけなのです。それなのに「傷つく」とは、考えられません。
 私は、このブログで、学校教育への競争原理導入に対して疑問を呈してきました。その「疑問」の中の一つが、「競争とは、誰と誰が競争するのか」というものでした。上記の女性教員の発言は、子供同士が「競争」させられるという認識に基づくものです。だからこそ、敗者は傷つくという理屈が成り立ちます。しかし、橋下市長のような学力テストの結果公開派=競争原理導入派は、子供同士の競争ではないと言っています。
 彼らの主張では、競争するのは教員同士であり、学校同士であるということです。そのことが教員の切磋琢磨を生み、校長の創意工夫、リーダーシップの発揮に結びつくという論理なのです。そこでは、子供の存在は視野に入っていません。しかし、実際の授業は、教える側と教わる側双方の「能力」によって左右されます。教える力と教わる力の合算が、授業の成果に結びつくのです。ですから、競争原理導入で学力向上を目指すのであれば、子供同士も競争させ、教員の教える力だけではなく、子供の教わる力も切磋琢磨させなければならないはずなのです。
 でも、子供同士を競争させると言うと、我が国では反発をかってしまいます。だから、競争原理導入派の人々は、そのことに触れないのです。一方、反競争原理導入派の人々、おそらく上記の女性教員もその一人だと思われますが、本能的に子供同士の競争を感知し、反対するのです。
 学力テストの結果公開については、子供が傷つくことを恐れずに、子供同士も競争させるのか、教員側だけの競争にとどめるのか、きちんと議論する必要があります。前者であれば、子供一人一人の「順位」を本人に知らせ、1位から最下位まで匿名で公開すべきです。それくらいの覚悟がなければ、公開の意味はありません。また、後者であれば、成果は中途半端になることを確認すべきです。

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やはり習得主義を

2012-04-19 07:35:08 | Weblog
「やはり習得主義を」4月15日
 書評欄に、加藤陽子氏による、武石典史氏著「近代東京の私立中学校」という書籍の書評が掲載されました。その中にとても考えさせられる記述がありました。『明治政府は、教育予算の8割弱を小学校に、2割を旧制高校・大学等の高等教育機関に振り向けて近代国家への道をひた走った』という部分と『高等教育機関に迎えるべき学生への要求値だけは頑として下げなかった明治政府』という部分です。
 私は、今まで繰り返し、我が国の学校教育は義務教育段階では概ね成功してきたのに対して、大学等の教育に問題があったということを主張してきました。その原因として、寺子屋や藩校から続く庶民教育の蓄積や国民性をあげてきましたが、実は、明治政府の方針も影響を及ぼしていたらしいということ分かったのです。こうした歴史があることからも、我が国における「義務教育>大学」という考え方は正しいといえるように思います。
 そこでこれも繰り返しになりますが、「教育改革」という言葉ですべての学校を一括りに論じるのではなく、各学校種ごとに実態にあったきめ細かい議論が必要であることを主張しておきたいと思います。
 そして、より肝心なのは、「高等教育機関に迎えるべき学生への要求値だけは頑として下げなかった明治政府」という部分です。これは、国家として各分野のリーダー、または推進役として必要な人材の育成について、少数精鋭主義をとったということです。別の言い方をすれば、真に能力のあるものが努力をして初めて到達できるレベルを設定し、そうした人材に対してエリート教育を施すために、教育資産を集中的に投入したということです。大変賢明な施策です。
 戦後、我が国の教育では、エリート教育はタブー視されてきました。誤った平等主義の結果です。そして、意欲も能力もない者が、「みんなが行くから」と大学に進み、大学教育のレベルを落とし、大学で高校までの補習をするなど、大学のもつ教育資産を浪費させてきたのです。
 国家として国際競争に負けない人材育成を学校教育に求まるのであれば、明治政府に習い、大学や大学院で学ぶのは人並み外れた能力と意欲のある者に限ることとし、そこに大学の教育資産を集中させることこそ大切なのではないかと思います。しかし、国民の横並び意識を変えるのは難しいことです。何も手を打たなければ、いつまでたっても現状は変わらないでしょう。
 そこで、有効な手立てが、小中高において、現在の出席してさえいれば誰でも進級できる「履修主義」を廃し、求められる知力を身につけた者だけが進級進学できる「習得主義」を採用することなのです。橋下大阪市長が提唱した留年制も、こうした流れの中に位置付ければ、その意義が明確になります。何回も落第を繰り返している子供や保護者は、横並び意識を捨てざるを得なくはずです。その一方で、勉強をしなければ中学校を卒業することができないのですから、割り算もできないまま、中学校を卒業するという悲劇も減ります。これは、我が国の学校教育の原初の形である、優れたリーダーの養成と質の高い一般国民の育成という発展国家の原動力づくりに適うことなのです。
 義務教育段階における留年制と飛び級制の導入という「習得主義」への大転換こそ、「教育改革」の中心課題だと思います。

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監督と校長

2012-04-18 07:54:39 | Weblog
「校長とは」4月12日
 専門編集委員の冨重圭以子氏が、『監督は応援団長』という標題でコラムを書かれていました。その中で冨重氏は、『名監督と呼ばれる人には、さまざまなタイプがある。ときに鉄拳制裁も辞さず熱血指導でチームを作っていく人、成功する確率の高い作戦を常にとっていく論理重視型、誰もが予想もつかない策や作戦で局面をがらりと変えてしまうタイプ。もう一つある。日本のプロ野球には少ないが、大リーグではドジャースの監督を20年も務めた、トミー・ラソーダさんのタイプ。自らを「応援団長」と称し、なかなか結果の出ない選手に「オレは技術的なアドバイスはできないが、君を信じている。君ならきっとできる」と言い続けて開花させた』と監督論を展開しています。
 監督とは「リーダー」です。では、学校の「リーダー」である校長にも、冨重氏が言うようなタイプがあるのでしょうか。長年教委に勤務してきて、接してきた校長たちを思い浮かべてみることにします。
 熱血指導タイプ、これはあまり見掛けません。強いて言えば、民間出身校長の中に見られるような気がします。論理重視型、これもほとんどいません。その理由としては、学校経営においては、長期的な戦略はあっても戦術的な裁量の余地はあまりないということがあげられます。担任を頻繁に変えることはできませんし、代打や代走に該当する予備戦力もほとんどありません。選手獲得に該当する教員人事でも、校長の影響力は極めて限定的なのです。
 それでは、奇策タイプはどうでしょうか。意外と思われるかもしれませんが、これが結構多いのです。自分が長年温めてきたアイデア、校長自身の得意分野、こだわりなどを基に、就任早々構想を打ち上げる校長は少なくありません。そして失敗する校長が多いのです。学校は、所属教員の構成や能力、学校の歴史、地域の雰囲気、教委の方針など、多くの条件でがんじがらめになっているのが実態だからです。だからといって、就任1年目は様子を見ていようという姿勢では、2年目から「去年はそんなこと言わなかったのに」という反発を受けてしまいます。学校は基本的に保守的なのです。
 最後の応援団長型はどうでしょうか。これは確実に失敗します。授業法・指導法について専門的なアドバイスや評価ができない校長は、それだけで尊敬されないからです。また、「危機管理」としてもうまくありません。
 授業が上手くできない教員には、保護者からの非難が殺到します。もちろん、問題のある教員には厳しく対処することが必要です。一方で、保護者の言い分が間違っていることもあります。そのとき、校長は、保護者の言い分に耳を傾けながらも、授業の専門家の先達として、その教員の評価すべき部分、校長として行っている指導と予想される効果を具体的に説明し、事態が改善される見通しを伝え、納得させることができなければ、教員から信頼を得ることはできないのです。その結果、「校長は自分の見識はなく、外部の言いなりで、自分たちを守ってくれない」という印象をすべての教員に与えることになってしまい、信頼を基盤とすべき学校経営は崩壊してしまいます。実は、校長として成功するのは、専門的な助言で教員を成長させるコーチ型なのです。
 「リーダー」論が盛んですが、組織の特色を無視した「リーダー」論は有害なだけです。校長は、奇策者や応援団長ではなく、よき教員育成者であることが必要なのです。

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魅力的な人

2012-04-17 08:30:29 | Weblog
「生きざま」4月12日
 金沢盛栄氏による、名誉棋聖秀行こと囲碁のトップ棋士藤沢秀行氏について書かれたコラムが掲載されました。棋聖秀行については、私もファンの一人でした。魅力的な人でした。金沢氏は、コラムの中で、『文句のない実績だが、何よりもファンを魅了してきたのは、その豪快で破天荒な生きざまだった。酒にまつわる失敗談、競輪、競馬での大勝負、3度のがん克服などエピソードは数え切れない』と書かれています。
 そのとおりなのです。私も数々のエピソードに惚れていたのです。おそらく私だけでなく、こうした「生きざま」を含めて評価するのが日本人なのです。そのこと自体、善でも悪でもありません。
 しかし、人を評価するとき、日本人がこうした傾向をもっているということについては、注意をしておく必要があります。棋士秀行の評価は、あくまでも棋聖6連覇、最年長タイトル獲得などの成績によるものです。より専門的にいうならば、勝敗以外にも残された棋譜に見られるように、その独創的なうち回しという「芸」によるものです。いくら大酒を飲もうが、競輪で4000万円当てようが、そんなことは棋士としての評価には何の関係もないのです。
 私が教委に勤務していたとき、ある校長の人事について、校長会の会長以下幹部がそろって抗議に来たことがありました。「あんないい人をどうして他地区に出すのか」という抗議でした。私は、正直、それほど優秀な校長だとは思っていませんでした。そこで、「A校長は、どんなところが素晴らしいと思われるのですか」と聞いたところ、返ってきた答えは、「人柄がいい」「気配りができる」という抽象的なものでした。さらに突っ込んで聞くと、「宴会のしきりをやらせたら抜群にうまい」「明るくて楽しいいい酒なんだ」というような答えが返ってきたのです。驚きました。そんなことは校長としての資質には全く関係ありません。校長は幇間ではないのですから。
 これは、そのときの校長会の幹部たちだけが特別なのではないと思います。これとは逆の話ですが、校長たちから人気のある教委幹部がいました。その理由は、偉ぶらないということでした。どうしてそのように評価されているかというと、懇親会で腹を出して臍踊りを踊ったという「伝説」が基になっているのでした。やれやれ、です。
 教員に対する業績評価が定着してきました。教委は、校長を対象に毎年評価の具体的な手順等について講習を行っています。しかし、日本人の体質とでもいうべき、職務と関係のない「エピソード」に左右されるという部分は完全には払拭されていません。教職は、売上げなどで具体的に成果が数値化される仕事ではないだけに、なおさらです。さらに、教育者の常として、人のよいところばかりに目を向けるという教員独自の性向もあります。教員の業績評価を適切に行うために、学校の管理職は冷たく人を見る訓練を怠ってななりません。

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評価項目

2012-04-16 07:52:22 | Weblog
「評価項目」4月12日
 米国大統領選の共和党の候補者が、事実上ロムニー氏に決まったという記事が掲載されました。その記事の中に、『「親しみやすさ」「国際問題の対応」「雇用の創出」などの個別の項目のほとんどでオバマ氏がロムニー氏を上回った。一方、ロムニー氏は「経済政策」「エネルギー政策」「財政赤字削減」の3項目ではオバマ氏よりも評価が高い』という記述がありました。
 私は、「親しみやすさ」という項目に違和感を感じました。他の項目はすべて米国の大統領にとって重要なものであり、大統領選の争点となるべきものだということがわかります。しかし、米国の大統領職を遂行する上で、「親しみやすさ」は重要な要素なのでしょうか。米国の大統領は、ファストフード店の店員ではありません。若者雑誌の表紙を飾るアイドルタレントでもありません。不思議でならないのです。
 ある職や立場の人に求められる能力や資質は様々です。それらがその人に対する評価項目として使われるのも妥当なことです。しかし、見当違いな評価項目が設けられ、その項目で評価され、それが全体評価にも結びつくというのでは、正当な評価による意欲付け→職務遂行能力の向上という評価制度の狙いが崩れてしまうことになります。
 教員についても、いくつかの項目からなる業績評価が行われています。その中に的はずれなもの、米大統領における親しみやすさのような、があれば、業績評価システムそのものが機能不全を起こしてしまいます。
 子供への指導、組織の一員としての校務遂行、保護者等との対外対応、後輩の育成、学校経営への提言や情報提供、それらについての実績と意欲と能力のバランス、など適正に行われていなければ、かえって悪影響をもたらしかねないのです。
 例えば、「教員間の人間関係が円滑である」という評価項目は、教員の業績評価として適切なのでしょうか。見た目のかっこよさという項目はどうでしょうか。肉体的な頑強さはどうでしょうか。いずれも職務に影響があるといえばあるような気がしますし、そんなものは評価の対象とすべきではないという常識論も頷けます。 
 教員に対する評価は、常に問題意識をもって評価項目、評価規準の見直しが進められなくてはなりません。

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教える本能

2012-04-15 08:25:18 | Weblog
「本能を生かす」4月11日
 作家の田辺聖子氏へのインタビュー記事が掲載されました。田辺氏は、幸福論を語る中で、『「ごめんなさい、僕って何も知らなくて」って正直に言えばいいのよ。言われた方は、本当はうれしいのよ。大人が一番好きなことって「人に教えること」なんだから』と語っていらっしゃいました。
さすが人間通です。まったくその通りだと思います。私自身がそうですし、私の周りの同僚たちもそうでした。「教えたがり」は、おそらく人間共通の本能ともいうべきものなのだと思います。
 しかし、そうした本能を生かしていない組織があります。それは最近の学校です。学校で「教える」というと、教員が子供に教えるという場面が浮かびますが、もう一つ大切な「教える」があります。それは、先輩教員が後輩教員に教える、あるいはある分野の指導が得意な教員がそうでもない教員に教えるということです。
 私が教職に就いた35年ほど前の学校では、この教員間の「教える」が機能していました。私は傲慢で生意気な若者でしたから、先輩の教えを素直には受け入れないタイプでしたが、それでも、若さを生かした子供との接し方は1歳年上のS教員に学びましたし、学級活動のさせ方は大学同窓の先輩K教員を手本としました。保護者との接し方は学年主任のI教員から指導を受けましたし、生涯「得意分野」としてきた社会科の指導については、同じ区内の学校にいたM教員に刺激を受けました。
 自慢話のようですが、私自身、30代になってからは、7歳年下のO教員から「お手本」として見られることがありました。今まで繰り返し述べてきたことですが、教員の仕事は職人芸ともいうべきもので、書物を読んだり、偉い先生の話を聞いたりすることで身に付くものではありません。あくまでも自分がやってみる、失敗してみる、それに対して体で憶えた技の持ち主からの助言を得る、手本を示してもらうという形でしか教員力は向上しないのです。そして、こうした教える-学ぶという関係は、主幹-主任-一般教員というような上下関係や公的な指揮命令系統の中で成り立つものではなく、あくまでも教員の個人的な「思い」から生まれるものだったのです。非公式な、私的なものだと言ってもよいかもしれません。
 つまり、自然発生的に、学校が、教員同士の自主的な研究会が、若い教員の学びの場であり、育つ場であったのです。しかし、近年の学校では、教員の業績評価が進む中で、後輩育成という分野に対する評価が軽視されています。後輩育成は、成果が目に見えにくいものですし、A教員の指導はB教員の職務であり業績とするというような明確さをもつものでもありませんから、仕方がないのかもしれません。教員も人間ですから、評価されないことに力を注いで自分の業績が低くなったのでは困るというのも無理からぬことです。
 しかし、教員が教員を育てるという土壌を回復しない限り、学校全体の教育力の向上は望めません。「教えたがり」という本能をもつ人間、その中でも特に教えたがり傾向が強い教員という集団、その本能を十分に発揮することができるシステムの構築こそ、最大の教員の資質向上策なのです。
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同じこと

2012-04-14 07:56:42 | Weblog
「同じこと」4月10日
 読者投稿欄に大阪府の高校生K氏からの投書が掲載されました。『留年制より飛び級制を』という見出しの投書には、『教育のシステムを改革するというのなら、むしろ「飛び級」制を提案したい。優秀な生徒は全体の進度に合わせる必要があるため、少なからず制約を受けていると思う。そこで能力にあった学年に進めるようにした方が、才能を伸ばすことにつながるのではないか』という提言が述べられていました。
 K氏は、留年制には懐疑的ですが、私は、留年制も飛び級制も、その目指すところは同じだと思います。留年制への反対意見は、人間関係が壊れるということであり、飛び級制への反対意見は、学校生活で学ぶべき大切なことは勉強だけではないということです。
 どちらも、学校生活に於いて勉強よりも他のことの方が大切だという価値観に基づいています。一方、留年制も飛び級制も、学校で大切なのは勉強すること、勉強して分かったという喜び、できたという充足感、成長したという実感を得ることであるという価値観に基づいています。留年制と飛び級制をいう一見すると反対方向のように見える施策は、実は同じ価値観に基づき、同じ方向を目指す改革なのです。
 ですから、どちらかを選ぶということではなく、留年制も飛び級制も併せて導入すればよいのです。それは、学校は勉強するところという基本を子供にも保護者にも再確認させることになります。さらに、子供が分かろうが分からないままであろうが関係なしに出席し教室の中で椅子に座ってさえいれば卒業できるという履修主義から、国民として必要な知識や技能を身につけた者だけが卒業できるという習得主義への転換を図ることにもなるのです。履修主義と習得主義を比べたとき、後者が教育的であることはいうまでもないことです。さらに、同一年齢同一学年という我が国の義務教育を根本から変えることにもなります。これは、一人一人が自分の能力にあった教育を受ける権利を有するという、憲法の精神にも合致することなのです。
 しかも、実際問題として、留年制と飛び級制が併せて導入されれば、自分と年齢の異なる集団で学ぶことによる心理的な抵抗感などが軽減されるというメリットもあります。私の経験からすれば、小学校の中学年から新制度を導入した場合、中学校1年生の段階では、従来の12歳という生徒は半数以下になると思います。そうなれば、年齢など意味をもちません。
 改革派を自負する橋下市長は、飛び級制も視野に入れてほしいと思います。

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決める覚悟

2012-04-13 07:39:01 | Weblog
「不満でも」4月7日
 石原東京都知事の会見の内容を知らせる『石原語録』が掲載されました。その中に、次のようなやりとりが掲載されていました。『-大飯原発について。閣僚会議で再稼働が妥当と出されたが? ■行政の最高責任者である政府が情報を集め尽くし、その上で判断したということは、これをもって是としなかったら、一体誰が決めていくんですか』というやりとりです。
 石原氏らしいぶっきらぼうな言い方ですが、的を射た考え方だと思います。もちろん、本当に「情報を集め尽くし」たのか否かは疑問がないわけではありませんが、あくまでも「論理」としては、石原氏の言うとおりです。
 どんなに優秀な人であっても、人間は全知全能の神ではありません。判断間違いを完全に避けることはできません。だからといって、1%でも間違う可能性が残っている以上、早急に判断を下すのではなく慎重に検討を続けるべきだ、という考え方では、物事は決定しませんし、前に進んでいきません。大切なのは、判断を下す者の権限と責任を明確に示し、その上で、判断の根拠となった情報を開示し、判断に至った考え方の道筋を明らかにして、しかるべき時期に判断を下すという姿勢です。これをトップのあるべき姿とするならば、こうして下された判断についてはそれを尊重し、いつまでも不平を言い足を引っ張るのではなく、協力もしくは見守っていくというのがあるべきフォロワーの姿です。
 学校では、教職員全体が参加し話し合う職員会議こそ最高意思決定機関であるべきだという主張をし、校長の決定に異を唱え続ける人たちには、こうした組織原理を理解していない人が多いのです。
 校長が判断を下す前の段階で、様々な情報を提供し、意見を伝えることは大切なことです。それは、教育の専門家である教員の義務でさえあると思います。しかし、自分の考えと異なる判断が下されたからといって、その後も反対や非協力を続けるのは、無責任な態度です。校長もそうした態度を許してはなりません。何も決められない学校とは、すべてが前例踏襲という、進化しない学校のことなのですから。
 原発再稼働を決めるくらいの覚悟で、校長も日々の「決定」を下してほしいものです。

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辛くても「貴方とは考え方が違う」

2012-04-12 07:59:52 | Weblog
「同意と理解」4月7日
 『「同意」と「理解」で地元混乱』という見出しの原発再稼働をめぐる動きを伝える記事が掲載されていました。その中に『政府は①地元の「同意」が必要なのか、それとも「理解」を求めるのか』という記述がありました。記事は、政府の「あいまい戦術」に否定的なトーンで書かれていました。私は、原発稼動については、自分なりの意見をもっていますが、ここではそのことにはふれません。
 私が着目したのは、純粋に「同意」と「理解」の問題です。私が教委に勤務するようになったとき、指導主事の研修会で繰り返し言われたのが、「市民や保護者からの苦情には丁寧に耳を傾けなさい」ということでした。私はこの「教え」を忠実に守ってきました。具体的な対応の仕方でいうと、相手の言いたいことを完全に「理解」できるまで何回も確認しながら根気強く聴いた上で、「貴方のおっしゃりたいことは理解できたつもりでおります。~ということでよろしいでしょうか」と最終的な確認をし、その後「私の考え方は残念ながら貴方様とは異なります。貴方様のご要望には沿いかねます。それは、~と考えるからです」とはっきりとこちらの考え方や立場を伝えるということでした。
 つまり、「理解」はしたが「同意」はできないというときには、誤魔化さずに伝えるということです。市民や保護者の苦情の多くは、感情的な鬱憤晴らしであり、一時の興奮に駆り立てられたものがほとんどでした。実際にはその場だけ「分かりました。調査して善処いたします。貴重な情報をありがとうございました」とでも受け答えした方が楽ですし、時間が経てばそれで済んでしまうことの方が多いのです。私の仲間の中には、こうしたやり方をとっている者もいました。私自身、「取りあえず分かりましたとだけ言っておけばいいんだよ」というアドバイスをされたこともありました。
 しかし私はそうしたやり方を好みませんでした。担当者としては楽であっても、そうした対応を繰り返していると、長い間には教委不信を生じさせると考えたからです。
 これは、校長でも、教員でも同じことだと考えています。頭が熱くなっている相手には、とりあえず受けのよい言葉を投げかけておき、その後冷静になった頃に「努力してみましたができませんでした」とこちらの頭を下げるという対処法は、長い間には学校への不信感を醸成し、「あの先生は口は巧いけど誠意がない」という見方を定着させてしまいます。昔、「Noと言える日本」という本がありましたが、教員も校長も、よく理解した上で「No」を言う覚悟をもつことが必要です。それが、学校への信頼を増す第一歩なのです。

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天に唾する

2012-04-11 07:42:21 | Weblog
「天に唾する」4月6日
 大阪科学環境部の林田七恵記者の『「成果主義」で疲弊する教育現場 私立浪速中・高の連続不祥事』という見出しの特集記事が掲載されました。私はこのブログで、繰り返し「学校教育における競争原理導入」に反対し続けてきました。ですから、大きな枠組みでいえば、林田氏の主張に賛成の立場です。しかし、林田氏の論理展開には、いくつか不十分な転があるように思います。
 まず、浪速中・高の問題点は何か、という点を明確にする必要があります。記事によれば、それは、①関大に推薦入学できるという虚偽宣伝、②複数受験による合格者水増し、③成績不振生徒への自習強要、④教員へのパワハラの4点になります。
 確かに問題山積という印象です。ですが、ここまででは単なる事実の羅列に過ぎません。次に、これらはすべて「成果主義」が原因なのか否かを分析する必要があります。しかし、その分析が不十分なのです。②は多くの学校が以前から行っていたことです。程度差こそあれ、同校だけの問題ではありません。①と③と④は、組織としてのコンプライアンスの問題であり、むしろ「改革」を主導した木村智彦氏の個人的資質による影響が大きいと思われます。特に③は、「独創」的な発想で、教員出身者では決して出てこない発想です。
 要するに、同校の問題は、もちろん「成果主義」の影響もあるでしょうが、木村氏という個性的な人物によって引き起こされたと考える方がよいのではないかと思えるのです。
 それよりも、私は、記事の中の他の表現の方が気になりました。『有名国立大への現役合格者数だけを評価の基準にし、生徒の人間性には関心をもたない人』である木村氏が、『たった3年で赤字体質から転換できた』という事実です。赤字脱却ということは、生徒が集まってきたということでしょう。保護者や生徒が同校を選んだということなのです。これは、保護者や生徒が、木村氏の方針を是としたか、またはそうした方針を知ることができなかったか、いずれかということになります。前者であれば、保護者や生徒自身が、
「成果主義」者であるということになりますし、後者であれば、「成果主義」を成り立たせる前提である「保護者や生徒は賢い消費者」が、崩れていることになります。
 また、『行き過ぎた成果主義が教職員を締め付け、学校現場の疲弊につながる』という指摘も気になりました。この問題の原点には、「教員は甘やかされすぎ」「学校はぬるま湯体質」といった教員批判、学校批判があります。私はこうした指摘の多くが不当なものであると考えていますが、メディアが学校バッシングを煽ってきたのではなかったでしょうか。教員をもっともっと働かせろ、という声をあげてきた人たちに、木村氏の手法を批判されても、今さら何を、という気になってしまいます。
 さらに、『少子化が進む中、生き残りを欠けて学校間の競争が激しくなり、教育現場では具体的な成果を求める動きが強まっている』とありますが、ここに日本語表現のマジックが潜んでいます。「強まっている」と書くと、学校や教育行政側の主体的な動きのようにも思えますが、そうではありません。世間が学校に対して求め、学校は世間の要求に応じざるを得なくなっているというのが正確な言い方です。つまり、原因は、市民一人一人にあるのです。「○○校は東大に○人合格」という成果を学校選択の指標として求めているのは、世間なのです。
 そして最後に、「具体的な成果」に対する意識です。記事では、教育評論家の言葉を引用し『現代社会で求められるのは、洞察力や発想力だ』としています。教員の間では、「自ら考え、問題を発見し、問題を解決して、行動することができる力」が大切であるということは、常識となっています。これは、「洞察力や発想力」と同じ考え方です。しかし、保護者は、そんな能力を求めてはいないのです。ペーパーテストの成績にこだわっているのは、教員ではなく保護者なのです。
 これをスーパーの総菜売り場にたとえれば、店側は自然に近い安全でおいしい食材を天然出汁で調理した食品を提供したいと思っているのに、客は着色料を使って見栄えよく、食品添加物でいつまでも腐らず、化学調味料で濃い目の味付けをしたものを、安ければいいという基準で選んでいるようなものです。客の考え方を変えずに学校や教育行政側に変われといっても、現実的ではありません。
 記事でも批判的に触れられている「橋下流教育改革」ですが、大阪維新の会の主な施策の中で最も支持率が高いのが、この教育施策なのです。不見識な市民が、学校を悪くさせているという構造こそ、メディアが問題にすべきなのではないでしょうか。

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