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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

教育占拠

2010-02-08 07:24:08 | Weblog
「占拠」2月4日
 評論家中野剛志氏が、米国の経済政策について「金融の成功者が官僚より賢いとの誤解」という副題で、評論を書かれていました。中村氏によると、米国ではウォール街の利益と米国の利益とが混同され、ウォール街とワシントンは太い人材のパイプで結ばれるようになり、政治がカネの論理で動くようになってきたのだそうです。
 中村氏は、そうした状況を踏まえ、『「カネ」で動いてよい世界とそうでない世界との厳格な峻別が重要だというのは、政治倫理だけの問題ではない。昨今、政府への民間人の登用や公共サービスの民間開放が推奨されている。民間の手法による行政の効率化が、その目的だ。しかし、その際には、「カネ」で動いてもよいビジネスの世界と、そうでない行政の世界とを混濁しないよう、十分に注意することが必要だ。もし、政府の民間人登用が、行政に「カネ」の論理を持ち込むことになるなら、それは、ウォール街に占拠されたワシントンと同じ結果を招くだろう』と述べています。
卓見です。学校教育にも、民間人校長、民間企業経験者の積極的採用などが進められています。その理由も、民間のコスト意識や業績評価感覚などを学校に取り入れることであり、大変似ています。ということは、企業論理とは別の原理で動くべき学校教育が、民間=企業の論理に過剰に汚染されてしまう危険性があるということです。
 しかし、学校教育の民間開放を唱える人たちには、こうした危険性に対する危機感は乏しいように思われます。長い間続いてきた学校文化には、よいものもあります。欠点を正すつもりで長所を殺してしまうことがないよう、常にチェックを怠らないことが望まれます。
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本当は誰のため

2010-02-07 07:31:54 | Weblog
「誰のため?」2月1日
 「保育はいま」という連載記事の「中」に、次のような一節がありました。『「駅に近く、開所時間も長く、保育料も安ければ、親には便利だが、それが子どもにいいとは言えない」と山内さんは悩む。~中略~「便利さも大事ですが、保育の質にこだわる園にも行政の支援が必要だ」と女性は訴える。国は保育サービスの量を拡大するため、保育制度を改革しようとしている。都の認証保育は、これを「先取り」した事例といえるが、駅前立地や長時間保育など親の利便性に配慮した結果、子どもが育つ環境を保障するという児童福祉の精神は置き去りにされつつある』というものです。記事の中では、ある施設で椅子にベルトで固定された子供が市販の菓子を与えられているという「実態」も紹介されていました。
 学校教育についての論議は、すべて「子供のために」という趣旨で行われる「建前」になっています。しかし、実際には、保育の問題と同じように、「親の利便性」を「子供のために」という美辞麗句で覆い隠している場合が少なくありません。
 部活が「子供を夕食時まで預かってもらえば安心して働ける」という動機から支持されたり、長期休業中の補習授業が「42日間も一日中家にいられたんじゃ鬱陶しい」という親に歓迎されたり、給食廃止が「料理が苦手なのに、弁当なんか恥ずかしくてもたせられない」という親からの反発を受けたり等々、枚挙に暇がありません。
 もちろん、保護者の生活も大切です。しかし、本音を美辞麗句で覆い隠したまま、建前の議論を続けることには意味はありません。
 また、「生徒・保護者による授業評価」など、「教委・学校・教員」と「子供・保護者」という括りに中で議論を進めることにも注意が必要です。子供と保護者の利害が対立し相反することは珍しくないのですから。実際、子供に指示されている教員が保護者からは低い評価しか受けないという事例やその逆の事例はよく目にすることです。だからといって、子供のための教育なのだから子供の意思が尊重されなければいけない、という考え方も間違いです。人生経験が乏しく刹那的な好悪の感情に左右されやすい子供の意思は、子供自身にとって有害であるケースが少なくないからです。子供の意思を尊重して、体育の授業はサッカーとバスケットボールだけ、というのでは健全な身体づくりは難しいと言うことは誰でも分かることです。
 私は教委勤務時代、「子供の幸せ」を判断基準にしていました。保護者からの苦情に対しては、「ただいまおっしゃったような対応を取ることは可能ではありますが、お子様にとってそのことがプラスであるとお考えですか」と問い返すようにしていました。子供のためを思ってというよりも、保護者自身の体面を保つためや鬱憤を晴らすための要求が多かったからです。そしてそうした要求に応えた場合、むしろ子供自身は友人との人間関係や教員との信頼関係などといった「財産」を損なってしまう可能性が高いと判断していたからです。
 難しい問題ではありますが、保護者や教員など学校教育に関わるすべての人が、ただ一つ心掛けなければいけないのは、「いま自分が主張していることは、本当は子供のためなんかじゃなく、自分自身のためなのに、それを隠して子供のためにと言っているのではないか」と自問自答してみる習慣を身に付けることだと思います。もちろん、私も自己保身の固まりでしたから。

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軽々しく言うべきでない

2010-02-06 07:04:26 | Weblog
「軽々しく言わないでほしい」2月1日
 NPO法人「環境文明21」共同代表の加藤三郎氏が、温室効果ガス25%削減のための追加策として、環境教育の教科を提案なさっていました。加藤氏は、『具体的には、小中高校での環境教育をまともなものにするために、「環境科」を独立新設し、教員への研修を充実させる必要があると考えている』と述べています。
 加藤氏の論法で行けば、「共助の精神に基づく福祉教育をまともなものにするために、「福祉科」を独立新設し、教員への研修を充実」させることが必要になり、「ボーダレス化する社会に適応するための国際理解教育をまともなものにするために、「国際科」を独立新設し、教員への研修を充実」させることが必要になります。
 さらに、「人が人らしく生きることの尊さを学ぶ人権教育をまともなものにするために、「人権科」を独立新設し、教員への研修を充実」させることが必要になり、「民主国家におけるタックスペイヤーとしての自覚と責任を理解させるための租税教育をまともなものにするために、「租税科」を独立新設し、教員への研修を充実」させることも必要になってくることになってきます。
 そうなれば、学校教育はパンクしてしまうことは火を見るよりも明らかです。学校という器には、限界があります。その器に何を盛り込むか、ということを考える際に大切なのは、「大切なことだから」という足し算の発想ではなく、「AとBとCの中でどれか一つを選ぶとしたら」という取捨選択の発想でなければならないのです。
 「教育」が成果を上げるためには、少しのことを時間をかけて学ばせることが有効なのです。主に知育の面から国民としての基盤づくりを担う学校教育において、真に必要なことは何か、ということは、声の大きさや利害関係者の思惑、国民の気分などで決められてはいけないのです。冷静且つ純粋に教育的必要からの考察が必要です。

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実は一番大切なこと

2010-02-05 08:09:21 | Weblog

「抜本的見直し」2月1日
 中学校教員を早期退職され、現在は別の仕事をなさっている方の投書が掲載されました。その中に、次のような一節がありました。『教員の仕事のつらさは「時間で切り替えられない」ところにあるということだ。~中略~家庭にいても常に「学校」が頭から離れない。これが教員の肉体・精神に大きな影響を与えている。私の今の仕事は、つらいことがあっても時間がくれば区切りがつく。この解放感は教員時代には味わえなかったものだ』というものです。
 投稿者は、新政権や文部科学省に対して、『切り替えの解放感を味わえる政策を切にお願いしたい』とこの投書を結んでいます。実は、この「提言」は、我が国の教育政策全般に関わる大きな問題を秘めているのです。
 繰り返し述べてきたことですが、我が国では、教育=学校教育というイメージをもつ人が多いことに象徴されるように、家庭教育や社会教育が貧弱で何もかも学校が担うというシステムになってしまっています。ですから、休日に子供が万引きしても、保護者には連絡が行かず学校に電話がかかり、担任と副校長が出向いていき、店主に頭を下げるということが、当然のように行われているのです。
 私自身の経験でも、教委勤務時代に、隣の家の子供が自宅のドアにひっかき傷を付けたので、学校で注意させてほしいという電話を受けたことがあります。地域の問題は地域で解決するのが望ましいという話をしたところ、その方は激怒し、「何のために学校があるんだ。何のために我々の税金から、教員に高い給料を払っていると思っているんだ」と怒鳴り、文部科学省に電話すると言って電話を切ったものでした。つまり、この電話の主は、地域の教育機能も学校が代替すべきという持論に絶対の自信をもっていらっしゃったのです。こういう人は少なくないと思います。
 投稿者の「提言」は、この我が国固有の風潮を改めない限り実現できません。そして、こうした考え方を改めることが出来れば、モンスターペアレントの問題も、教員の多忙化の問題も、自然に解決していくのです。これこそ、最大の教育改革です。私も、新政権に「切にお願い」したいと考えています。子供は社会全体で育てるという精神は、子ども手当だけでなく、こうした面でも現実のものとしてほしいと思います。

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指示の条件

2010-02-04 07:59:57 | Weblog
「明確な指示」1月31日
 今週の名古屋市の岡崎勝氏による教育コラムは、「校外学習は疲れる」というタイトルでした。その中に、『出入り口に立たない』という指示が挙げられ、子供たちがハイテンションで、なかなか指示が徹底しないという状況が述べられていました。
 この「入り口に立たない」という指示について、考えてみたいと思います。子供の発達段階や教員と子供との関係にもよりますが、この指示はあまりよい指示ではありません。そもそも、子供の自主性や判断力を育てるという趣旨からすれば、「指示」は少ない方がよいのです。しかし、実際に「指示」なしでは危険であったり、他人に迷惑がかかったり、著しく時間を浪費したりすることが予想される場合、教員は「指示」を出すのです。「指示」は一種の命令ですから、出す以上は、それに従わせなければなりません。「指示」が無視される状況を放置しておくと、子供の遵法精神の育成を阻害し、教員の言葉が重みを持たなくなり、学級崩壊に結びついてしまいます。
 新卒の教員が失敗するのは、この「指示」が下手だからなのです。最初から守れない「指示」や意味するところが不明確な「指示」を出してしまうのです。「入り口に立たない」という「指示」の場合、「入り口でしゃがみ込んでいればいい」ということになります。また、「連結部で立っていてもよい」ということにもなります。さらに、「つり革にぶら下がっていてもよい」ということでもあります。こうしたことを書くと、「屁理屈だ」といわれることでしょう。そのとおりです。でも、「屁理屈」は子供の得意技でもあります。「屁理屈」と分かっていてもあえて若い教員をからかおうとして、こんな行動を取ることがあるのです。もちろん、真面目に受け取って教員の意図と異なる行動を取ってしまうこともあります。特に低学年ではありがちです。特に電車の場合、停車駅によって、入り口が出口になり出口が入り口になることがあるので、真面目な子供が、本人は教員の指示に従ったつもりでいながら、教員から叱責されるという結果にもなりかねません。こうなると、子供は、「先生の言うとおりにしたのに」と教員を恨むことにもなりかねません。
 ですから、「入り口で立たない」よりも、「座席の前に行き、座っている人から30cm以上離れて、窓の方を向き、吊革に掴まって、静かに立っていること」というように「指示」を出すことが必要なのです。具体的な指示は案外難しいものです。
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見守るだけでは変わらない

2010-02-03 08:25:01 | Weblog
「間違った学校論」1月29日
 画家の安野光雅氏がインタビューに答えて、老人ホームに入所した83歳から絵を描き始めたお年寄りの話を披露していました。『「私も今から自分の絵をやめて乗り換えたい」と思うぐらい。99歳まで生きて百数十枚描いた』のだそうです。そして、ルソーも独学で描き始めたことを紹介し、『私は年をとって絵を描きたいという人に、純粋な気持ちで描きなさい、と言う。先生についたり、本を読んだりして研究しなくていい。どうせろくなことは書いてないんだから。下手でもいいから思うとおり描いてごらん。きっといいから』と言葉を継いでいます。
 素晴らしいですね。私も小中学生のころは絵が上手かった(?)ので、勇気づけられます。しかし、こうした話を学校教育に間違って援用する人がいるので困ってしまいます。「どの子供にも表現したいものがあるのだから、自由に描かせればよい」というようなことを言う人たちです。そして、話は美術教育に留まらず、教育全般にまで広がり、「どの子供も、知りたい、分かりたい、成長したい、という内から湧き出る欲求をもっているのだから、教員は彼らがやる気になるまで辛抱強く見守るのが大切」というような妄言になっていくのです。
 確かに、子供は、ときに驚くような探求心や向上心を見せてくれます。しかし、関心を示さない場合も同じように多いのです。現在の学校教育のシステムは、そんなときに放置しておくことを許容するようにはなっていません。学習指導要領に基づき、一定の期間内の一定の内容を定着させることが義務付けられているのです。それは、教育行政と国民の約束事でもあるのです。だからこそ、多くの教員は、様々な指導技術を駆使して、子供を学習に向かわせようと努力しているのです。
 現実問題として、見守っていたら、保護者が黙っていないでしょう。「なんで、先生は、勉強しようとしないでボーッとしている子を注意しないんですか」と言われることは火を見るよりも明らかです。また、「怠け者」の教員が、子供の主体性を言い訳に何の努力もしなくなってしまうでしょう。
 学校には、「そんなこと興味ない」「なんで勉強しなくちゃいけないんだ」「あーあ、だるい。早く帰りたい」という子供がたくさん通ってくるのです。80歳を過ぎて「絵が描きたい」というお年寄りとは違うのです。それなのに、識者と言われる人の中に、松下村塾の事例などを持ち出し、おかしな「理想の学校」「理想の師弟関係」「理想の学び」論を開陳するケースが少なくありません。百害あって一利なし、です。、現実を見失ってはいけないと思います。

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世間知

2010-02-02 07:48:20 | Weblog
「社会性ではなく」1月29日
 元お茶の水女子大学長本田和子氏が少子化についてのインタビューに答えていました。その中に、次のような一節がありました。『数が少なく、子ども同士の接触が乏しい中で育つ子どもたちのために、保育所や学童保育はもっと充実させるべきです』というものでした。
 確かに、保育所等を増やすことは必要です。また、保育所等が増えれば、子供同士の接触は増えますし、社会性を育むことにもつながるでしょう。でも、本田氏の意見には違和感を感じてしまうのです。
 保育所や学童保育増設は、親の都合です。できれば、保育所や学童保育ではなく、家庭と地域で過ごすことが、子供にとって望ましいと思います。それは、保育所や学童保育といった「大人」がいる場所で過ごすことによって、「社会性」は育まれますが、「世間性」を身に付けることは出来ないからです。ここでは、「社会」は多数決や協調などの建前が支配する表の人間関係、「世間」は「強い者にはまかれろ」や「空気を読め」という生きる知恵が支配する裏の人間関係を指しています。
 我が国には、世間があり社会はないと批判する社会学者がいますが、そのとおりだと思います。ですから、場の空気に関係なく正論を堂々と述べる自立した個人を育成するという遠大な理想の基に幼少期から大人によって管理された集団で過ごさせようというのであればよいのですが、実際には、子供だけの空間と時間の中で、ボスにごまを擂ったり、空気を読んで意に添わない行動をしたりして、傷つきながらも人間関係調整力を身に付けていかないと、その子供自身が苦しむことになってしまいます。いじめも不登校も、みんな仲良くといった建前を唱えることで解決できるものではなく、一人一人の子供に実戦的な対人関係調整力を身に付けさせることが学校不適応、ひいては社会への不適応を減らしていくことになるのです。 
 「子供なりの世間」体験を減らすことは頭でっかちなひ弱い子供を育てることにつながることを知った上で、「必要悪」として保育所等の増設を考える姿勢をもつべきだと思います。
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大衆か専門家か

2010-02-01 08:14:12 | Weblog
「市場原理主義」1月28日
 「V字回復なるか連ドラ」という標題のコラムが掲載されました。その中に次のような一節がありました。『「低視聴率=つまらないドラマ」と断定し、弾劾する報道姿勢にも少々疑問を持つ。ドラマの内容を熟知せずに数字だけで論じる記事には違和感がある。また「主役俳優=戦犯論」のはんらんは、ドラマがプロデューサー、脚本家、演出家、俳優等の総合芸術だという実態からすると単純化が過ぎる』というものです。
 これを学校教育に当てはめてみましょう。【「低学力=駄目な学校」と決めつけ、教員の努力不足と弾劾するとらえ方には疑問を持つ。学校で行われている教育活動を知らずに数値だけで論じる姿勢には違和感を感じる】となります。
 また、【「学校選択制で選ばれない学校=駄目な学校」と色眼鏡で見る風潮に疑問を持つ。選択の理由を知らずに結果だけで批判する姿勢には違和感がある。また、「選ばれない理由=教育の質の低さ論」のはんらんは、学校選択の要素が、施設、友人兄弟関係、廃校の噂、問題児入学の噂等によることが多いという実態からすると単純化が過ぎる】ともなるかもしれません。
 視聴率も学校教育のケースも、根底には、サービスを消費する消費者は、個々では間違った選択をする可能性があるが、一定数以上の集合としては間違った選択はしない、という市場原理主義があります。実際の経済や経済学では評判の悪い市場原理主義ですが、学校教育改革においては、学校選択制、児童・生徒・保護者による授業評価、学校理事会制度など、猛威を振るい続けています。
 多数のニーズに合わせていけば理想の学校が出来上がるのか、あるべき学校像を有識者や専門家が幅広く論じ、それに合わせて制度設計をするのがよいのか、改革の根本思想が不明確です。大衆がときに間違いを犯す存在であることは自明の理だと思います。大衆に迎合することで、自らの判断や責任を放棄してしまうことは、教育行政に携わる者が取るべき道ではないと思います。

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