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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

働くこと

2010-02-18 07:31:21 | Weblog
「進路指導の間違い」2月16日
 今回は週刊誌の記事からです。『JTBモチベーションズが今年1月、入社1年目~3年目(22~25歳)の若手社員を対象に行ったアンケートによると、「さらに成長したい」「今の会社で働き続けたい」といった仕事に対する意欲は、入社2.3年目で低下するという結果が出た』のだそうです。ちなみに、私の甥や姪も2年で退社し、別の仕事に変わっています。
その理由として、同社は『(若者が)働くことに求めるものは『人間としての成長』であることや、モチベーションの促進・阻害要因として成長実感が強い影響を持っていることがあきらかになっている」とした上で、入社2.3年目で意欲が低下する傾向については「目標達成による成長、研修受講、自己のふりかえり、ストレス発散ができなくなることや職場の人間関係への満足度が影響している可能性」を指摘している。若手社員の多くにとっては、報酬や安定性よりも、「自己の成長」がモチベーションにつながっている現状があるようだ。ここで1つ考えられるのが、1990年代後半の就職氷河期から始まった厳しい就職活動による弊害。度重なる自己分析や「なぜ入社を志望したのか」「会社で何ができるのか」「どう成長していくつもりなのか」といった考えを盛んに求められれば、入社後も「これだけ自分で考えることを求めてくる会社ならば、自分はさらに成長できるはず」といった方向に自然と考えが向かうだろう。さらに、相次ぐビジネス的自己啓発本のヒットに見られるように、「上昇志向を持つこと」がビジネスパーソンの必須項目であるかのような刷り込みがある。常に前進している実感がないと焦りを感じるのだ。入社1年目では業務についていくことに必死になり、目に映るものも新鮮だが、2年目に同じ仕事をしているというだけで、今の若者は「停滞では」と感じるのかもしれない。希望する会社に入れなかった新入社員ならなおさらのことだろう』と分析しています。
確かに、私の甥や姪の話を聞いていても、そうした意識を感じます。上記分析では、就職氷河期の影響やビジネス啓発本の内容に原因を求めていますが、私は、それだけではなく、学校における進路指導や職業教育の弊害も感じています。
 私は54歳ですが、若いころの私にとっては、働くことは、大人として誰にも頼らずに生活していけるだけの「カネ」を稼ぎ出すことであり、20代半ばになれば、自分と自分の大切な人の生活を守るためのものとなったものです。そこでは、自己向上とか自己実現というような甘っちょろく青臭い「理念」は無縁のものでした。こうした考え方は、必死に生きる親の姿から学び取ったものでした。正直、学校教育の中で学習したという記憶はありません。
 しかし、15年ほど前から、職業は生活の手段ではなく自分の夢や理想の実現に向けて歩むものであるという「進路指導」とその中核をなす職業教育が、学校で行われるようになっていったのです。小学生のころ、「将来はプロ野球選手になる」と書いた子供も、大人になり就職を考えるときには、公務員やサラリーマンを選ぶことに何の矛盾も感じなかったものが、「夢はいつか叶う」「諦めなければ夢は実現する」「夢を追い求める人生は素晴らしい」という指導の結果、「妥協して公務員の道に進もうとしている自分は勇気のない人間なのではないか」という罪悪感を植え付けられてしまうようになったのです。
 現代市民社会は、自助が基本です。親のすねをかじりながら、ボランティアに取り組んだり、「自分さがしの旅」を続けることは褒められたことではないのです。健康な若者はまず稼いで経済的に自立する義務があるという進路指導への転換が必要なのではないかと思います。

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職の本質

2010-02-17 07:13:41 | Weblog
「取り組んでほしいのは」2月16日
 精神科医の香山リカ氏が、「「お金と闘う」がん患者」という標題でコラムを書かれていました。がんの患者さんや家族の経済的負担について、『9割以上の患者さんが「経済的負担を感じる」と答えている』という実態を紹介し、『これからは「医者は医学のことだけしか知らない」では、患者さんを本当の意味で助けることはできない。患者さんの心のこと、生活のこと、そして経済的な問題や助成の制度まで目配りをできて、はじめて“主治医”としての機能を果たしたことになる。そこまではちょっと、という場合でも、せめて「何か使える制度があるはずだから、医療ソーシャルワーカーに尋ねてみて」とつなぐくらいの気持ちは不可欠だろう。とはいえ、日々の診療や書類書き、新しい治療法、薬を覚えるので精いっぱいで、とかく「治療費のこと? 私に言われてもわからないよ」などと言ってしまいがちなのが医者というもの。私も「お金との闘い」が病気以上に患者さんたちを苦しめている場合がある、という現実を忘れないでおきたいと思った』とのべていらっしゃいました。
医師としての香山氏の良心は素晴らしいと思います。しかし、患者の立場からすると、やや疑問を感じます。そんなスーパーマン的な役割をすべての医師に求めることが正しいこととは思えないのです。香山氏も、「新しい治療法、クスリを覚えるので精いっぱい」と書かれていますが、医師にしかできないこと、それは治療です。新しい治療法の研究と習得にこそ、全力を尽くしてほしいと思ってしまうのです。医師が、治療法や薬のことよりも「医療費」の専門家になってしまうことは望ましいことではないと思います。医療ソーシャルワーカーなど、別の専門家の育成・配置や機関設置を進めることが大切だと思います。
 同じことは、教員についてもいうことができます。子供の家庭の経済状況や両親の不和、児童養育施設や福祉施設のことについての知識など、ないよりはあったほうがよい、出来ないよりは出来た方がよいというものはたくさんあります。しかし、そうしたことについての知識獲得や情報収集が主となり、授業が疎かになってしまうのでは本末転倒というものです。その職の本質は何か、そのことを見極めた対応こそ大切なのだと思います。いうまでもなく、教員の本質は「教える人」なのです。
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芸の道

2010-02-16 07:11:25 | Weblog
「芸」2月14日
 書評欄に「文春ムック 今おもしろい落語家ベスト50」という本が取り上げられていました。その中に次のような一節がありました。『巻末に立川志の輔の新作落語「となりの喧嘩」が完全収録されている。むろんすぐ読んだ。すると意外なことに、それほどおもしろく感じられない。じつはこの「となりの喧嘩」を、わたしはライブで聴いて大爆笑したのだったが。そうか、あのおもしろさは落語家志の輔の話芸が生み出したものだったのだ』というものです。
 この話は、そのまま授業にも当てはまります。ある教員の授業を見て、「素晴らしい」と感激し、学習指導案を持ち帰り、自分の学級で同じように授業をしてみてもちっともうまくいかない、子供は退屈な顔をしているというような経験をしたことのある教員は少なくなうはずです。それは、「ある教員」と自分とでは、教員としての「芸」が違うからなのです。
 古典落語は、プロの落語家であれば、誰でも演じることは出来るでしょう。しかし、その出来には大きな差があります。力のある落語家の間でも、この落語家はあの話が得意だが、こっちの落語家は別の話が得意ということもあります。プロの落語家は、芸を深めれば深めるほど、自分の型を完成させていきますから、そうした違いが生まれるのです。教員も授業のプロ、教える職人なのです。どんなによい学習指導案があっても、それだけではよい授業は生まれません。教える「芸」がなければなりませんし、授業を自分の型に合わせて再構成できなければならないのです。
 学力向上、そのための授業の質の向上のためには、カリキュラムを改善すればよいと考える人たちがいます。もちろん、カリキュラムも大切です。しかし、もっと大切なのは教員一人一人が「芸」を深めることなのです。教育は人にあり。この真理を忘れてはなりません。
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影響力

2010-02-15 07:39:46 | Weblog
「影響力のある素人」2月14日
 経済評論家勝間和代氏が、ネット上に議論を提供する「勝間和代のクロストーク」のコーナーで、「論理的思考力育成する能力を」というタイトルを掲げ、その趣旨を述べていました。率直な感想として、何で教育の専門家でもないのに、間違った現状認識でお書きになったのだろうという疑問が湧いてきました。
 勝間氏は、『重要なのは「なぜ貴族政治がうまくいかなくなり、平氏政権そして源氏政権に移ったのか」という詳細な背景説明です。そうすれば、「現代において、どのような状況が生まれれば、政権交代が生まれやすいのか」などという論理を歴史から学べるわけです。ところが、残念ながら、私たちはそうした論理を授業で聞いたことがありません』と述べて、歴史教育を例に、我が国の教育のあり方を批判しています。また、『「1192年鎌倉幕府成立」と覚えこませるのではなく、「なぜ鎌倉幕府の成立が1192年なのか」「武家とは何か」「なぜ貴族は衰退したのか」などと、一つの物事について最低でも5回は疑問を投げかけ、互いに議論することが大切だと思います』とも述べています。そして、自身の経験談だけでは説得力に乏しいと思われたのか、『日本で論理的思考力を育成する教育が不足していることは、裸一貫から1兆円企業をつくり上げた経営者から、中学・高校生の教育に携わる数学者まで、私の周囲の人たちが異口同音に警鐘を鳴らしている問題です』とも書かれています。
 まったく滅茶苦茶な話です。摂関政治から院政、平氏から源氏をいう政権移行から現代民主主義社会の政権交代についての考え方が学べるなどという発想は、歴史への無知を表しているとしか思えません。まあ、そんなことは枝葉の問題です。重要なのは、勝間氏が、「教育」という言葉を、小中高大のどのレベルの話なのか明確にしないで論じようとしていることです。少なくとも、小学校では、年号を覚え込ませる授業などほとんど行われていません。小学校教員から社会科専門の指導主事となった私の経験から断言できることです。多くの教員による様々な実践記録が発表されています。小一時間もかければ、勝間氏でも、いくつもの事例を読み込むことができるはずです。また、学習指導案づくりの参考書的な書物においても、「鎌倉に幕府が開かれたわけ」を調べる学習など、問題解決型の学習モデルが掲載されています。これも、書店にいけばいくつも発見することが出来ます。こうした事実を知る努力をしないまま無視し、歴史=暗記というワンパターンの発想で、全国紙に書かれることは、きちんとした授業をしている何万人もの教員に対して礼を失することです。「徒競走で全員が手をつないでゴールインした」という特殊事例を持ち出して、確かめもしないまま「競争のない教育」批判をした政治家と同じレベルです。
 さらに、経営者や数学者を登場させて、「詰め込み教育」批判をしていますが、何年前の、どの学校での「歴史の授業」のことなのでしょうか。成功した経営者というのですから20代,30代の若手ではないでしょう。そうすると、30年、40年前の体験を基に今野教育を論じていることになります。数学者の意見ならどうして歴史の授業を例に取り上げたのでしょうか。
 しかも、この「クロストーク」では、『論理的思考力を育成する教育のため、どのようなカリキュラムが考えられるか』と意見募集をしています。勝間氏が指摘するように、知識の量を重視する教育が行われている(中高では多い)場合、問題なのはカリキュラムではないのです。学習指導要領は、平成の20年間、「自ら考え解決する子供」の育成を目指しているのです。当然、各校の年間学習指導計画もその趣旨に添って作られています。ですから、それでも、「知識量重視」教育が行われているとした場合の原因は、そうした授業が出来ない教員の資質や受験その他の社会環境なのです。
 教育には素人であっても、勝間氏は著名人です。自分の各ものの影響力を考えてほしいものです。こうした、他分野の著名人による的はずれな論述ほど、学校教育についての間違った印象とそれに基づく間違った処方箋を導き出すのです。

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闊達な論議

2010-02-14 07:30:33 | Weblog
「闊達な論議」2月12日
 『防衛省は12日、「同盟は『信頼してくれ』などという言葉だけで維持されるものではない」と発言した陸上自衛隊佐官を文書による注意処分とした。同省は「首相発言を非難しているとの誤解を招くような発言で不適切だった」としている』という記事が掲載されました。シビリアン・コントロールの大切さは理解しているつもりですが、今回の措置には疑問を感じます。田母神氏の発言とは異なり、発言内容自体は誰もが正しいと認める「一般論」だからです。「同盟は言葉さえあれば維持されるものだ」と考える人は誰もいないはずです。それなのに、この発言が首相批判とされてしまうことについて、国民に選ばれた政治家の言うことを小役人(自衛官も公務員です)は一切批判せずしたがっていればよいという、政治家の傲りを感じてしまうからです。
 同じような光景を見たことがあると記憶をたどったら、橋下大阪府知事と府教委や府下の校長たちのことが浮かびました。教育行政を市民に選ばれた政治家の責任で行うという理念の下、橋下氏は、自身の政策への批判者を、「市民の敵」と位置付け、教委の専門家や校長、教員などの反対や懸念の声を押さえつけてしまいました。民意を代表する政治家が最終的な責任を持って決断することは正しいことですが、そのことが現場を知り危機感をもっている人たちの意見封じと同じ意味をもつようでは、成功はおぼつかないように思います。
 そもそも学校教育については、「現場の声」=日教組や全教の意見というような時代が長く続きました。校長会や教頭会は、組織として「政治的発言」は慎むのが伝統でしたし、教委関係者は、政治(首長)と一定の距離を置くのが望ましいと考えられていたからです。こうした状況が、戦後度々行われてきた「教育改革」が十分な成果を上げることが出来なかった原因の一つなのです。ですから、これから行われる「教育改革」は、現場の校長や指導主事などの声を十分に聞き、現実の即したものにしていかなければならないのです。それなのに、民主党政権下では、小役人(公務員)は黙っていろ的な風潮が強まってしまうとしたら、その弊害は大きなものになってしまうと思います。
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70歳

2010-02-13 07:39:52 | Weblog
「70歳」2月10日
 学習院大学教授の今野浩一郎氏が、70歳雇用をテーマに行った講演の要旨が掲載されていました。『(企業は)高齢者の雇用管理を確立しなければ、国際競争に勝ち残れません』『高齢者は、若い社員のように教育して将来コストを回収する長期決済型の社員ではなく、いまの能力をいま活用する短期決済型の社員』『要するに高い能力のある人には、難しい仕事を与え、報酬をたくさん支払うこと。この原則を無差別に適用させる』『高齢社員は、現役と同等の働きをするプロと補助職に分けます。高齢社員はプロか補助職かを選択』など、参考になる示唆に富んでいます。
 学校教育においても、団塊世代の大量退職、若年層の教職希望者減、管理職を目指さない教員の増加などを受け、定年延長や校長等を定年後も再任用する動きがあります。しかし、今野氏の提言とは大きく異なっているのが実状です。
 教育コストが不要であり、60歳時には若い教員よりも高い能力をもっているケースが多いにもかかわらず、給与は低く抑えられているのです。また、管理職が、引き続き「プロ」として管理職を希望する場合も、定年前の管理職よりも給与が低いのです。仕事の難度は同じであるにもかかわらず。これでは、「志気」はあがりません。
 もっとも、学校における「70歳雇用」については、疑問もあります。そもそも、今野氏の言葉を借りれば、学校に国際競争はあるのでしょうか。必要なのでしょうか。「技能」な衰えないものの、小中高生との年齢ギャップが広がることによるマイナスは避けられないのではないでしょうか。若年層よりも高い給与は財政負担増をもたらすことになりますが、国民の理解は得られるのでしょうか。等々です。
 各教委が検討している「高齢教員雇用」は、現状対応的発想が中心になっています。高齢社会時代、労働人口減時代の骨太の論議が必要ではないかと思います。もちろん、教委レベルだけではなく、国政レベルでの話し合いも必要です。
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言葉の重要性

2010-02-12 07:14:51 | Weblog
「言葉」2月8日
 「学生が微妙にやばい」というタイトルがつけられた記事に目がとまりました。その記事は、『「やばい」「微妙に」といった話し言葉を文章に使う学生が目立つことから、山形大は「話し言葉を書かない」など新入生が大学で学ぶうえでのいろはを教える「スタートアップセミナー」を4月から新入生の必修科目とする』という書き出しで始まっていました。
 30年ほど前、あるSF作家が、普段の話し言葉で学会の報告をするようになったという想定で小説を書かれていました。そのときは、小説家の発想の面白さに感心したものなのですが、作家の想像力を現実が上回るときがやってきたのでしょうか。こうした傾向については、大学の責任ではなく、小中高の責任が大きいと思います。そこで、以前、ブログの中で学校における「言葉」について書いた一文を再掲してみたいと思います。

 
 『ことばにはふた通りある、ということに、われわれは気づいていないようである。「ボクはスパゲッティ」といった、くだけた省略的なことば(α語)と、「ボクの食べたいのはスパゲッティだ」のような、ていねいな、こまかいことを略さずに言うことば(β語)の、ふた通りである。おしゃべりならいくらでもできるのに、まとまった話をするのはカラキシだめ、というのは、α語は使えるがβ語は使えないということになる。日本のこどもたちはおしなべて、β語に弱い。子どもたちが育つ家庭が、母親中心に、α語ばかり使っているからである。(2004.5.15 幻冬舎文庫「絶対勉強力」外山滋比古著)』より
… … … … … … … … … … … … … … … … … … … …
以前書いたように私は教員時代にはいつもスーツ姿でした。ある時転校生が私の学級に入ることになりました。そのときも当然スーツ姿だったのですが、挨拶をした転校生の母親が、一瞬表情を曇らせました。幸い、転校生はうまく学級や私になじみ、生き生きと学校生活を送るようになりました。数ヶ月後の個人面談のとき、転校生の母親は、初対面のときの私の印象を「堅苦しくて面白みのない先生という感じがして、うちの子には合わないなぁ、困ったなぁと思いました」と笑いながら話してくれました。彼女にとっては、面白い教員、友達のように気軽に声を掛けることができる教員が「よい先生」だったのです。
 こうした雰囲気を感じているのか、教員採用面接で若い人に話を聞くと、「子どもに好かれる先生」「子どもが本心を話せるような先生」を理想の教員像としてあげる人が多いのが現状です。もちろん、悪いことではありません。しかし、こうした教員像は、一つ間違えると友達同士のような教員と子ども関係を生み出しかねません。その弊害の一つが、α語とβ語の問題に通じるのです。
 教員は、「先生、プリント」、こう言って手を出す子どもに対して、「今は授業中だし、先生は君たちよりも年上で、君たちを教える人なんだから、そんな言い方ではおかしいね。きちんとした日本語で言ってみなさい」と言い、「プリントが一枚足りなかったのでください」と言い直させなければいけないのです。しかし、こんなことを言う教員は、「うっとうしい奴」として嫌われてしまいます。なにしろ子どもの価値観を左右する家庭が、α語派なのですから。
 先ごろ、ニートについての調査結果が発表されました。それによると、ニートの多くは就労意欲は高いものの「他人と話すことが苦手」である者が多く、それが就労のネックになっているということでした。今どきの若者といえば、ノリがよく明るいというイメージがありますが、それはごく内輪の仲間内でのことであり、勤務先の上司や先輩、取引先、顧客などと話すのは苦手なのです。それには、小学校・中学校・高等学校でのα語中心の言語体験が影響しているのだと思います。
 また、最近の若者の特徴として、気分や感じで話すことを挙げることができます。「っていうか」「…な感じ」「…じゃないですか」など、若者言葉は、どれも論理性を欠いています。「っていうか」は、本来、相手の意見に対して自分は違う見解をもっている場合に使う「…と言うよりもむしろ…である」という言い方から発生したものであるにもかかわらず、いきなり話の冒頭で使われたり、まったく同じ趣旨の話を繰り返すときにも使われたりしています。「…じゃないですか」は、相手との共通の体験なり情報なりをもっているときに同意を求める言い方であるはずなのに、自分のことを何も知らない初対面の相手に対しても、「私って、○○が好きな人じゃないですか」という使われ方をしています。思わず「あんたのことなんか知らないよ」と言い返したくなってしまいます。
 こうした非論理的な会話もα語中心の生活を送ってきた影響だと思います。これでは、他社との議論は成り立ちませんし、論理的な思考力も鍛えられません。これからの社会を築いていく若者に求められるのは、自ら問題を発見し、自ら考え問題を解決していく能力です。そのために欠かせないのが論理的な思考力です。そして、論理的思考力は、物理や数学の問題を考えることで培われるのではなく、常にきちんとした論理の中で物事を考え生活を送るという態度から創られていくのです。
 私は、家庭におけるα語中心傾向に異議を唱えるつもりはありません。しかし、学びの場である学校においては、β語の復権が重要な課題だと思います。

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パンドラの箱

2010-02-11 07:40:29 | Weblog
「自己犠牲礼賛」2月6日
 経済的に苦しい学生を支援するため、上智大学が、教職員ボーナス予算3000万円をカットして、来年度から特別奨学金を創設するという記事が掲載されました。
恐ろしい、というのがこの記事を目にしたときにまず感じたことでした。ようするに、教え子たちのために、教職員が自腹を切るという話です。これが、美談として広まっていけば、まず、私立の中高や大学で、そして、最終的には、各自治体ごとに公立の小中学校においても、取り組まざるを得なくなってくることが懸念されます。
 公立で導入される場合、まず、議会でこのような質問がなされることになるでしょう。「市内にある○○学校(私立)では、教育愛に燃えた先生方が、経済的理由で学業を続けることが難しい教え子のために、自らのボーナスカットを申し出ているという。市長や教育長はこのことについてどう感じるか」。これに対して肯定的なニュアンスの答弁がなされ、続いて「本市の小中学校の先生方の中にこうした崇高な使命感、教育愛をもつ人もいると思うが、教職員が基金を作って支援をしようというような動きがあってしかるべきではないか」という質問が重ねられます。質問という形をとってはいますが、「やらせろ」という強要です。こうなれば、少なくとも、校長、副校長、主幹、さらには今後こうした職を目指そうとしている教員などは、拠出に応じざるを得なくなるでしょう。小中学校併せて、30校としても、年600万程度が集まることになります。さらに、参加する教員が広がってくれば、内心はどうあれ、お付き合いで参加せざるを得なくなったり、保護者から「ケチ」「ガリガリ亡者」と思われたくないために参加する教員が増え、1000万円、2000万円という規模になるのもそう先のことではなくなるでしょう。そのうちに既成事実化し、子供の支援システムの一つに位置付けられ、誰もがそれを当然のこととして受け止めるようになってしまうのです。
 こうして、教員は教育者なのだから自分を犠牲にしてでも子供のために尽くすのが当然であるという、間違った「教員聖職論」が跋扈することになります。そして、これも学校で、あれも学校でと、さらに多くの負担を学校や教員に強いる風潮が強まっていくのです。これでは、早晩学校教育は圧死してしまいます。
 上智大学の心優しきキリスト精神が、パンドラの箱を開けてしまうのでないことを祈りたい気持ちです。

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評価の二重基準

2010-02-10 07:17:44 | Weblog

「評価は」2月6日
 「新・教育の森」の「記者ノート」に江戸川区立二之江小学校特別支援学級における英語活動が紹介されていました。少し長いですが、一部引用してみます。
 『先生が2人がかりで押さえていないと飛び出してしまう子もいる。「○○君」という呼びかけにうまく返事できない子もいる。そんな子たちが音楽に合わせて「ハロー、ハロー」と楽しそうに歌い、全身で空腹を表現しながら「アイムハングリー」と話す姿は感動ものだ。声を出すことを覚え、今まで歌えなかった校歌を歌えるようになった子もいる。「グッドモーニング」と登校時にあいさつを交わす児童も出てきた。小林校長は「内にこもっていた子が積極的に他の子どもとかかわれるようになりました」と言う』。
 素晴らしい実践です。無責任にそう思います。しかし、私が教委の責任者だとして、あるいは校長として、この教育活動を公的に評価しろと言われたら戸惑ってしまいます。ここ10年くらいの間に導入されてきた「学校評価」の考え方からすれば、数値目標があり、その達成度を示すことが、評価であるということになっています。
 この英語活動の目標は何だったのでしょうか。特別支援学級では、小学校の学習指導要領か特別支援学校の学習指導要領のどちらかに準拠して教育課程が編成されているはずです。そのどの部分に基づいた活動であるのか、記事からは不明です。目標の設定の仕方によっては、発声・発語について評価することになりますし、人間関係の改善の視点から評価する場合もあるでしょう。目標以外の部分は、副次的効果でしかなく、そのことをもって「成功」という評価は下せないことになっています。ですから目標の立て方によっては、この活動は「目標の達成度が低い」とせざるを得ないこともあり得るのです。
 記事はそうした面には触れていません。しかし、学校の説明責任、数値目標による評価という「流行」の考え方を支持するのであれば、記者の印象ではなく、教育課程に記載された目標に照らしての評価がなされるべきだったのではないでしょうか。あるときは「子どもの目は輝いていた」式の印象で、あるときは厳格に達成数値で評価するというのでは、二重基準です。記者や無責任な第三者はそれでも困りませんが、学校はそうはいきません。素晴らしい実践を紹介してくれた記事に感謝しながらも、その点が不満です。

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決断

2010-02-09 07:28:32 | Weblog
「決断」2月6日
 北海道大学公共政策大学院教授宮脇淳氏が、国政の決断力というタイトルで経済コラムを書かれていました。その中に、次のような一節がありました。『政策価値が総花的で議論が発散的な時、多くの会議体による議論は政策の八方ふさがりをもたらす。鳩山内閣では政府内に多くの会議体がある。仮にその結論に対し尊重姿勢で等しく接すれば、会議体の相互けん制構図となり、いずれも十分に尊重できない中途半端な結果をもたらす。政策形成への国民的信頼性を失い、経済社会に対する政策効果も低下させる原因となる』というものです。そして、このコラムを『民主的に多くの意見を集めるほど、多くの立場を構造的に組み上げる国政としての決断力が必要となる。議会の多数決原理同様、決断の明確化が最終的な信頼を生む』という言葉で締めくくっています。
 今、学校理事会制度の導入が議論されています。地域住民の手によって、学校を運営していくべきだという発想で、民主党が唱える「地域主権」の教育版の具体的な姿でもあります。私はかねてから、学校理事会制度的な発想には疑問を呈してきました。それには様々な理由がありますが、その中の一つが、学校理事会における「決断」の問題だったのです。
 現在のシステムは、校長というトップリーダーが決定権と決定に対する責任を負っています。しかし、学校理事会では、誰が決断するのか、どのような手順で物事が決まるのか、誰がどのような形で責任を負うのか、という点が見えてこないのです。宮脇氏が言うように、「会議は踊る」では困るのです。理事会というのですから、理事と理事長がいるのでしょう。理事長が決断するのか、多数決なのか。後者の場合、何らかの不都合が生じたときに「決定」に反対した者も責任を負うのでしょうか。そもそも、公務員ではない理事や理事長に責任を負わせることが出来るのでしょうか。でも、責任のない者が決定するのは組織運営の原理に反します。あるいは、理事会は答申するだけで、校長に拒否権があるのでしょうか。校長が拒否権を発動した場合、理事会は別の答申をしなければならないのでしょうか。校長が勝手に別の決定をしてもよいのでしょうか。
 国政の場合は、合議体である国会の構成員である議員には、選挙というチェックがありますが、理事には、どのようなチェックが働くのでしょうか。衆議院に解散があるように、理事会制度においても、校長が解散をさせる権限があるのでしょうか。国会議員は国民が選びますが、理事は誰が選ぶのでしょうか。被選挙権に該当する資格はどのような者になるのでしょうか。公職選挙法が適応されるのでしょうか。
 こうした、制度設計が明確でないまま、理事会制度が導入されれば、学校現場が混乱するのは必至です。あるいは、私的な「ボス」による恣意的な支配を許すことになります。
 学校理事会制度が話題になってからかなりの年月が経っています。それなのに、具体的な設計図が示されないのはなぜなのでしょうか。民主党の文教政策の1丁目1番地ともいえるのですから、早急な提示を望みたいものです。

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