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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

年齢制限

2009-02-09 07:12:24 | Weblog
「年齢制限」2月6日
 都教委は、社会人などを対象にした特例選考について、従来の44歳という年齢制限を廃止することを決めました。優れた人材確保や受験者数の拡大をねらっているとのことですが、効果はないと思います。
 常識で考えて、50歳まで民間企業に勤めていた人がいきなり教員としての職務に適応できるとは考えにくいと思います。もしそうではないという意見の人がいるとすれば、それは教職というものについて理解不足ではないかと思います。授業は、その強化の基礎学問、例えば社会科であれば、経済学や社会学、倫理学、政治学などについて知識があればうまくいくというものではありません。若い柔軟な頭脳で試行錯誤しながらコツを体得していくしかないのです。50歳では難しいのです。
 さらに、授業力は研修会で身に付くというものではなく、先輩からコツを盗むという要素の方が大きいのです。50歳では、「若い先輩」から盗むことも難しくなってしまいます。私の経験では、民間企業からの転職組に指導力不足教員と思われる人が多かったものです。特に小学校教員では、その傾向は顕著でした。
 年齢制限の撤廃は、改正雇用対策法が施行された以上当然のことです。しかし、人材確保には別の方策が必要です。
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反面教師になって

2009-02-07 07:43:50 | Weblog
「どうやって首飛ばすか」2月4日
 大阪府の橋下知事は、「進学実績を上げるため10校を学区制限のない『超エリート校』とする教委の方針」に反対する校長が7割近くいたというアンケート結果を踏まえ、「進学したい子どもはどこに行けばいいのか。私立しかないじゃないか。頭にきた」、「僕はできないが、どうやって(校長の)首を飛ばすか」と述べたということです。
 教委の頭越しに教育問題について発言することが多い橋下知事ですが、府の直轄校である高等学校についての発言が特に目立ちます。そのこと自体は当然のことではありますが、府下の小中学校についてはどのように考えているのでしょうか。「公立から一流大学に進学」という発想をもっているのであれば、小中学校でも選抜試験を伴うエリート校設置構想をもっているのでしょうか。そこまでやれば一貫性があると思うのですが。
 橋下知事は、自分が教育については素人であるという自覚も、そのことに基づく謙虚さもありません。周囲が何を言っても無駄でしょう。教育には劇的な変革は似合いません。大阪府の人には気の毒ですが、そのことを証明するためにもとことん突っ走ってもらいたいものです。
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自主的に学び合う

2009-02-06 07:48:05 | Weblog
「支え合い」2月4日
 東京都教職員互助会などの調査で、教員が相談できる相手で最も多かったのは家族・友人で83.5%、上司・同僚は14/1%であることが示されたそうです。記事では、この背景について、男性教員の言葉を紹介しています。「教員はプライドが高く、なかなか「助けて」と言えない」というものです。そして、燃え尽きくたびれ果てた教員を再生させるには、「弱みを見せ合い、支え合うしかない」と結論付けています。
 何か大事なことを見落としているような気がします。人間は相手によって気分や心情が変わるものです。誰でもよいから「弱みを見せ合い、支え合いたい」と思うわけではないのです。私の経験では、職場の同僚に愚痴ったり、助けてもらったりしたいと思うことは稀でした。職場の同僚は、私にとって「嫌な奴」だったからです。
 私が赴任した学校は、「組合立学校」と言われるほど、職員団体の活動が盛んなところでした。職員会議の前には、職員団体の支部長が根回しをし、発言者を決め、校長をつるし上げていました。顔を合わせると、職員団体への加入を勧められ、職場の飲み会でも「どうして組合にはいるのが嫌なの」と「訊問」されたものでした。
 そんな私の心の支えは、私的な勉強会の仲間でした。教科の指導法について集まって話し合ったり、実践を発表し合ったりする仲間の存在でした。何人もの尊敬できる先輩がいました。本気で論争できる仲間や後輩がいました。教科のことだけでなく、学級通信の書き方、保護者会でする話、学級経営に役立つ実践など、教員として必要なことはほとんど全てこの勉強会のメンバーから学びました。
 仮に同じことを言われたとしても、尊敬する人の言葉は素直に受け入れられるものですし、心に染みるものです。教員という職業における「尊敬」は、教員という職業を通してしか得られないものです。遊びやスポーツ、飲み会や趣味を通してでは、本当に意味で同僚と尊敬し合う関係をつくることはできません。
 誤解のないように付け加えておきたいのですが、私が「尊敬」していた勉強会仲間もスーパーマンだったわけではありません。それぞれに悩みを抱えていた普通の教員です。ただ、誰もが教員としての仕事に前向きであったというだけです。共にある教科の指導法に関心をもち、そのことを極めようという志を同じくしていただけです。そうした関係の中でこそ、悩みを解決する助け合いが可能になったのです。
 教員が、授業や学級経営、教材研究や評価法などについて自主的に学び合うかつての「美風」を取り戻すことが大切なのではないかと思います。
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橋下知事と麻生首相

2009-02-05 07:27:54 | Weblog
「授業料クーポン券」2月4日
 大阪府の橋下徹知事が、高校の公私立間の授業料の格差を減らすため、保護者に差額分を支給する「教育バウチャー(クーポン券)制度」の導入を検討していることを明らかにしました。公立で約15万円、私立で約60万円となっている授業料負担を均等にするのが狙いとのことで、経営に関する情報公開や教員の給与水準抑制などの条件を満たした私学を対象に、生徒を通わせる保護者に差額分をクーポン券などで支給する案が有力なようです。
 そもそも教育バウチャー制度とは、学校教育を「サービス」ととらえ、サービスの受け手である住民の意向にもとづいて教育活動が行われることによって、学校教育の質を向上させようというものです。具体的には、①子どものいる家庭が行政からバウチャーと呼ばれる利用券を受け取る②公立、私立を問わず、子どもが通いたいと思う学校に利用券を提出する③利用券の枚数に応じて、学校側が運営資金を得るという仕組みです。より多くの子どもを集めた学校ほど資金が潤沢になるため、学校選択制と組み合わせることで学校間に競争原理が働き、教育の質の向上が期待できると考えられています。その導入については、既に文部科学省が有識者による研究会を立ち上げ、検討を進めています。実は、現在の首相である麻生氏が、小泉元首相の退陣後の総裁選で主張したものなのです。
 当時の新聞記事を見直してみると、麻生氏は「今は学校にも塾にも行く。どっちに行ってもよいと選択制にしたら、教育コストが下がる。導入するならそこまで考えないと」との考えを示していました。要するに「財政論」の視点からの導入意見だったのです。
橋下知事が提唱する「教育バウチャー(クーポン券)制度」の詳細はまだ分かりませんが、おカネだけに着目した制度改革では、教育改革という名には値しないように思われます。今後に注目したいものです。また、麻生首相の考えも聞いてみたいものです。
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障害児と共にor障害児を抱えて

2009-02-04 07:52:08 | Weblog
「障害児と共に」2月3日
 「発達障害児の特別支援教育」と題する特集記事の中に、発達障害のある児童を担任する教諭の苦労が描かれていました。そして、記事の後半には、特別支援の研究開発校での取り組みも紹介され、特別支援教育支援員の増員の必要性が示唆されていました。
通常の学級の中に特別支援教育の対象となる児童・生徒がいるという状況は、担任にとって大きな負担です。その解消には、記事のように支援員の増員も一つの対策ではありますが、根本的な解決にはなりません。私も、知的障害のある女児を担任したことがありますし、情緒障害の女児を担任したこともあります。校長の手に噛みついて離れなかったり、教室で大便を漏らしたり、ティッシュを食べて級友を驚かせたり、級友の髪の毛を抜けるまで引っ張ったり、多くのトラブルが発生しました。そうしたとき、担任として辛いのは、子どもたちの陰にある保護者の目でした。「授業が遅れる」「先生は○○さんの面倒ばかりみている」「クラスで何かしてもいつもビリ」、そうした無言の声を感じたものでした。「無言の声」と書いたのは、実際に面と向かって言われたことはなかったからです。自慢ではないのですが、そのときのクラスは2つともとても学級経営がうまくいき、保護者との関係も良好だったのです。それでも、そうした圧力は感じました。
 今、私が彼女らを担任した20数年前とは異なり、学校に競争原理を導入すべきだという意見が強まっています。数値に表れるテストの点数や体力・運動能力などで競争することを強いられるようになれば、保護者の無言の声は、実際に非難の声となって学校や教員を責める凶器となります。教員の本音が、「障害児と共に」という建前とは別に「障害児を抱え」という意識になってしまうことが懸念されます。「競争」と「共生」は無理なく並立することができるのでしょうか。難しいというのが私の考えです。
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利点を生かすには

2009-02-03 08:09:46 | Weblog
「中教審会長に財界出身」1月29日
 中央教育審議会の山崎正和会長の後任に、副会長の三村明夫・新日本製鉄会長が昇格することに決まったようです。財界出身者の起用は、旧中教審時代を含め2人目で、文部科学省幹部によると「教育政策が身内の議論にならないよう幅広い視点を取り込む」との狙いがあるそうです。
 会長人事だけで審議の内容が左右されることはないと思いますが、「身内の議論に陥らない」ことと「現状を正しく理解していない素人が的はずれな論議に陥る」は裏表の関係にあることを忘れてはならないと思います。また、「従来の発想に囚われない斬新な発想が期待できる」と同時に「素人ゆえに文部科学省の誘導する路線に乗せられやすい」危険性があることにも配慮が必要です。
 新会長人事の利点を生かすためにも、中教審には、徹底した現場からのヒアリングを実施してほしいと思います。その際のポイントは、ヒアリングする相手を文部科学省にピックアップさせずに、委員一人ひとりが各自5名ずつ、「この人の話を聞いてみたい」と考える人を申請し、直に話を聞くことです。肩書きや立場にこだわることなく、例えば、ある委員がたまたま新聞で目にしたユニークな実践をしている教員や、指導力不足や服務事故で免職になった元教員、学校事故の対応で矢面に立っている教委の担当者、教育特集を担当している新聞記者、いじめ被害者の児童・生徒など、幅広く話を聞き、現場への理解を深めた上で、大胆な提言を行ってほしいと思います。
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形式的対応では心は変えられない

2009-02-02 07:54:13 | Weblog
「教師の体罰」1月29日
 福岡市でマンションから飛び降りて死亡した中学生が、昨年6月、担任から、頭をげんこつで殴られたり、ひざをけられたりするなどの体罰を受け、家族に「死にたい」などと話していたことが明らかになりました。生徒は死亡した3日前にも担任から体罰を受けていたということも明らかになっています。
 昨年6月の事件後、校長は担任に「行き過ぎた指導をしないように」と注意したものの、市教委には報告していなかったということです。こうした対応は考えられないことです。私も教委に勤務していたときに多くの体罰事件に関わってきましたが、保護者や児童・生徒から訴えがあり、教員が有形力を行使していたことが明らかになった場合、すべて公式の報告書にまとめ、任命権者である都教委に報告していました。この場合の有形力とは、「軽く叩いた」「強く掴んだ」というようなレベルのものであっても例外にはしませんでした。教委のトップが、体罰に対して厳しい姿勢を打ち出さなければ、校長以下教職員が「体罰禁止は建前なんだ」という意識をもってしまうからです。
 この担任は、忘れ物を2回するとげんこつでたたくというルールを決めていたということです。校長の指導を受けた後も体罰を続けていたということは、校長の指導が形骸化していたということです。校長自身が、教委への報告が必要ではないと考える、つまり体罰を「たいしたことではない」と考えていたことが、担任にも無言のうちに伝わっていたということでしょう。校長失格です。もっとも、福岡市教委の担当者が、「昨年6月の件は報告されるべきだった。ただ、行き過ぎた指導であったが、対応は適正だった」と述べていることから考えると、一校長の問題というよりも、福岡市の体質の問題なのかもしれませんが。
 こうした愚かな校長と教委担当者の存在が、学校不信、教委不信を加速させることを思うと怒りが治まりません。
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蟻の一穴

2009-02-01 08:11:57 | Weblog
「分限免職は違法」1月27日
 指導力不足を理由に岡山県教委から分限免職処分を受けた元中学校教諭が、県を相手に処分の取り消しを求めた訴訟で、「教師として適格性を欠いたとしても、地方公務員としての適格性については十分な検討がなされておらず、処分は裁量権の乱用にあたり違法だ」とする判決が出ました。県側が控訴する可能性もあり、確定したわけではありませんが、こうした判決が、指導力不足教員を勇気づけ、同様な訴訟を誘発する可能性があります。そうなれば、各教委や学校は、その対応に大きな労力を費やさなければならなくなり、そうした事態を避けるために、指導力不足教員の指定を躊躇い、適切な処分を行わない事なかれ主義が横行することになりかねません。
幸い、本判決は、「教員としての適格性を疑わせるに十分だが、公務員の地位を失うという重大な結果をもたらす処分については、教員としての適格性を欠くというだけでは足りない」ということで、「学校職員など別の職への採用の可否は検討されておらず、地方公務員としての適格性を厳密に検討していない」というだけのことです。つまり、指導力不足教員であるという教委の判断については認めているのです。
しかし、教委の主張が認められなかったという意味で教委側敗訴であることは間違いありません。それだけに、各教委は、指導力不足教員対策について、きちんとした制度設計を行い、どのような訴訟においても勝訴できるようにしなければなりません。具体的には、授業の専門家である指導主事を指導力不足教員一人ひとりに貼り付け、きちんとした指導と記録を行うことです。安易な考えで手抜きをしてはいけないのです。

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