「すごいことが起きている」6月30日
『育児で実感 子の個別性の物語 滝口悠生さん短編集「たのしい保育園」』という見出しの記事が掲載されました。著者である滝口氏の言葉が印象に残りました。『保育や子育ては<子どもとの共同作業>の連続(略)抱っこ一つとっても、子どもも抱っこされる体の使いかたをしているから成り立つのであって、作業としては一緒にしている(略)親にあわせた抱かれ方が子どもの数だけある。そうした無数の「個別性」が同居する保育園には「保育士さんたちの複雑な技術があるはずで、すごいことが起きているんじゃないか」』。
さすがに作家らしく、すごい感性であり、表現であると思いました。抱っこは親がしているのではなく、親子の共同作業という発見が新鮮です。そう考えれば、例えば、教員が子供を叱るのも、褒めるのも教員と子供の共同作業だということが腑に落ちます。教員が叱る、その目の前で子供は俯き「ごめんなさい」とか「分かりました」などと小声でつぶやき、ときには少し涙を浮かべる、それで初めて叱るという行為が完結するのです。
もし、叱っている教員の前で、子供がニコニコ笑っていたり、「ねえねえ昨日さ~」と話しかけて来たり、「へんし~ん」とおかしなポーズをしたりしていたら、叱るという行為は成り立ちません。叱る叱られるも、共同作業なのです。共通認識があるという言い方かもしれません。
保育園や幼稚園、学校という場には、教員と子供の間の無数の共通認識に基づく共同作業があります。それがないところには、指導するとか教え導くという行為は成り立たないのです。教育とは、いかに多くの共同作業を可能にするかという営みだとさえ言えるかもしれません。
つまり、指導力のない教員とは、子供と共同作業ができない存在ということです。一人一人が異なる個別性をもつ子供と、その子に応じた共同作業の型を築き上げる、それで学校も学級もなりたっていくのです。
そして、この作業は子供の年齢が低いほど難しいのです。保育園や幼稚園での型作りの上に小学校の型ができ、低学年の型の上に高学年の型ができるのです。幼稚園や保育園での学びを軽視する発想では、よりよい学校教育を構想することはできないのです。
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