ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

脱改革病

2019-12-12 08:53:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「改革病からの脱却」12月8日
 ノンフィクションライター城戸久枝氏が、『20年迎える「弁当の日」』という表題でコラムを書かれていました。ちなみに、「弁当の日」とは、『元校長、竹下和男さんが提唱する食育を超えた取り組み』だそうです。『子供たちに弁当を作らせる。献立を考えること、買い出し、調理と箱詰め、片付けもすべて一人でする。大切なルールがある。それは、親は一切手伝わないこと』というものだそうで、『弁当の日を実施している小中学校は、全国2300校に広がっている』とのことです。
 この取り組みについて城戸氏は、『思わぬ形で子供たちの笑顔に出会うことができる』『体験することで子どもは成長する。そしてそんな子どもを見守る親もまた成長していくのだと、今、実感している』と評価なさっています。私は、「弁当の日」については、このコラム以上のことは知りません。城戸氏は、ノンフィクションライターらしく、正直に「弁当の日」について、『続いているところもあるし、途中でやめてしまった学校もある』と書かれていますが、おそらく大きなプラスと共に少なくないマイナスもあるのでしょう。ですから、私はここで直接的に「弁当の日」について論じようとは思っていません。
 注目したのは、次の部分です。『(弁当の日を最初に体験した家庭科教員が)「弁当の日で何が変わったのか」と聞かれた。相手は、子どもたちが弁当の日ですごく変わったという答えを期待していたようだが、その先生は「何も変わりません」と答えたという。「今すぐ変わるわけではない。10年後、20年後、彼らが大人になったとき、成果が見えるものだと思う。いそいで答えを見つけるものではない」と』。
 これです。この家庭科教員の言葉にこそ、教育というものの本質が込められていると思います。このように書くと、そんな考え方では公的事業としての学校教育の費用対効果の評価ができない、という反論が聞こえてきそうです。それは否定しません。しかし、短期的な成果、具体的に数値化できる成果ばかりを追い求め、その評価が芳しくないとなると、すぐに「改革」を主張し、また短期的な評価を行い、別の「改革」を主張するというのが、最近の教育委改革であるように考えるのです。こうした傾向は、現在の政権になったから特に強まったように思いますし、教育だけでなく学術研究の面においても、経済発展等に直接結びつく科学技術開発ばかりが優遇されるという形でも、表れているように感じます。
 人間は促成栽培の野菜ではありません。大量の化学肥料を与えて大きくし収穫してまた次の種蒔きという訳にはいかないのです。むしろ、短期間で子供が変わったとすれば、それは何らかの外圧によって表面的に変化しただけであった本質的な変化でも成長でもないと考えるのが正しいと考えるべきです。例えば、強圧的な体罰教員の下では大人しく猫をかぶっていた子供が、体罰という装置がなくなるとそれ以前よりも激しく問題行動を頻発させるように。
 10年後、20年後の成長に成果を見出すということは、不確実な未来を信じるということです。不確実な未来を信じることができるのは人間だけがもつ特質です。サルは夜になったら木の実を4つ挙げるからと聞かされても待つことができないのですから。
 議論を尽くして最善と思われる施策を構築し、その人たちの英知を信じて長い目をもって待つ、こうした姿勢が教育施策にも必要であるような気がします。
 
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