「誤解のないように」7月5日
『「学ぶ態度」評定対象外に』という見出しの記事が掲載されました。文科省が、『従来の成績評価の方法を見直し、評定をつける際に「主体的に学習に取り組む態度」を考慮しないとする』案を示したことを報じる記事です。
記事ではその背景として、『適切な評価が困難で教員の負担にもつながっている』という指摘があることがあげられていました。具体的には、『評価理由を保護者らに対して客観的に説明するためにノートの提出の頻度や課題提出の締め切りを守れるかなどの形式的な「勤勉さ」の評価にとどまる事例もあった』ということです。
また、この改革案に対しては、『(主体的な態度の)重要性が低くなったという印象をもたせないことが大事』『知識・技能中心のあり方の戻すと短絡的にとられないか』などの疑念が出されてもいるようです。
改革の方向性への賛否については、ここでは触れません。ただ、誤解が生じそうな点について述べておきたいと思います。まず、「評価」と「評定」の関係についてです。今回の改革は、「主体的な態度」について、評価しない、もしくは評価しなくてもよい、という趣旨のものではありません。
評価することなしに授業を進めることなどあり得ないからです。教員が、ある学習課題を提示したとします。その課題について、子供が興味をもっているか、疑問を解決したいという欲求をもっているか、予想を立てることができているか、解決に向けてある程度の方向性をもてているか、などの状況を把握しないまま、授業を進めることなどあり得ないのです。
そして、こうした子供の状況を知ることを「評価」というのです。「評価」は授業のあらゆる段階、場面で行われ、その「評価」に応じて教員は柔軟に対応を変え、授業計画の微修正を重ねて、実際の授業を進行させていくのです。
一方、「評定」は、ある基準に基づき、子供の現状を数値化、順位化して示すことを指します。ですから、基準は明確に示され、その基準に基づき子供のいつの、どの場面の、どのような言動が「5」に値したのか、「3位」なのか、教員はどのような方法で確認したのかなどを、データを基に説明することが求められるのです。
しかし、「評価」はそうではありません。45分間の授業の間に、何回も、何十回も行われる「評価」は、教員の感覚や勘による部分があるからです。いちいち記録を撮りデータ化する時間的な余裕はないのですから。
このことを教員も保護者も、そして子供自身もきちんと理解しておく必要があります。そうしておけば、上述した専門家の疑念も払拭できるはずです。詰込み式の学習であれば、教員→子供の一方通行型になりやすく、子供の状況を「評価」する必要はありません。「評定」はなくなっても「評価」はある、ということは、子供中心の主体的な学びが目指されているということなのですから。