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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

後悔先に立たず

2025-07-10 08:32:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「魂からの言葉」6月28日
 連載企画『街角ことば拾い』は、『揺らぐ学問の自由』というタイトルで、国会議事堂前で、日本学術会議改変法案に反対する人を取り上げていました。その冒頭にこんな記述がありました。
 『「もう遅い。こんなざまで殺されるなら、なぜ命懸けで(戦争に)反対しなかったのか」太平洋戦争で亡くなった学徒兵、中村徳郎さんは激戦地に向かう直前、部隊まで面会に来た弟に「死んじゃだめだ」と請われ、こう言って悔やんだ(略)同じことばを私は千代田区の国会議事堂前で目にした。雨の降る中、70代男性が傘を差して歩道にしゃがんでいる。携えた段ボールにペンで書かれていた』。
 戦争には反対だ、学問の自由は大切だ、異なる意見を封殺してはいけない、等々、多くの人はそう考えているはずです。しかし、現実の社会では、こうした「理想」とは相容れない出来事が起きています。そんなとき、少しだけ顔をしかめ、「困ったものだ」とつぶやき、それだけで見過ごしてしまう、そんな人が多いのではないでしょうか。
 理由はたくさんあります。理想と現実は違う、確かにいいことじゃないけど自分には関係ない、変に目立って「意識高い系」と思われたくない、自分が声高に反対しなくても誰かがやってくれるかもしれない、忙しくてそれどこじゃない、今の日本には民主主義・自由主義が根付いているから独裁国家みたいなことにはならないよ、選挙にはちゃんといってきちんと意思表示しているから、等々。
 実は、私もそうです。新聞を読み、テレビのニュースも見て、つれあいともいろいろなことについて話し合っています。選挙は棄権したことがありません。このブログでも民主や自由、法治の大切さにふれています。まあ、真ん中よりは少し「意識高い系」なのではないかと思っています。
 しかし、決して「命懸け」で、意思表示しているわけではありません。デモに参加したことも、座り込みをしたことも、ハンガーストライキをしたこともありません。おそらく、これからもしないでしょう。でもそれでいいのか、ということを問いかける記事でした。
 アラ古希の私はもう戦争に行くことはないでしょう。でも、今の若い人は冒頭の中村徳郎さんのような嘆きを繰り返す可能性があります。あのとき、一声あげていれば、一歩踏み出して行動していれば、と後悔する時を迎える可能性があるのです。
 そうならないために、反戦教育も、主権者教育もあるのです。一声、一歩に結びつかないのであれば、教育は失敗なのです。今学校の教育現場にいる教員の皆さんには、そうした覚悟をもって、反戦教育や主権者教育に向き合ってほしいものです。

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