
山頂で風雨を避けるためにポンチョで覆いを掛けて昼食

ようやく下山。昔風のポンチョ姿だった。
友と嵐と「守門岳」
「守門岳」の麓、大白川本村に母親の実家がある山友達と、二人で出掛けたのは、
二十歳代前半の登山ではもっとも充実した体力を備えた年でも有った。
久しぶりの甥の来訪に喜ぶ、叔父叔母の歓迎に二人の杯は止まることが無かった。
翌朝早くに目覚め「出発しないか」と問うと「ちょっと待って」と繰り返すのみ。
私たちは彼の母の実家を山の宿代わりに使って「守門岳」に登ろうと言う、半ば虫の良い計画だったのだ。
二階の部屋に泊まらせて頂いた私たちに「おーい、起き無くて良いか―」などと心配の声もかかって来る。
八時前にようやく起き出した彼は強度の二日酔いで、朝飯など到底腹には納められる状況には無かった。
恐縮しながら一人で朝食を頂き、ようやく山支度の出来た友と、お世話になったご夫妻にお礼を述べ、
出発したのは八時をすこし回った時刻だった。
本村を出発し、砂利道の自動車道を歩き、大原登山口を目指した。
ふらふらと歩いていた友の足取りも歩くにつれ、に軽くなってくる。最初の急坂を登り終え、
一汗かいて尾根道に着くころには足取りも軽やかになり快調な登山となって来た。
春から幾度となく登って、脚力の充実していた私たちは、先行した登山者を次々と追い越し、
頂上には一番乗りすることになったのだった。
その、小柄で幼少時に負った火傷の障害のハンディも残っていた、生意気な口を聞くのに、
どこか憎めなかった友「安達調太郎」はその後、三六歳で越後三山を縦走中に遭難転落死してしまった。
****************************************************************************************
その何年か後の十月十日「体育の日」に家族四人で同じコースを歩き「守門岳」に登った。
「体育の日」は天候特異日で、晴れる確率が高いと言うのだが、その年は違った。
朝早く登山を開始した時は降っていなかった雨も、頂上付近に差し掛かると強い風を伴って降り始めてしまった。
ポンチョを藪に張り巡らせて雨をよけ、ようやく昼食を取り終えると、
雨で小川のようになった場所さえ有った登山道を大急ぎで下山したのだった。
ようやく登山口に到着し、降りしきる雨の中、自動車に飛び込んで下着から全部の着物を着替えた。
娘達には「本州の山で、体育の日にこんな天候条件になることは少ない。
もしも、自分たちだけで登ることがあっても慌ててはならないぞ」などと言いながら帰路に着いたのだった。