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尋常ならざる(良い意味で)み教え

2018-01-11 19:25:36 | 日記
聖経『天使の言葉』に
こうあります。
【如何なる病も
如何なる不幸も
ただ『生命の実相』の表面を掩(おお)える
叢雲(むらくも)の如き幻に過ぎざるなり。
その幻はすべて
『生命の実相』を知らざる迷(まよい)より生ず。
汝ら『生命の実相』を知り、
迷滅すれば恐怖滅し、
恐怖滅すれば
一切の不幸と病おのずから滅せん。】
これが真実なら(真実です)、
この生命の実相のみ教えは、
尋常ならざる(勿論良い意味でですが)み教えであります。


私の神想観のパターン

2018-01-11 18:56:31 | 日記
私の神想観のパターンは、
基本的神想観をして
それの途中から
「実相は即ちわれ、われ即ち実相」と念じるのに
切り換えるやり方です。
つまり実相を観じる観を
やるわけです。
私は
実相は必ずあると信じ切ること、
感謝でいただくこと、
顕われるまで叩き続けることが
鍵になるのかな、
と思います。

谷口雅春先生「神想観の神髄」
【わが存在の深奥なるところに、現象の自分の想念が波立てども、決して波立たずに、深く一切を湛えて不動にしてそのまま一切をあらわすところの根源的な存在があるのである。すべての善きものは悉く、この深く湛える根源より発するのである。これをキリストは「天の父」と称したのであり、その「天の父」のまします「わが存在の深奥なるところ」を「神の国」と称したのであり、「神の国は汝の内にあり」と喝破されたのである。キリストが「我れみずからにては何事をも為し得ず、天の父われに在(いま)して御業(わざ)を為さしめ給うなり」と言ったところの「何事をも為し得ない我みずから」とは、波立ちさわぐ表面の自我であり、その表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき、内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り、大いなる業(わざ)を成就するのである。】


神想観がうまく行きにくいことだってある

2018-01-11 18:10:37 | 日記
ある人に対して
疑念というのか
疑いの心というのか
不信感を感じている時に神想観を何回しても、
実相に入った観になりにくい時が
あるものです。
そういう時は
こちらの心も柔らかさを欠いているので、
ゴリゴリ神想観を続けたりするのです。
昨晩私はそんな神想観をしてしまったのですが、
気がついてみれば、
人に対して現象ではなく
実相は「神の子」なんだと思えば良いわけで、
人に引っかかりが一人でもあると
神想観を上手にする上で土台無理なので、
どの人も実相において「神の子」と観ればよいので、
つまり良い人と思えばよいので、
そうすれば
神想観のカラ回りも
しないですんだのでした。
でも
何回神想観やっても
観に入れない時もあるものであって、
そのような時は、
観に入ることに苦労すること自体に
自己神性の働きがあるのだから、
その苦労もありがたいことなのです。