ある人に対して
疑念というのか
疑いの心というのか
不信感を感じている時に神想観を何回しても、
実相に入った観になりにくい時が
あるものです。
そういう時は
こちらの心も柔らかさを欠いているので、
ゴリゴリ神想観を続けたりするのです。
昨晩私はそんな神想観をしてしまったのですが、
気がついてみれば、
人に対して現象ではなく
実相は「神の子」なんだと思えば良いわけで、
人に引っかかりが一人でもあると
神想観を上手にする上で土台無理なので、
どの人も実相において「神の子」と観ればよいので、
つまり良い人と思えばよいので、
そうすれば
神想観のカラ回りも
しないですんだのでした。
でも
何回神想観やっても
観に入れない時もあるものであって、
そのような時は、
観に入ることに苦労すること自体に
自己神性の働きがあるのだから、
その苦労もありがたいことなのです。
疑念というのか
疑いの心というのか
不信感を感じている時に神想観を何回しても、
実相に入った観になりにくい時が
あるものです。
そういう時は
こちらの心も柔らかさを欠いているので、
ゴリゴリ神想観を続けたりするのです。
昨晩私はそんな神想観をしてしまったのですが、
気がついてみれば、
人に対して現象ではなく
実相は「神の子」なんだと思えば良いわけで、
人に引っかかりが一人でもあると
神想観を上手にする上で土台無理なので、
どの人も実相において「神の子」と観ればよいので、
つまり良い人と思えばよいので、
そうすれば
神想観のカラ回りも
しないですんだのでした。
でも
何回神想観やっても
観に入れない時もあるものであって、
そのような時は、
観に入ることに苦労すること自体に
自己神性の働きがあるのだから、
その苦労もありがたいことなのです。
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