gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

意識的につけるべき“一切に神あり”と思う習慣

2018-01-12 20:20:27 | 日記
一切の事物を神の示現と思い
そこに神(実相)があり善があると思う習慣をつけるべしと、
書かれている強烈な箇所があった。
生命の実相の修行の行き着くところ
そこへ行かなくてはと思った。
この習慣によって
人は必ず幸福になれるだろう。
(参考 信仰の科学 谷口雅春 F・ホルムス共著 日本教文社)
【自分の住む世界を変えるには、自分の存在に対する自己認識を先ず変えればよいのである。唯一者なる不変の真我が肉体の出生から死に至るまで無数の体となって現われるのである。心を統御することによって、自分は病める肉体から健康なる肉体へと生まれ変ることが出来るのである。本当の自分は病気になることは出来ないのであるが、自分自身が生命の自己表現を窒息させてしまうという意味で、“自ら病気に罹る”ことが出来るのである。恐怖の念、心配、そして挫折による失意は、内なる真我を窒息させるが、信仰と心の平和と確信は再び自分を自由にするのである。
私がこれから為さんとすることは、このような優れた心を抱くことである。私は全ての事物と全ての人々にそれぞれ内在するところの“善”を求め、“善”について考えるのである。美は至るところに在るのである。人間である私はいついかなる時も神の中に在り神の言の中に在るのである。私はいついかなる時も全ての事物の中に神の霊を観じ、神の霊を感ずるのである。私は“愚か”ではないのである。愚かなる人は誰一人いないのである。私は神の見地より事物を観るのである。神は“人間を完全に造り給うた”。私はどんなに事物の“外見”がこれとは反対に現われておっても、このような神の創造の善を固執するのである。私は“全ては善であり”“悪”と見ゆるものはただ善を自覚せぬ結果の現われた状態に過ぎぬということを、わが心の底より悟るべく時間を費やすのである。私は全ての事物の内に神を観、全ての人々の内に神を観る。そして神を信頼するのである。愛は憎しみを知ることは出来ぬのであり、完全は不完全を知らぬのである。したがって私は自分の心の態度を変えることによって己が住む世界を変えるのである。私は自分に備わる全ての恩恵に対して、己れの存在の本質に対して、有り難き感謝の気持にて満たされているのである。私は生きて歩むことの悦びに全身が打ち震え、平和と希望の満てる新しき世界が、友情の満てる世界が、今すぐに眼前に横たわることを知りつつ、前進するのである。】



ローマ人への手紙

2018-01-12 12:06:44 | 日記
<ローマ第15章16章>
あとがき(15・14-16・27)
パウロの伝道方針(15・14―21)
15・14.さて、わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互に訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じている。
15.しかし、わたしはあなたがたの記憶を新たにするために、ところどころ、かなり思いきって書いた。それは、神からわたしに賜わった恵みによって、書いたのである。
16.このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。

人には「死なない神さまの永遠の“いのち”なるもの」が宿っている

2018-01-12 11:33:47 | 日記
人には神のいのちが宿っている、
神のいのちであるから、
人は死なない、
このことを知って
私たちは大安心をすべきです。
(参考 真理第一巻入門編 谷口雅春著)
第八章 健康の生かし方
<取越苦労をなくするには>
【パウロはキリスト教の人であるからそう云ったのでありますが、仏教の人ならば「阿弥陀様の無量寿が自分のうちに生きているのだ」と云う気持であります。どの宗教でも同じことであります。自分の生命は自分の頑張りで製造した“いのち”ではない。結局死なない神さまの永遠の“いのち”なるものが宿って生かされているのだと知ることです。此の死なない生命なるものが宿っていることが判れば、人は大安心が出来るのです。天地に満つる“いのち”が自分を生かして呉れているのですから、もう恐れることはありません。】

全ての人が持っている珍宝

2018-01-12 10:09:47 | 日記
1. 現象は空相であり不生不滅
般若心経には
この現象が空相であり、
不生不滅であることが
説かれております。

仏説・摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智、亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経

現象は本来「無」であり、
唯心の所現であり、
真理的に言えば
不生不滅です。
2.現象は無といっても
神性(仏性)の表現であり、
“神の子”の即身成仏なのです。
(参考 大聖師御講義『続々甘露の法雨』谷口清超編纂 日本教文社 p38)
<即刻・そのままに人間は仏である>
そういうことがわかってまいりますと、この物質と見えておるところの肉体は実は“空”であり、妙有であり、“そのまま”に成仏であって、成れる仏であり、仏の生命(いのち)である、というわけであります。これはまことに素晴らしい真理であります。いま即刻、時間の間隔なしに人間は仏である。これから、やがて仏になるんじゃなくて、既に“いま”仏であるというわけです。既に此の身がそのままに仏である。「此の身、此の儘、成れる仏である」この真理が本当に分るまでは、此の体というものは物質の固塊(かたまり)であるとこう思っておったのです。ところが、此の真理が本当に分ったら、物質の固塊じゃなくって、其れは成れる仏である。これから仏に成るんじゃない。已成(いじょう)の仏であり、既に成れる仏である。成仏というのを「仏に成る」なんて読む人があるけれども、そんな風に読んだら本当の意味が分らないんです。こういう言葉は支那の熟語でありまして、支那人は縦にそのまま読むのであって、何もひっくり返って読んで考えるんじゃないんです。頭からズバリと読んで“即身成仏”と読むべきです。で、そのままの身が既に成れる仏である。一分一秒後に仏に成るんじゃなくて即刻ですね、“そのまま”仏であるというわけなんですから、人間はまったく素晴らしく偉大なものなんです。それが人間の本当の実相であります。従って、“悪いもの”が実在としてある筈はないのであります。だから、“全ての不幸と悲惨とは神の所造に非ざるなり”とこの聖経に書かれておるのであります。
3.即身成仏の本体とは何か
これは実相“神の子”であり
現象世界への展開の源であるといえますし、
「神の心」「神の言葉」「ロゴス」「神の子の理念」「実相」「久遠の実在」とかは、名はちがいますが、同一のものであり、これが現象を貫いているのです。
永遠に貫かれているものであって、
法華経の長者窮子の譬えにある珍宝、
多分観音様が手に持っているあの珠でしょう。