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生命円満完全

2018-01-10 15:05:42 | 日記
今日も駅前まで歩き、
ファミリーマートの2階の休憩所で勉強して
歩いて帰る途中で思った。
俺が今歩いているのは
肉体が歩いているというよりも、
「いのち」が俺を歩かせているんだ、
つまり、
「いのち」が歩いているんだ。
「いのち」というのは「神の子」なんだ。
「神のコトバ」と云ってもいい。
だから、
肉体のことを気にするのは、
馬鹿らしいことなんだ、と。
聖経『続々甘露の法雨』には
病気や症状のことを
ボロクソと言える感じで書かれているが、
実相独在の立場からいえば
そんなものなんと思う。

ローマ人への手紙

2018-01-10 11:13:41 | 日記
<ローマ第15章>
キリスト者の倫理(12・1-15・13)
愛における一致(15・1―13)
10.また、こう言っている、
「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。
11.また
「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。
もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
12.またイザヤは言っている、
「エッサイの根から芽が出て、
異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。
異邦人は彼に望みをおくであろう」。
13.どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によってあなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。

現象とは何か

2018-01-10 10:50:27 | 日記
現象とは何か、
現象は「仏性」そのものであって、
すばらしい“何ものか”がある、
と正法眼蔵は説く。
現象をどう見るかについて
とても参考になる。
(参考 正法眼蔵を読む 現成公案の巻 谷口清超著)
【<海徳山徳きわまりなし>
そのように、全ての現象(万法)も亦、見る人の心や立場で、色々と変って見えてくる。それ故「現象は心の影」といい、「唯心の所現」ともいう。それを一定不変のものと見るのは、間違いで、海でも山でも同じことだ。これらはすべて「そう見えている」だけであって、実体は「仏性」そのものである。何もないのではなく、すばらしい“何ものか”がある。これを空漠たるものであると考えるのは“断見”になるが、現象アリと、固定化して見るならば“常見”であって、この二見は迷妄であることを知らなければならない。


宇宙に満つる大真理(キリスト)吾れにあって生くるなり

2018-01-10 10:14:20 | 日記
私たちは
絶対安心の境地に入る必要があります。
人間我を神我(神の心)に切り変える必要があります。
それは聖典読み、徹底した四部経読み、神想観、
そして愛行で可能です。
それらの継続によって
自分が真理それ自体になっていくのです。
(参考 真理第一巻入門編 谷口雅春著)
【第八章 健康の生かし方
<取越苦労をなくするには>
元来吾々は自分で生れようと思って生れて来た訳ではありません。頑張りで生れたのではありません。神が生命を与えたのですから、自分の生命ではないのです。それに気がつけばもう大安心です。自分の頑張りで拵(こしら)えた生命なら、自分の頑張りで護るよりほかに道がありませんが、神様が与えた生命ならば神が護る―これが判ればもう大丈夫です。もう恐れることは要らないのです。「天地に満ちている神様の生命が私に宿って生きているのだ。」と云う気持であります。パウロと云う人は「キリスト我にあって生くるなり」と云われましたが、此の、キリストと云うのは2千年前に肉体をもってユダヤに生れた其のキリストだけのことではないのであって、宇宙に満ちている真理なるキリスト、天地に満ちている“いのち”なるキリストであります。】

三界は唯心

2018-01-10 09:29:02 | 日記
今私は
家内と一緒の朝食を食べ終ったところであるが、
家内を含め
食卓に置いてある湯呑茶碗、きんかんの実、
筆記用具、パソコン、ブログに使う何冊かの本等、
私の環境世界丸ごとが
私の実相(神の子)から
涌出したものである。
丸ごとが即身成仏である
これが三界唯心であり、
実は神の「心」、神の「コトバ」それ自体なのだが
それに私の現象心が重なって出てきている。
この真理を五官的に言う時は
横の真理(三界唯心・心の法則)というが、
そこを貫いている神の「心」、神の「コトバ」が
存在すると言うときには、
縦の真理というのである。
とにかく
自分の現象と見えるものは
自分の肉体を含めて、
自分の内なる実相(神の子・神の国)から
五官世界に顕われてきたものだから、
本来は
円満であり、
完全であり、
大調和なのが
真理である。
この尊い啓示をいただきましたことに
神に感謝いたします。