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生活の中で実相を観る習慣をつけよう

2018-01-04 10:44:33 | 日記
私たちが
生活の中で実相を観る修練を積んでいくならば、
いつしか
物の観方が実相の観方になっていくでしょうし、
神想観にもそれが反映されてきて、
実相に属するよいものが
続出してくるでありましょう。
具体的に
そのような習慣を
つけたいです。
(参考 生命の実相第8巻 無限生命に汲む道)
「われわれが、神に対して心を打ち開いた程度に従って、神の英知が無限大にわれわれのうちへ流れ入ってくるのであります。わたくし心がなくなればなくなるほど、計らい心がなくなればなくなるほど、神の英知はわれわれの内部にまっしぐらに流入して来て、あらゆる点においてわれわれの導きとなってくれるのであります。」p46
「しかしわれらが心の方向を一転して存在の実相を靜観するとき、すなわち、あらゆる人、物、事の奥の奥の奥に横たわる円満具足の本質を観ずる時、われらの意識は実相を直観するのです。」p75
「そしてこの完全な健康は、われわれの念が自己本来の実相を完全にうつし出すならば、当然、現実の人間そのものの上にあらわれ出ずべきであります。」p82
「人間の実相が、完全に現実の人間として顕現し出ずるとき、ここに『ヨハネ福音書』の言うとおり“言葉は肉体となる”のであります。」p83
「心が実相をありのままに完全にいつし出すとき、われらの肉体は実相そのもののように純粋に、浄無垢に、汚染のかげもとどめず、妙に円満な金剛不壊のものとなるのであり、知恵、生命、ちから、さわり無さ・・・これらの内なる万徳は外へと輝きいずるのであります。」p83
「移り変わる現象人間の姿から心の眼を一転させて、水晶の水のように澄み切った真実在の実相に心の鏡を向けよ。」p85
「われらの実相が神より出でたる“神そのもの”であって、神と同じき完全なる神性を有するものであると自覚するとき、自己を不完全不健康な存在だと考えることは不可能となるでありましょう。」p90
「鏡そのものに欠陥はないのであります。だからわれわれの心がその表面に“くるい”のある映像をうつし出したとて、依然として心そのものは完全なのであります。何人の心といえども、心はすべて神の心をもって本質としてつくられているのでありまして、何物の力もこの心をくるわすことはできないのであります。」p92
「完全なる神の心を心とする人間の心は病の原因になることもできないし、病の原因を包蔵するものともなりえないのであります。」p93
「またわれわれの本体は決して病になることはできないのです。それは、神そのままのものであるからです。」p94
「われらはものに対するとき実相をもってその姿と観じ、実相をもってその生命と観じ、実相をもってその体と観じ、実相をもってその本質と観じ、実相をもってその本来の面目と観じ、その完全な実相こそいっさい事物のいま現にあるすがただと観じなければならないのです。」p97
「五官に見ゆる状態は噓にすぎず、実相を正観せよ! かくする時、心はただただ完全健康のみを意識するでありましょう。」p101
「人の全存在がことごとくこれ、水晶のごとく浄々玲瓏たる霊的実在であり、最高純化の極致に到達せる宇宙霊の精髄のごとき純浄透徹せる実在であると観ぜよ。」p104
「人間は常に健康であるので今さら健康を求める必要はないのです。」p111
「ただまず神の子である自分は今現に健康をもつと信じ、実相の意識に入り、実相の完全さこそ“本当のもの”であること、神がすべてのすべてであること、されば自己は神と分ちがたく一つであることを全心情をもって知り、自己の欲するものすべてがすでに与えられている事実を、深く魂の奥底より肯定すればよいのであります。」p104