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ローマ人への手紙

2018-01-09 16:28:41 | 日記
<ローマ第15章>
キリスト者の倫理(12・1-15・13)
愛における一致(15・1―13)
1.こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。
2.わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、
3.異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、
「それゆえ、わたしは、異邦人の中で
あなたにさんびをささげ、
また、御名をほめ歌う」
と書いてあるとおりである。

本当の(実相の)自己 が“神の子”なのだ

2018-01-09 16:10:46 | 日記
さっきドトールで
『信仰の科学』という本を読んだり
聖経『四部経』を黙読したりしていた時、
私の肉体が物質みたいに現われた霊であって
それが即身成仏であるのなら、
その即身成仏の本体になるのが
“実相神の子”であるわけなのだ。
つまり私は神の子なのだ。
してみると
この喫茶ドトールも
お客さんも
全て自他一体の神の子・神の国なのだ。
それら全部が
私の内にある。
何か体感的に
分った気がした。
自分の中に神の子(+神の国)が
ズバッと存在している気がした。
現象はそれの表現なのだ。
人間は永遠に悟りを重ねていく存在だと思うが
これも一つの悟りといって
よいのかも知れない。

現象認識は唯心所現でも「実体」は仏性である

2018-01-09 11:36:04 | 日記
面白い文章があった。
これはブログで紹介したいと思った。
三界は唯心だから色々な見え方をするが、
それでも
実相は円満完全だということである。
(参考 正法眼蔵を読む 現成公案の巻 谷口清超著)
【<海徳山徳きわまりなし>
「一水四見」。即ち、同じ水を見ても、人はそれを水と見るが、魚は宮殿と見る。天人は瓔楽(ようらく~球の首飾り)とみる。ところが餓鬼が見ると、膿血に見る。それは見る者の心や立場の違いから、同じ水でも、見られる姿が変わってくるからである。それと同じように、海を見るときも、大海にこぎ出してみると、しばらくの間海は円く見える。それは自分の心で、その立場でそう見るだけであって、絶対的な認識ではない。】


実相の扉を感謝によって叩き続けよ

2018-01-09 11:04:55 | 日記
『神想観の神髄』には
こうも書かれている。
【神想観中に観ぜられる実在の世界は、「すべては一つの神の示現であり、従って「一切の生物処を得て争う者なき大調和の世界」である。すべてが一つの神の示現であり、肉体人間なる不完全者が工夫巧者によって、やっと築き上げた如き自力の世界ではないのである。それは他力の世界であり、絶対慈悲の世界であり、ただ恩寵によって完全にいかされている世界である。随って、人間的な“はからい”によって、「この善」「この幸福」を求めることは不要である。ただ神の恩寵を感謝によって「叩けば」よい世界である。まことにも「たたけよ、さらば開かれん」とはよく言われたものである。「先ず神の国と神の義(ただしき)とを求めよ、その余のものは汝に加えらるべし」とはよく言われたものである。」】
投稿者が“恩寵”という言葉を国語辞典で調べたら「神の恵み」と書いてあった。
「叩けよ、さらば与えられん」の叩くという意味を
私は間違って捉えていたことが判った。
感謝の心で実相の扉を叩きましょう、「実相はわれ、われ即ち実相」と念じつつ・・・・。

「幼な児」の心で実相の完全さを受け取ろう

2018-01-09 10:18:49 | 日記
「既にある実相の完全さ」を
素直な心で受け取ることが必要だ。
『神想観の神髄』(谷口雅春先生著)には
次のように記されている。
【神想観を行ずるものは先ず「幼な児の心」になることが必要である。神想観とは決して自力の思念ではないのである。それは「既にある実相の完全さ」を素直な心で受けることである。遮二無二自己暗示的に「神」の観念を注(ぎ)込むことではないのである。真に幼な児の心になって「神」と神のつくり給いし実相の完全さを完全に潜在意識の底まで受入れるとき、現象的にも曲れるは正しくなり、不調和は調和し来り、一切の人間処を得て、争う者なく、相い食む者なく、それぞれの個性に従って賦(あた)えられたる善きものが、互いに調和した相に於いて得られるということになるのである。この時、もはやその人は単に「自分のはからい」や不安や昏迷のなかに生きず、神の恩寵によって生かされていることになり、人事関係の調和、豊かなる供給、事業の発展、よきインスピレーション等相ついで来(きた)るのである。】