創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作と原島家-10

2015-09-29 06:56:20 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 原島昭 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------53--本文

二、ある聖教記者の発言
 一ヶ月にわたる総本山大石寺の大講堂落慶法要も終盤になった、昭和三十三年三月二十八日、私は『聖教新聞』の記者として、一年ほど後輩の小林宏君と理境坊の一室に待機していました。
 私は小林君に、「『価値論』には、真理は価値ではないと書いてありますが、あなたはどう思いますか」と尋ねてみました。すると、小林君は「それは定義の違いでしょう。価値を“人生にとって必要なもの”と定義すれば、真理も人生になくてはならぬものですから、価値といえるでしよう」と答えました。私は、なるほど、そのような見方もあるのか、と感心しました。
 小林君は、さらに続けて、「価値は見出すべきもので、創造できるものではありません」と言いました。
 これは、牧口氏の説とは逆行するもので、私は驚嘆の思いで、大学を卒業したばかりの目許涼やかな青年を見つめました。彼は数ヵ月後、自らがまかされたぺージに「若き群像」という囲み記事を連載し、その紙面は清新の気を漂わせて好評でした。
 当時の学歴が高校卒だった私は、「自分も大学に入って勉強し、小林君のようになりたい」と切実に思うようになりました。
 私は初め、小林君の言った「価値は創造できない」の意味がさつばり分かりませんでした。しかし、後に大学に人り、また日蓮大聖人の御書を勉強したことによって、『価値論』で最高価値とされる仏性は、衆生の生命に本来、具わっているもので、それは正境たる御本尊に相対する時にのみ顕現する、ということを知りました。
 ということは、仏性は、無から創造されるものではないのです。
 しかし、牧口会長も戸田二代会長も、「価値創造」に由来する「創価」の二文字を会名に付けて、良しとしていたのです。私は、何とも釈然としない思いでいっぱいになりました。

●石田元編集長“価値論”批判
 『聖教新聞』の初代編集長で、小平芳平氏と共に戸田氏の教学を支えた石田次男氏は、後年、次のように述べています。
「牧口氏が学会を創立するために会名を宗門に届け出た時、宗門側は『創価教育』の四文字に反対しました。その中心者は堀米泰栄尊師(後の第六十五世日淳上人)であり、仏法は本来・本有であって、価値創造とは関係ない、との御意向でありました。
 戸田理事長は当時から、『価値論』を法華経から見たら“九重の劣”と認識していましたが、当時それを表明できなかった弟子の苦悩を察するべきであります」(石田次男著『内外一致の妙法 この在るべからざるもの』)--と。
 石田氏は、牧口氏の『価値論』を「世迷い言」とまで言って批判しつつも、戸田氏についてはかばっています。しかし、戸田氏は、なぜ、このような有害な書を、ただちに廃棄するよう、表明できなかったのでしょうか。しかも、戸田氏は、自らの手でこの書を印刷・出版していたのですから、その責任は重大です。
 私が思いますのに、戸田氏には、敬虔な宗教家としての一面と、利潤を追求する事業家としての一面の、相反する二つの顔が共存していたのではないでしょうか。
 事業を維持・拡大するには、強固な組織が不可欠です。だから、自分たちの組織を危うくするような価値論批判を、あえて行なわなかったのだと思います。
 後年、戸田会長は次のように言いました。「創価学会の組織は戸田の命よりも大事だ」
 その大事な組織を、より強固にする条件は、組織の頂点に立つ人を神格化・絶対化することでした。しかし、所詮、欲界の衆生である俗人の一人を絶対化すれば、いつか必ず、どこかに無理や亀裂が生じ、それを覆い隠すためにさらに無理に無理を重ね、しまいには、醜い姿を露呈することになります。
  ----------------改頁------59-つづく--

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