<サイコパス・池田の“人脈・金脈・性脈”>
創価学会・公明党--スキャンダル・ウォッチング
これでもあなたは信じますか 内藤 国夫 (日新報道 1989/06)
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◆ 中西 治雄……ボスの恥部を知りすぎたために
池田が第三代会長に就任した昭和三十五年五月三日以来、少なくとも二十年近く池田の女房役であり続けた。いつ、いかなる時でも、池田の影のように寄り添い、「影の会長」「金庫番」「大蔵大臣」などの呼称を奉られた。初代の第一庶務室長でもある。組織内の肩書としては、学会総務と聖教新聞社主事の二つのみにとどまる。しかし、その実力と影響力は並みの副会長をはるかに上回った。
池田-中西の主従関係が築かれたのは、戸田二代会長の創設した「東京建設信用組合」や「大蔵商事」などの営業活動を通じ、互いに信頼しあうようになってからである。
池田一人のためだけではなく、池田家全体の世話役、執事か家老のように尽くした。金銭面の処理にとどまらず、女性問題の後始末から、池田の母親・イチが亡くなった時、葬儀の総責任者を務めるなど、諸事万端に渡った。
二人の関係をわかりやすく譬えれば、宮沢喜一前大蔵大臣と服部恒雄前秘書官との間柄とでもいおうか。ボスが安心して実印を預けておける仲である。側近幹部の誰が池田に背こうとも、最後まで異体同心として残る分身的存在と信じられていた。
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その中西が今は、半ば幽閉状態に置かれている。ラインから外され、聖教新聞社内の一室に何の仕事も与えられず、閉じ籠っているのである。そして学会内にあっては、例によって例の如く、「女性問題を起こして、中西がつまずいた」とのまことしやかな噂が流される。
実際には、“影”までが本体に嫌気をさして池田離れに踏みきったのだ。池田の金銭欲の強さと信仰心のなさに分身がついていけなくなった、と解説される。昭和五十四年十一月にも、一週間ほど雲隠れしたことがある。この時は、共産党筋と接触を図った。池田の恥部の総てを知り尽くす男だけに、池田としては絶対に敵に回せない。ラインから外すと同時に、“飼い殺し”にかかった。
日蓮正宗の総本山・大石寺の境内地で学会系列の売店の営業権を億単位で与えられ、その代償として口封じをされたともっぱらの噂である。これまでは池田邸の近くの識員宿舎に住んでいたが、ここも近く追い出される。そのため、江戸川区内に自宅を新築中である。
億単位の口封じ料で、生涯を通じて沈黙を守るか、それとも池田の汚れた実像を洗いざらいぶちまける挙に出るか。中西には娘が三人おり、学会組織にからめ取られているだけに、単独での造反は難しい。しかし、中西の行動次第では、池田体制崩壊の可能性があり、ここ暫くはその動静から目を離せない。
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「中西は私から逃げよう逃げようとして罰を受ける。頭が又はげて、顔がはれあがるよ」
池田が昭和四十三年九月十一日、学会本部近くの料亭「光亭」で開かれた第十六回社長会で当の中西を前にして語った中西評である。出版妨害以前の時で、池田の得意絶頂期。居並ぶ幹部を軒並みに貶めた際、ついでに“影の会長”までを冗談半分にからかったものである。「私から逃げる」発言の二十年後、まさに言葉通りの「逃げる」が現実のものとなった。
「仲間は遠のくばかり」そのものである。
◆ 田代 冨士男……砂利汚職で墓穴を掘る
ご存知、砂利船汚職で一躍有名になった、あの田代サン。
汚職が摘発される以前は「公明党の石部金吉」と仇名された。もう一つの別名が「関西の北条浩」。つまり、事務総長役の真面目一徹男。まさか汚職で私腹を肥やしているとは、想像もされなかった。
昭和四十年に参議院議員に選ばれて以来、大阪地方区から連続四期当選。党組織局長、党大阪府本部長、参院法務委員長などの要職を歴任。池田から信頼を寄せられ、本人もまた、池田の忠良な下僕を以って任じていた。
学会本部職員用の機関誌『前進』に寄せた田代論文「将軍学に学ぶ」は、学会が初めて本格的に取り組んだ大阪参院選挙での池田大作参謀室長の指導をナポレオンの指揮に譬え、選挙を通しての天下取りの心意気を説いたもの。選挙戦でのバイプルと高く評価された。学会と党の両組織を通じて、何のトラブルもなしに今日の地位を築きあげた。
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それだけに、汚職摘発は痛恨の極みであろう。使い捨て名人の池田から「仏法に照らして絶対に許されないこと」とあっさり突き放された。田代本人からすれば「自分は公明党議員の中でクリーンな方だ。摘発されたのは、砂利船組合の内紛にまきこまれたのが原因。運が悪かった」といいたいところである。
田代は、汚職で手に入れた七千万円の金をせっせと郵便貯金にして蓄えていたという。「なんて、はしたないことを」とマスコミからはボロクソにけなされた。しかし学会・公明党にあっては、精神的自由を得るためにどうしても経済的安定が欠かせない。まして老後のことを思えば、なおさらである。経済的安定収入がないため、心ならずも池田に奴隷的忠誠心で尽く
さなければならなかった諸先輩の屈辱感を知る田代は、金をためることで、老後の精神的自由を得たかったに違いない。「あの忠臣にして池田の呪縛から逃れたかったのか」と驚かされる。
せっせと蓄えた貯金の総てを没収される不運に同情したくなるではないか。
◆ 池田 克也……ゴマすリ男もリクルー卜で完全に挫折
“不運な田代サン”に続いて、公明党の汚染ぶりを世に示したのがリクルート株疑惑の池田克也代議士。弟の謙(党本部労働局職員・元秘書)名義でリクルート・コスモス株五千株を売買し、一千万円の売却益を得ていたことが判明、恥を天下にさらした。
バレる直前までは「天地神明に誓って株疑惑はない」と全否定していただけに、恥の上塗りとなった。田代と違って、議員の即辞任は迫られなかったものの、次の総選挙で東京三区から立候補が決まっていた党の公認を取り消された。
その三か月余、雲隠れしたままだったが、東京地検の捜査が進展。収賄容疑で事情聴取されるに至って、やむなく姿を現わし、離党、議員辞任に追いこまれた。
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池田は『潮』の編集長出身。一時は学会のマスコミ対策、文化人担当の第一人者として活躍した。大久保直彦(副委員長)、市川雄一(書記長)と並んで“三羽烏”と将来の飛躍を期待されたこともある。だが、国会議員に転出後はあまりパッとせず、五十五年のダブル選挙では落選の憂き目を味わった。党の役員としても副書記長どまり。ライバルに大きく水をあけられた。
「池田君は政治家向きではなかった」と、今になつて党首脳から酷評される始末である。
デッチあげ、盗作おかまいなしのエビソードに事欠かない。
公害問題が深刻化した四十五年、学会が関西で開いた学生部大会で、池田は「ラルフネーダーからのメッセージ」を読みあげさせた。これがなんと、全くのデツチあげ。世法(世間常識)よりも仏法を重視して、ウソを平気でつく幹部が多い学会・公明党内にあって、デツチあげ才能は一級品。
学会の機関誌『大白蓮華」に寄稿した池田克也論文が編集会議の席上、丸々の盗作とわかり、あわててボツにされるという不名誉体験もある。
名誉会長の池田大作と同姓ながら、別に姻戚関係にあるわけではない。ただし、大作へのゴマのすりようは大変なもの。おべっか人間に徹し、平伏せんばかりの態度をとる点では田代とともに双璧視された。
-----(29P)----つづく--
〈目次一覧は、本項第2回「H30/8/12」に登載〉
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