創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作と原島家-64

2015-11-25 07:44:48 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------300--本文

その9 会長独裁の悲劇的結末──孤立を招く批判拒否体質
一 、学会の変質を加速させた池田会長
●会長の営利事業の矛盾対処法
 石田次男氏が自らをかえりみて、会長職を継ぐだけの人格・能力・教学力などの不足を悩んでいたのに対して、池田参謀室長はそのような方面のことには全く無関心で、そのかわりに、創価学会の組織を市場(マーケット)と見て、その様々な活用を夢見て計画して
いたようです。
 戸田会長の死亡直後には、学会の外郭会社は大蔵商事と東洋精光(大蔵商事の質流れ品を学会員に売りつけた会社)のわずか2社でしたが、池田が会長になってから20年ほどの間に、民音・東洋哲学研究所・学校・書店・出版社・警備会社・レストラン・葬儀会社・
墓園経営など、池田が事実上の経営権を握る会社・法人などは30余りにのぼりました。
 しかし、戸田会長の時もそうでしたが、会員から、また外部の人から、「会長だけがどうして会員に投資をつのり、それを自分の事業に注ぎ込んで利益を上ける自由と権利かあるのか」という疑問が生じます。生前の戸田氏にとって、時々、会員同士の「共同事業」
が発覚するのも頭の痛い問題でもありました。
 戸田氏が自分のことを、御仏に選ばれた特別の存在である、としばしば強調したのは、右のような難問に対処する意味もあったからではないか、と思われます。「自分は獄中で悟りを開き、唯一人、広宣流布を達成せよとの仏命を受けた」「私は地涌の菩薩の棟梁で
ある」「末法における折伏の師匠である(私に付いて)功徳を受けよ」などの戸田会長の言葉が残っています。
 さらに、自分には病気を治すなどの特別な能力が備わっていることを、会員に示そうとしたフシもあります。
 次のような話は、「利根と通力に頼ってはいけない」との宗祖の御制戒に背くことにもなりかねませんので、本当は誰かが諫めなければならなかったのです。
 戸田会長の一周忌法要の追憶談で、本部婦人部長の石田つかさん(石田次男氏の母)はこう述べました。
「(戸田先生は)『あなたも弱くては大変ですね』と言われ、お数珠を持って、私の首から背中をさすってくださった。私は(中略)ただ恐縮しておりました」--と。
 また、『大白蓮華』の戸田会長の遺徳をしのぶ特集の中で、村田和加という蒲田支部の班長は、妹がそううつ病を患っていたので、戸田会長に相談しました。戸田氏の指導はこうでした。「この間、青山病院の患者を連れて来て、なんでもかんでもなおしてくれ、と
いうのでお数珠を両方のこめかみにあてて、お題目上げてなおしてやったこともある」(昭和三十三年六月号)--と。
 戸田会長が自らのカリスマ的能力を顕示した例証は他にもいろいろありますが、今回は右の二例にとどめておきましよう。

●「奴隸のように学会につかえよ」
 さらに自らの絶対性・無謬性を確立するために、戸田会長は組織の改革を行ない、会長を頂点とする厳格な上意下達の軍隊式組織を作り上げました。そして、「学会の組織は戸田の命よりも尊い」と言って、組織を絶対化しました。それまでの日本の組織は、幕末
の新撰組、明治時代になって編成された軍隊を除いて、一般に上意下達と下意上達が適度に織り込まれた家族型の組織でしたから、しかも宗教団体に軍隊式組織が持ち込まれるとは、大変革命的なことだったのです。
 その結果、学会の中でどういう変化が起きたか、といいますと、--
 ①会長の絶対性.無謬性が、会員たちに強く意識されるようになった。
 ②会員たちは主体性を失い、あたかもロボットか歯車のように、上からの命令に忠実に動けばよいことになつた。
 池田会長は社長会の席上、かような言葉を漏らしました。
『学会つ子は名前もいらない。金もいらない、身体もいらない。奴隸のように学会につかえよ」(第五十回社長会、昭和四十六年七月)と。つまり、学会員全員に、奴隸のように会長に奉仕することを求めているのです。
 ③大部分の会員(大幹部も含む)が向上心・独創性を失ってしまった。
 会長の命令どおりに一丸となって動く組織ですから、会長が間違った命令を出せば組織全体が間違つた方向に走りますし、会長がどうしてよいか解らずに命令を出さないでいると、組織は全く動かなくなります。あの昭和四十五年の言論・出版妨害事件の渦中にあっ
た池田は、思うように動かない組織にいらだって、「巨大な小児麻痺」の集団にたとえています。(第三十三回社長会。昭和四十五年三月)。
 ④(池田)に対して批判の許されない弟子にとって、採るべき道は三つありました。
 一つは、池田を盲信して、ひたすら命令に従う。
 一つは、表面は服従しているように見せかけて、心の中では背く (面従腹背)。
 もう一つは、追放されるのを覚悟で、師に対して諫言する。
 さんざん悩みぬいた末、弟(嵩)は第三の道を選び、昭和五十五年二月、池田に直接会って六時間にわたって諫めました。その内容は、本尊模刻問題をはじめ多岐にわたったそうですが、自宅に帰ってきた弟は上機嫌でした。待ち受けていた私に、「先生は僕の言う
ことをよく理解してくださった。本心から懺悔している、とまで言われた」と嬉しそうに語りました。
 私は、「これは危ないな」と思いました。池田が全く反発の色も見せずにもっぱら聞き役に回ったのは、できるだけ時間をかけて弟の本心を洗いざらい探り出す手段ではないか、と思ったからです(後に福島源太郎氏の諫言に対しても、池田は同じ手を使いました)。
 四、五日後に弟宅へ行くと、弟の様子は一変していました。朝から酒を?み続け、家族に当たり散らしていました。
       --------改頁--------304--つづく--

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