--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
(本文中の赤文字・下線=兼ブログ主編)
(創価学会)
池田大作をブッた斬る 藤原弘達(日新報道)1988年(=昭和63年)
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◆ 民主主義に対する犯罪者、否、存在自体が罪だ
公明党のような政党、その本質は公党の資格をもたぬ政党ともいえぬ存在も、選挙という手続を経た以上、大手をふって国会の門をくぐるのである。
池田大作の公明党私物化を批判して、代議士・大橋敏雄が党を除名になったが、私物化は今に始まったことではない。というより、公明党は最初から池田の私党として生まれている。
ヘンなことを思い出す。戦後、潰れかかったボロ映画会社の社長で活弁あがりの男がいた。
「明治天皇と日露戦争」なる紙芝居みたいな映画で大穴当てた。この男、皇后役で出る女優を囲っていたが、会社の商品である女優をメカケにしたと、従業員や世間から非難を浴びた時のこと。「女優をメカケにしたんじやない、メカケを女優にしたのだ」と、名セリフを吐いた。
池田の公明党私物化も、右のカツドー屋流でいくと、「公党を私物化(メカケ)にしたんじやない。私党(メカケ)を公党に仕立てただけだ」となろうか。
だが、メカケを女優にして名優にならぬとは限らないが、私党を公党に仕立て国会に送り込むとは、まさに陰謀的で犯罪的である。
議会制民主主義の名の下に、私党をもって私利を図る学会・公明党は、実は民主主義に対する犯罪者として登場してきたといわねばならない。地方選挙から国政レベルの選挙まで、議会制民主主義の下における民主主義の実践なのだ。学会・公明党が選挙のある度に引き起こす違反などというものは、先にみた創価学会“選挙読本”からすれば決して偶発的ではない。意図的な民主主義への挑戦なのである。
学会員は、「池田先生のためだ」と、選挙運動をやる。何ゆえの、「池田先生のため」であるのか。選挙になると、学会員を今でも滅私奉公に走らせるのは「広宣流布」の四文字だ。そして広宣流布の暁にこそ池田大作が日本に“君臨”するのだ、との信念が学会員をつき動かしてきたのは事実である。
これを宗教的迷蒙といっても、ひとたび、この迷蒙というアヘンを知り、広宣流布とよぶ覚醒剤をブチこまれると、トタンに奮起し「池田先生のため」となるのだ。
元学会員の一人が、「創価学会の罪は、宗教を求めてきた人間を政治に利用したことだ。のどがかわいて、冷たい水を飲めると思ったら塩水のまされた」といっていた。冷たい水をほしがった人間に塩水をあてがった学会は、既に政治団体と呼んでもおかしくはない。
金権政治などとは、いうも愚か。創価学会の選挙は資金を必要としない。運動資金と弁当は自分もちといった具合で、会員が動き金権選挙顔負けの効果を発揮するのだ。クルマ代、ガソリン代、戸別訪問用のミヤゲ代、親類縁者への包み金…総て学会員が自分の懐ろから出す。学会員個人が動いて票を集めるのはF票(フレンド・友人、知人)で、公明党支持者獲得だ。
昔は、学会員以外の票を「外米」といったと聞く。現在の「G」(外対=外部対策)とは違う。
つきあいの途絶えた姻戚関係まで訪ねて投票依頼をする。
「票を読む」といった。それどころか、日常生活で関わりのあるところ、総てF票の票田として掘り起こそうというのだ。カネのかからぬはずはない。
外部対策となると、組織的に企業、団体、労働組合などの票を集める戦略が、先の内部資料(“選挙マ二ュアル”)にでてくる。このようにして創価学会が選挙を戦う体制をもつのは、学会の変質であろうか。私は、創価学会が密教と顕教の使い分けをするのだとみる。
創価学会のいかがわしさが、公明党選挙運動組織として集約されているのである。故に、私はいっておく。
たとえ学会・公明党が一切選挙違反を起こさず、清潔な政党であるとみえても、日本の民主主義においては、公明党の存在自体が罪である。
罪でないというなら、その反証は、学会・公明党が自から明らかにするがよい。
選挙に関していうならば、創価学会の選挙は会員の投票の秘密を侵さぬ保障がないから、憲法の条項(第十五条)にも違反する。
創価学会・公明党が国政選挙をはじめ、総ての選挙に組織をあげて取り組む結果、それは宗教信心そのもの、学会員にとっては宗教行為ということになった。選挙活動により信心の度合が計られるのも当然である。この場合、信心の度合とは、池田名誉会長への忠誠度のことである。
今や、池田大作もまた、存在そのものが罪であるといわねばなるまい。
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