創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価公明党との決別-15

2016-06-19 09:03:05 | Weblog

  創価公明党との決別    --OB議員の赤裸々な体験集
     創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編(2012/11-人間の科学社)
       ------(97P、以下本文)-------
【14】転重軽受の御金言を体験     髙村萬之助(故人)
 ◆『創価学会を斬る』を扱うのなら『人間革命』は売らせない!
 昭和四十五年、藤原弘達氏の「創価学会を斬る」が発刊されましたが、周章狼狽した学会側は臆面もなく言論封殺に出ました。これがいわゆる「言論出版妨害問題」で、それまで順風満帆の躍進を遂げてきた学会が初めて直面した大きなターニング・ポイントであったと思います。
 当時、私は創価学会の本部職員でありましたが、同僚達と共に書店回りを命ぜられました。「『創価学会を斬る』を店頭から下げなさい。さもなければベストセラーの『人間革命』を置かせてやりませんぞ」という脅しにも似た高圧的要求を突き付ける役でありました。広宣流布のためとはいえ、そのような非常識極まる破廉恥な行為を強制できる入物は池田大作氏を措いて他には考えられません。
 その屈辱的命令に渋々従わざるを得なかつたその時の苦衷は、今も忘れることができません。いかに批判を許されない偶像崇拝的指導者とはいえ、私の心の中には消し去ることのできない嫌悪感が生じてくるのを抑えることができませんでした。カリスマ性の強い人物に一点でも疑いが芽生えると、あらゆる視点からの糾弾がはじまり、その権威が脆くも崩れることは少なくありません。
 ある日の全体会議の席上、故石田次男氏が大勢の本部職員の面前で池田大作氏から罵倒され、吊るし上げられた場面がありました。黙ってうつむいたまま耐えていた氏の姿が印象的でした。そうした一方、自らが窮地に陥ると見栄も外聞も捨てて「私を守れ」と繰り返し訴える大作氏の姿を改めて思い出す度に、彼の実像は畜生界、修羅界のそのものであり、極めて小心にして臆病な人物に過ぎないと思えてなりません。

◆阪神淡路大震災の発生--兵庫県下大量のニセ本尊を配布の翌日
 五十二年路線が表面化した頃、私は地元横須賀で本部長をしていました。その頃、学会を脱会したいと内々に私に打診してきた中堅幹部もおりましたが、当時の私には脱会の意志は全くありませんでした。アウトサイダーとして学会批判するよりは、インサイダーの立場として預かっている組織を発展させたい。もちろん学会側にも過ちはあるだろうが、「学会なくして広宣流布は成就できない」との妄信を抱き続けていたのです。
 同五十四年、池田大作氏が会長及び法華講総講頭辞任を余儀なくされた時も、心の片隅には不信感は芽生えましたが、それでも広宣流布のお役に立つには学会幹部として折伏を推進するしかないと自らに言い聞かせて頑張ったものです。その結果、本部長在任中の四年間は、鎌倉・逗子を含む三浦半島一帯で連続首位の成果を上げたのでした。
 その後、全く予期しない事態が生まれました。神奈川県会議員に推され、それまで一六年間勤務した本部職員を辞すことになりました。 同五十八年、県議選に勝利して初当選。
 以来、三期一二年にわたる議員生活が続きました。振り返るとその間、学会の謗法行為は激しさを増し、連動するように世の中に様々な現証が競い起りました。総本山開創七百年の平成二年、池田大作氏のあの不遜極まる宗門批判スピーチ。その翌日には雲仙普賢岳が大噴火し、次々と天変地変や異常気象が続発したのでした。
 そして同七年、学会は「関西勝利の年・兵庫の時代」を宣言して、一月十五,十六日の両日、兵庫県下の各会館で大量のニセ本尊を配布したのです。そして、翌日の阪神淡路大震災の発生。私には、仏法の厳しい因縁因果の相としか思えません。それは正しく「世間の安穏を祈らん而も国に三災七難起らば悪法流布する故なりと知るべし」(守護国家論) の御金言通りでした。

◆謗法と社会の諸現象が一致!--因果の現実と仏法の偉大さに驚嘆
 奇しくもその年は、神奈川県会議員を定年退職する年にあたりました。私はそれを契機に学会を脱会しょうと密かに決意を固めつつありましたが、一方で広宣流布実現のために果たしてきた学会の役割と実績は偉大なもので、一方的に否定さるべきものではないとの思いもあり、脱会への最終判断を下せぬまま逡巡し悩み苦しみの日々を送つていました。
 そんな時、ある御書の一節が私の目に飛び込んできました。
 それは「法華経の大海の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし、但し師なりとも誤ある者をば捨てざる義も有るべし、世間・仏法の道理によるべきなり」との御金言を拝するに及んで、私の迷いは消え去って脱会の覚悟を決めることができたのでした。
 そこで脱会後、学会側からのいかなる非難中傷に対しても整然と対処するために、御書を通しての『世間・仏法の道理』の検証をすると共に、私自身の至誠の信心に臆するところがないかを厳しく問い質すことにしました。
 そして「阪神淡路大震災の惹起せるを聞き、仏説に依り之を観ず」と銘打って少々研究を致しました。同時に、四十五年頃からの政治、経済、社会ね自然現象、疾病などの出来事を、学会及び公明党の動向に照らし合わせながら、年次順に併記しながら検証した結果、学会の数々の謗法と天変地異や社会の諸現象が見事に符節を合わせたように一致することを確認し、厳しい因果の現実と透徹した仏法の偉大さに驚嘆したものでした。

◆「命限り有り、惜しむ可からず。遂に願うべきは仏国也」--ガン宣告
 かくして同九年十月、私は正式に学会を脱会し翌十年四月に地元横須賀の法照寺に所属致しました。もとより名聞名利に捉われない一兵卒の信心に徹して一からやり直す決意を固め、何よりも折伏を実践していささかでも猊下様の御指南にお応えしたいと心がけました。入講以来は、毎月欠かさず添書登山を行い、毎年のように一~二世帯の折伏成果を挙げることができました。その結果、私の小さな会社は順調に業績を上げ、家族も恵まれた生活を送らせていただいたのです。
 同十七年正月、妻と共に登山し戒壇の大御本尊様に現状をご報告申し上げました。ところが下山の途中、突然腰部に激痛を覚え歩行困難に陥ってしまったのです。やっとの思いで自宅に帰りつき、翌朝開業医の甥に診察してもらって仰天しました。何と前立腺癌に初期の糖尿病を併発しているというのです。当時七三歳でしたが、健康には自信を持っていただけに耳を疑いました。兎にも角にも、甥の紹介で市内一の大病院の泌尿器科に即刻入院となったのです。
 病に竦く医学にも無智な私は癌と聞き、もはや死は免れないと密かに覚悟せざるを得ませんでした。御書には「命限り有り、惜しむ可からず。遂に願うべきは仏国也」(富木入道殿御返事)と仰せです。それは、正法流布のために命を捧げよとのご遺命に他なりません。私は俎板の上の鯉よろしく神妙に医者の治療に身を委ねながら、広宣流布のために満足な働きができないことが残念で情けなく、ベッドに横たわりながら「どんなことがあっても悔いを千載に残すことなかれ」と自らに言い聞かせ、詮ずるところ御本尊様にこの身をお任せ申し上げる以外にないと思い定めたのであります。

◆一難去ってまた一難--石段で足を滑らせて転倒、腰を強打
 今でも思い出す度に不思議に思うのは、死への恐怖心にさほど捉われることもなく、澄んだ心境になれたことでありました。病室では思うような勤行ができませんでしたが、それでも形式的ではなく真剣で余念のない唱題がいかに凄いものかを身を持つて体験させていただきました。この時ほど信心の有り難さを心の底から感じたことはありません。このような状況の中、洽療結果は思っていたより順調に推移し、何と僅かニニ日でPSA値が大幅に低下し、主治医もその回復に驚嘆しておりました。私は諸天の加護を確信し、闘志が湧くのを覚えました。その三日後、毎月一回の外来診察(採血・注射)を条件に特別退院の許可を出してもらつたのでした。
 退院後、早速妻と共に登山し戒壇の大御本尊様に経過を報告して心からの御礼を申し上げました。その後、毎月欠かさず添書で登山させていただきましたが、退院半年後に今度は糖尿による感染症状が現われ、右足首に異変を生じました。そして再び、同じ病院の皮膚科に入院することになりましたが、そこは僅か一三日で退院できたのでした。
 そんな状況下、しきりに思い出すのは学会本部幹部の弟夫婦のことです。私自身が折伏して入信させただけに強い責任を感じていました。脱会した一〇年前から再折伏を始めていましたが、頑固一徹に拒み続けられ、ほとほと手を焼いておりました。私は今、折伏をしなくては今生で彼らを救うことができないと覚悟し、懸命に祈り行動に移しました。その結果、弟一人だけでしたが、ようやく納得させて勧誡を受けさせることができたのです。
 その後、体力的には厳しい状態でしたが、同十八年二月の上級教学試験を受験し、何とか合格させていただきました。同十九年には幾分体調も回復しました。毎月の添書登山に参加し、折伏も鎌倉在住の義兄夫婦を折伏して猊下様のご指南にお応えすることができたのでした。ところが七六歳となった同二十年春、石段で足を滑らせて転倒し、腰を強打してしまいました。もう一人の甥の整形外科医に診てもらったところ、背推間狭窄症と診断され、今度は有無も言わさず再々度の大病院送りとなり、全身麻酔をかけられての大手術となったのでした。

◆単独歩行は困難ながら、学会壮年部の中堅幹部折伏
 術後の経過は順調に推移して一か月弱の入院ですみ、その後約三か月間は自宅で常にコルセットを着用してのリハビリ生活を送りました。それもつかの間、さらに病魔が襲いかかってきました。前立腺癌の鎮静剤の服用や度重なる注射によって骨の脆弱化が進み、挿入してあったチタン合金の一部が背中に突起してしまったのです。主治医より再手術止むなしとの判断が下りました。そして十月二日に四度目の入院。今度は、九時間に及ぶ滅多にない大手術となりました。これも正しい信仰のお陰で克服し、僅か二三日で退院に漕ぎつけ、その後の経過は順調に推移したのでした。
 しかし依然、遠方への単独歩行は困難で、気は逸るものの外出しての折伏活動はできませんでした。その年の年末を控え、御命題成就の御祈念をしながらも達成できないでいる我が身を振り返り、御法主上人猊下に対して申し訳なさでいっばいでありました。そんな中、年の瀬も迫った十二月九日午前、学会壮年部の中堅幹部Y氏から突然電話がかかってきて、御宗門や法華講について聞きたいというのです。しかも「これからお邪魔してよいか」という話です。
 折伏は来宅したY氏の質問に答える形で進めました。彼は五〇歳そこそこの一流住宅会社の中堅社員です。私の話にすっかり納得した様子でしたので、その日は「よく考え、決心がついたら連絡してください」と言って帰ってもらいました。すると翌週、細君ともども勧誡を受ける決断をされ、真の御本尊様をいただいて法華講員となったのです。こうして支部の最終成果である二六世帯目の折伏が成就できたのであります。
 それにしても四年間で四回にわたる入院と辛く苦しい手術という宿命は何故でありましようか。御金言の中の「先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値い候へば、地獄の苦しみぱっときへて、死に候へば人・天・三乗の益をうる事の候。」(軽受軽受法門)の一節が身に沁みる今日この頃であり、御本尊様に巡り合えた福運をしみじみと感じた次第であります。

◆権力中枢の大謗法駆逐は日本の将来にとっての曙光--公明、都議選惨敗!
 同二十一年一月、私は喜寿を迎えました。娘夫婦に助けられながら家族七人で登山することもできました。一年ぶりに見た総本山は見違えるように立派に荘厳されていて、ひとしお嬉しく感じました。わが国にはいまだ邪義がはびこり、北朝鮮によるテポドン発射という他国侵逼の難も起りました。しかし、大聖人様は「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる。すでに大謗法国にあり、大正法必ずひろまるべし。各々なにをかなげさせ袷ふべき」(大悪大善御書)と仰せであります。
 御法主上人猊下は宗門全僧俗に四月一日より七月九日まで、一〇〇日間一人一日二時間唱題行の御命題を下されました。満了の日を過ぎて間もなく東京都議会議員選挙が行われましたが、その開票結果を見て私は密かに次の衆議院選挙における自公の惨敗を予感致しました。 前回よりも得票総数が大幅に増えて全政党が得票を伸ばした中で、この選挙を最も重視した公明党のみが約四万三〇〇〇票も減らしたからです。そして迎えた総本山における世紀の大結集総会では、予想を上回る約七万五〇〇〇名の僧俗が馳せ参じて大勝利を収めました。
 御法主上人猊下の尊くも並々ならぬ御一念によつて法界が大きく動き始めました。そして遂に今度の衆議院議員選挙で自公政権が大崩れを来たし、公明党の代表・幹事長をはじめトップが続々と落選したのです。今迄、権力の中枢に侵入した大謗法の巨魁が駆逐さ滂去払いができたのは日本の将来にとつて何よりもの曙光であります。
 今こそ、佳節の年の実践テーマに掲げられた目標を悉く達成すべく、勇猛精進する決意であります。
         (元神奈川県会議員/法照寺信徒/横須賀市上町在住)

【追悼・高村萬之助さん】
 髙村萬之助さんは、平成二十四年八月十一日、病により八0歳で逝去されました。葬儀・告別式は地元横須賀の「お竜会館」で執り行われ、所属寺院の法照寺支部信徒と共に、有縁の元公明党議員の法華講員らも参列いたしました。
 ご戒名は「萬嶢院法涌信士(まんぎよういんほうゆうしんし」です。ここにご冥福をお祈り申し上げます。
 高村萬之助さんは、公明党神奈川県議会議員を三期一二年務めましたが、その前には学会本部職員に一六年間在籍していました。学会の理事と共に聖教新聞業務部長や初期の海外局長などの要職を兼務する人材でした。
 本部職員時代、毎月開催される「全体会議」「理事会会議」「参諜会議」という重要会議に出席し、何年にも亘り、詳細な「高村メモ」を遺しています。この「髙村メモ」は、黒い手帖で話題になった矢野枸也元公明党委員長の「矢野メモ」と同じように、当時の池田大作氏や最高幹部たちが、言論問題、共産党対策等々の対応に際して、緊迫した息遣いが聞こえてくるようなリアリティ溢れるメモであったのです。今後、貴重な資料としての価値が高まり、多方面から検証されていくことでありましょう。
 この記念文集の発刊を待ち望んでおられた髙村さんに、こころより完成のご報告をさせていただきます。
       ---------(107P)-------つづく--

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