今日(4月15日)は「梅若忌」
謡曲や浄瑠璃の『隅田川』の題材となっている、吉田少将惟房の子・梅若丸が976(天延4)年に12歳で亡くなった日。
その主人公「梅若丸」を供養した「梅若塚」は、今、東京・墨田区堤通の木母寺(もくぼじ)にあり、木母寺は中世の「梅若伝説」ゆかりの寺で開基は古く、天台宗東叡山に属する寺で、貞元年間(976~78)の草創とされている。梅若塚(梅若山王権現堂)の由来については、同寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」で伝えられている。
梅若丸の死んだとされる3月15日は毎年「梅若忌」とされ、江戸時代には大念仏が行なわれていたらしいが、この日はよく雨が降り、その雨は「梅若の涙雨」だと言われていたそうだ。
小林一茶も「雉子鳴かかの梅若の涙雨」の句を詠んでいる。今日では、月遅れの新暦4月15日に「梅若忌」が催され謡曲「隅田川」が奉納されているそうだ。
謡曲「隅田川」作者は、世阿弥の長男・観世元雅(かんぜ・もとまさ)。
元雅の謡曲では、”隅田川の川岸で大念仏が行われるので、渡し守が乗船の客人を待っていると、ひとりの狂女が来て乗船を頼む。渡し守は女に対して、「狂って見せたら、乗せてやろう」と言うのに対し、狂女は、最初はたしなめていたが、ついに発作的に狂ってしまう。渡し守はそれに憐れを感じて乗船させてやる。対岸へと漕ぎ出し、その途中で、渡し守から今日の大念仏の仔細を聞き、回向を受けるその子供が我が子であることを知り船中に泣き伏す狂女に、渡守は船を岸に着けた後、この母を墓所に伴って回向を勧める。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。母も気を取り直して大念仏を唱えていると、そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。尚も念仏を唱えると、子方(梅若丸の亡霊)が一瞬姿を見せる。だが夜が明けるとともに消え失せ、母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった。・・・謡曲「隅田川」は、狂女物といわれるものであるが、その中でも、この曲の女主人公は永久に子供にめぐり逢えない運命のもとに置かれた、救いのない悲しい物語である。その演出をめぐっては、父の世阿弥との間に論争のあったことが、「申楽談儀(さるがくだんぎ)」という家伝の書に記録されているそうだ。それは、最後の見せ場、梅若丸の幽霊が墓の陰から姿を現し、母親と言葉を交わすところで、世阿弥は、この子(梅若丸)は現実にいる子ではなく亡者であるから、幽霊役の子どもは出さない方がおもしろいといい、元雅は出した方がいいと反論。結局、「まあやってみて、いい方を採用すればよい」と父親が折れた形で決着したそうだ。以後、幽霊役の子どもが出演し続けているが、流派などにより、子どもが出演しないものもある。
昔は「気が狂う・狂気」ということを人々は「物が憑いた」とも言っていたようである。世阿弥はこの物狂いというのを二つの種類に分けて説明しており、ひとつは神仏・生霊・あるいは死霊などが取り憑いた物狂いで、これはその乗り移ったものの正体を把握して演技すれば役作りが出来る。もうひとつは、親に別れたり・子供と別れたり・夫に捨てられたり・妻に死なれたりして狂乱する物狂いで、この役作りは容易ではなく、こういう物狂いの場合は、相手のことを一途に思うという戯曲の主題を役作りの根本に置くべきであると言っているそうだ。死んだ人間が幽霊として出てくるのが夢幻能であるが、この物語では、母親の幻影に出てくる幽霊なので、同じ亡霊と言っても夢幻能の延長線上の亡霊ではない。 だから、子方を出さない演出では、子の存在を母親の狂乱状態のなかでの幻影としなければならないのでそれは確かに難しいだろうね。
謡曲「隅田川」で、母親は千里の道のりを歩み。ようやく隅田川のほとりに着く。「ここぞ名に負う隅田川、渡りに早く着きにけり、渡に早く着きにけり」
中世の時代、隅田川というのは「東の果て」と同義語であった。この時代、能をつくり、見た人は主に都の人である。彼らから見れば箱根八里を超えればなにがあるかわからない異郷の地である。その更に東の果てに隅田川があり、都より東の国にいたる終着地。つまり、隅田川は、異界との「境界」を形成する場所としての悲劇性が哀愁を高揚させる。
又、船上での渡し守と狂女の問答のカケ合いの中から、尋ねる我が子が今はこの世に亡く、東の果ての道のほとりのこの塚の下に永遠に眠っていると知った母の悲しみは、クライマックスに達し、絶望の淵へと誘う「現世と来世の境界」の中に身をかされることとなる。そして、尋ねる子は既に土の下となり「南無阿弥陀仏」の声の中を、塚と対面する。そして、塚の上に我が子の声を聞き、面影を見るのである。しかし、それも束の間、闇から光りへの「境界」によって、面影は消え去り、狂女は茫然自失の中に肩をおとし、佇むしかなかった。
隅田川のテーマーは悲しみと哀傷そして命である、元雅はこのテーマーに沿って、観るものに深く感銘を与え、人々の不安や悲しみの浄化を目指す力として「空間的な境界」「現世と来世の境界」「夜と朝の境界」の3つの境界を導入しているといわれる。
隅田川は、江戸時代より前は、利根川の下流の名前だった。現在の利根川は、関東平野を西から東に流れて、銚子で直接太平洋(鹿島灘)に流れ出ているが、徳川家康が江戸にやってきた頃の利根川は途中から南に流れ、現在の隅田川のルートを通って東京湾に注いでいた。 家康の江戸入府から六十年以上かけて、いわゆる「利根川東遷」の大工事を行い、四代将軍家綱の時代になってようやく現在のような利根川・荒川・隅田川の形が完成した。隅田川には、江戸時代には二十ヶ所近い渡し船があったと言われる。
そのうち、橋場の渡しが謡曲「隅田川」の舞台となったところという。橋場の渡しは、現在の白鬚橋の南側にあたる。大正初年に地元の人が「白鬚橋株式会社」を設立して木橋を架け、橋場の渡しは消滅したそうだ。
雅作の謡曲「隅田川」では狂女の姿になって登場する斑女の前は渡しの舟に乗って隅田川東岸に着いてそこで梅若丸の死を知るという筋になっている。つまり、梅若塚(梅若の死んだ場所)が東岸にある。(梅若塚のある木母寺は昭和43年に隅田区堤通りに移転しているが、もとの梅若塚のあった場所には石碑が建っている。)
しかし、梅若は重病で川を渡るどころではなくて、商人は無慈悲にも梅若を隅田川の西岸の橋場の辺り・昔の浅茅が原あたりに打ち捨てて、梅若はそこ(西岸)で死んだらしいと思われる。梅若が隅田川西岸で死んだらしいことは妙亀塚が西岸に現存していることでも推測できる。妙亀塚は、妙亀尼をまつる塚である。妙亀尼の伝説は向島の木母寺にある梅若塚と対をなす話で、人買いにさらわれた我が子梅若丸が向こう岸の塚に葬られているのを知らされ、我が子の成仏を願い塚の傍らに庵を作って念仏三昧の生活を続ける。だが、かわいい我が子が忘れられず、ついに発狂して浅茅ヶ原の鏡ヶ池に身を投じてしまうという哀れな物語である。鏡ヶ池の傍らに妙亀尼の墓が作られ、それが今の妙亀塚だという話である。(台東区妙亀塚公園、鏡が池は埋め立てられて現存しない。)梅若が東岸で死んだのならば斑女の前が庵を作るのに対岸にわざわざ住むわけはないし、妙亀塚も対岸に建てられることはなかっただろう。妙亀塚は息子の塚の傍にあるのが自然であろうが、どうして梅若塚が隅田川西岸ではなくて東岸にあるのか?・・・・よく分からない謎だそうだ。
真相は不明であるが、謡曲「隅田川」の影響か何かで・梅若塚は隅田川東岸にわざわざ移されたのではないかと推測しているものもいる。確かに、我が子の姿を求めて狂女の姿でさまよい歩く斑女の前がやっとの思いでたどり着いたのが東国の果てとも言うべき隅田川の渡しであったことを考えると、前に述べた「境界」のことからも、梅若塚は「他界」である隅田川東岸にあった方が、この曲の悲劇性は高まるよね~。
(画像は、歌川広重作「江戸高名会亭尽 木母寺雪見」手刷り復刻木版 、版元:悠々洞出版。木母寺の裏に隅田川から流れが入り込んでいる、内川の様子が描かれている。)
参考:
隅田川 (能) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%85%E7%94%B0%E5%B7%9D_(%E8%83%BD)
世阿弥 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E9%98%BF%E5%BC%A5
観世元雅 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E4%B8%96%E5%85%83%E9%9B%85
梅若丸の悲話と木母寺
http://umebachiya.com/edokaiwai/umewaka/umewaka.htm
[PDF] 能『隅田川』についての研究 ―境界としての隅田川と関連して―
http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~ISHCC/bulletin/02/204.pdf
人間、うれいの花ざかり/観世元雅「隅田川」 asahi.com
http://be.asahi.com/20040515/W21/0001.html
天台宗 梅龍山 木母寺(もと梅若寺)
http://kkubota.cool.ne.jp/mokuboji.htm
曹洞宗 妙亀山 総泉寺
http://kkubota.cool.ne.jp/sousenji.htm
能楽感想文・・・「隅田川」 もし子方がいなければ (1)
http://ansam.at.webry.info/200510/article_16.html
能楽感想文・・・「隅田川」もし子方がいなければ (2)
http://ansam.at.webry.info/200510/article_17.html
関東地震墨田区6
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/kantoujisin_isibumi/tokyo_sumida/mokuboji/kantousumida6.htm
歌舞伎素人講釈
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/index.htm
母性喪失の「隅田川」 「隅田川」の精神 生と死の境
謡曲や浄瑠璃の『隅田川』の題材となっている、吉田少将惟房の子・梅若丸が976(天延4)年に12歳で亡くなった日。
その主人公「梅若丸」を供養した「梅若塚」は、今、東京・墨田区堤通の木母寺(もくぼじ)にあり、木母寺は中世の「梅若伝説」ゆかりの寺で開基は古く、天台宗東叡山に属する寺で、貞元年間(976~78)の草創とされている。梅若塚(梅若山王権現堂)の由来については、同寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」で伝えられている。
梅若丸の死んだとされる3月15日は毎年「梅若忌」とされ、江戸時代には大念仏が行なわれていたらしいが、この日はよく雨が降り、その雨は「梅若の涙雨」だと言われていたそうだ。
小林一茶も「雉子鳴かかの梅若の涙雨」の句を詠んでいる。今日では、月遅れの新暦4月15日に「梅若忌」が催され謡曲「隅田川」が奉納されているそうだ。
謡曲「隅田川」作者は、世阿弥の長男・観世元雅(かんぜ・もとまさ)。
元雅の謡曲では、”隅田川の川岸で大念仏が行われるので、渡し守が乗船の客人を待っていると、ひとりの狂女が来て乗船を頼む。渡し守は女に対して、「狂って見せたら、乗せてやろう」と言うのに対し、狂女は、最初はたしなめていたが、ついに発作的に狂ってしまう。渡し守はそれに憐れを感じて乗船させてやる。対岸へと漕ぎ出し、その途中で、渡し守から今日の大念仏の仔細を聞き、回向を受けるその子供が我が子であることを知り船中に泣き伏す狂女に、渡守は船を岸に着けた後、この母を墓所に伴って回向を勧める。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。母も気を取り直して大念仏を唱えていると、そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。尚も念仏を唱えると、子方(梅若丸の亡霊)が一瞬姿を見せる。だが夜が明けるとともに消え失せ、母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった。・・・謡曲「隅田川」は、狂女物といわれるものであるが、その中でも、この曲の女主人公は永久に子供にめぐり逢えない運命のもとに置かれた、救いのない悲しい物語である。その演出をめぐっては、父の世阿弥との間に論争のあったことが、「申楽談儀(さるがくだんぎ)」という家伝の書に記録されているそうだ。それは、最後の見せ場、梅若丸の幽霊が墓の陰から姿を現し、母親と言葉を交わすところで、世阿弥は、この子(梅若丸)は現実にいる子ではなく亡者であるから、幽霊役の子どもは出さない方がおもしろいといい、元雅は出した方がいいと反論。結局、「まあやってみて、いい方を採用すればよい」と父親が折れた形で決着したそうだ。以後、幽霊役の子どもが出演し続けているが、流派などにより、子どもが出演しないものもある。
昔は「気が狂う・狂気」ということを人々は「物が憑いた」とも言っていたようである。世阿弥はこの物狂いというのを二つの種類に分けて説明しており、ひとつは神仏・生霊・あるいは死霊などが取り憑いた物狂いで、これはその乗り移ったものの正体を把握して演技すれば役作りが出来る。もうひとつは、親に別れたり・子供と別れたり・夫に捨てられたり・妻に死なれたりして狂乱する物狂いで、この役作りは容易ではなく、こういう物狂いの場合は、相手のことを一途に思うという戯曲の主題を役作りの根本に置くべきであると言っているそうだ。死んだ人間が幽霊として出てくるのが夢幻能であるが、この物語では、母親の幻影に出てくる幽霊なので、同じ亡霊と言っても夢幻能の延長線上の亡霊ではない。 だから、子方を出さない演出では、子の存在を母親の狂乱状態のなかでの幻影としなければならないのでそれは確かに難しいだろうね。
謡曲「隅田川」で、母親は千里の道のりを歩み。ようやく隅田川のほとりに着く。「ここぞ名に負う隅田川、渡りに早く着きにけり、渡に早く着きにけり」
中世の時代、隅田川というのは「東の果て」と同義語であった。この時代、能をつくり、見た人は主に都の人である。彼らから見れば箱根八里を超えればなにがあるかわからない異郷の地である。その更に東の果てに隅田川があり、都より東の国にいたる終着地。つまり、隅田川は、異界との「境界」を形成する場所としての悲劇性が哀愁を高揚させる。
又、船上での渡し守と狂女の問答のカケ合いの中から、尋ねる我が子が今はこの世に亡く、東の果ての道のほとりのこの塚の下に永遠に眠っていると知った母の悲しみは、クライマックスに達し、絶望の淵へと誘う「現世と来世の境界」の中に身をかされることとなる。そして、尋ねる子は既に土の下となり「南無阿弥陀仏」の声の中を、塚と対面する。そして、塚の上に我が子の声を聞き、面影を見るのである。しかし、それも束の間、闇から光りへの「境界」によって、面影は消え去り、狂女は茫然自失の中に肩をおとし、佇むしかなかった。
隅田川のテーマーは悲しみと哀傷そして命である、元雅はこのテーマーに沿って、観るものに深く感銘を与え、人々の不安や悲しみの浄化を目指す力として「空間的な境界」「現世と来世の境界」「夜と朝の境界」の3つの境界を導入しているといわれる。
隅田川は、江戸時代より前は、利根川の下流の名前だった。現在の利根川は、関東平野を西から東に流れて、銚子で直接太平洋(鹿島灘)に流れ出ているが、徳川家康が江戸にやってきた頃の利根川は途中から南に流れ、現在の隅田川のルートを通って東京湾に注いでいた。 家康の江戸入府から六十年以上かけて、いわゆる「利根川東遷」の大工事を行い、四代将軍家綱の時代になってようやく現在のような利根川・荒川・隅田川の形が完成した。隅田川には、江戸時代には二十ヶ所近い渡し船があったと言われる。
そのうち、橋場の渡しが謡曲「隅田川」の舞台となったところという。橋場の渡しは、現在の白鬚橋の南側にあたる。大正初年に地元の人が「白鬚橋株式会社」を設立して木橋を架け、橋場の渡しは消滅したそうだ。
雅作の謡曲「隅田川」では狂女の姿になって登場する斑女の前は渡しの舟に乗って隅田川東岸に着いてそこで梅若丸の死を知るという筋になっている。つまり、梅若塚(梅若の死んだ場所)が東岸にある。(梅若塚のある木母寺は昭和43年に隅田区堤通りに移転しているが、もとの梅若塚のあった場所には石碑が建っている。)
しかし、梅若は重病で川を渡るどころではなくて、商人は無慈悲にも梅若を隅田川の西岸の橋場の辺り・昔の浅茅が原あたりに打ち捨てて、梅若はそこ(西岸)で死んだらしいと思われる。梅若が隅田川西岸で死んだらしいことは妙亀塚が西岸に現存していることでも推測できる。妙亀塚は、妙亀尼をまつる塚である。妙亀尼の伝説は向島の木母寺にある梅若塚と対をなす話で、人買いにさらわれた我が子梅若丸が向こう岸の塚に葬られているのを知らされ、我が子の成仏を願い塚の傍らに庵を作って念仏三昧の生活を続ける。だが、かわいい我が子が忘れられず、ついに発狂して浅茅ヶ原の鏡ヶ池に身を投じてしまうという哀れな物語である。鏡ヶ池の傍らに妙亀尼の墓が作られ、それが今の妙亀塚だという話である。(台東区妙亀塚公園、鏡が池は埋め立てられて現存しない。)梅若が東岸で死んだのならば斑女の前が庵を作るのに対岸にわざわざ住むわけはないし、妙亀塚も対岸に建てられることはなかっただろう。妙亀塚は息子の塚の傍にあるのが自然であろうが、どうして梅若塚が隅田川西岸ではなくて東岸にあるのか?・・・・よく分からない謎だそうだ。
真相は不明であるが、謡曲「隅田川」の影響か何かで・梅若塚は隅田川東岸にわざわざ移されたのではないかと推測しているものもいる。確かに、我が子の姿を求めて狂女の姿でさまよい歩く斑女の前がやっとの思いでたどり着いたのが東国の果てとも言うべき隅田川の渡しであったことを考えると、前に述べた「境界」のことからも、梅若塚は「他界」である隅田川東岸にあった方が、この曲の悲劇性は高まるよね~。
(画像は、歌川広重作「江戸高名会亭尽 木母寺雪見」手刷り復刻木版 、版元:悠々洞出版。木母寺の裏に隅田川から流れが入り込んでいる、内川の様子が描かれている。)
参考:
隅田川 (能) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%85%E7%94%B0%E5%B7%9D_(%E8%83%BD)
世阿弥 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E9%98%BF%E5%BC%A5
観世元雅 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E4%B8%96%E5%85%83%E9%9B%85
梅若丸の悲話と木母寺
http://umebachiya.com/edokaiwai/umewaka/umewaka.htm
[PDF] 能『隅田川』についての研究 ―境界としての隅田川と関連して―
http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~ISHCC/bulletin/02/204.pdf
人間、うれいの花ざかり/観世元雅「隅田川」 asahi.com
http://be.asahi.com/20040515/W21/0001.html
天台宗 梅龍山 木母寺(もと梅若寺)
http://kkubota.cool.ne.jp/mokuboji.htm
曹洞宗 妙亀山 総泉寺
http://kkubota.cool.ne.jp/sousenji.htm
能楽感想文・・・「隅田川」 もし子方がいなければ (1)
http://ansam.at.webry.info/200510/article_16.html
能楽感想文・・・「隅田川」もし子方がいなければ (2)
http://ansam.at.webry.info/200510/article_17.html
関東地震墨田区6
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/kantoujisin_isibumi/tokyo_sumida/mokuboji/kantousumida6.htm
歌舞伎素人講釈
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/index.htm
母性喪失の「隅田川」 「隅田川」の精神 生と死の境