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大仏の日

2006-04-09 | 歴史
今日(4月9日)は「大仏の日」
752(天平勝宝4)年4月9日、奈良・東大寺の大仏開眼供養が行われた。
「奈良の大仏さん」で親しまれている日本最大の大仏の正式名称は「盧遮那仏(るしゃなぶつ)坐像」、全国の総国分寺でもある華厳宗大本山・東大寺の本尊である。又、大仏殿の正式名称は「東大寺金堂」である。
東大寺は733(天平5)年、良弁僧正(ろうべんそうじょう、689-773)が建立した羂索院(金鐘寺=こんしゅじ)が始まり。
721(養老5)年5月、前年の藤原不比等についで、頼りにしていた母元明太上天皇が病床についたとき、元正天皇は「心肝が裂けるくらいの悲嘆にくれた。皇后、あるいはそれに順ずる経歴を持たない、元正女帝が即位した理由は何よりも文武天皇の嫡子首(おびと)皇子に皇位を間違いなく継承させるためであった。そして、727(神亀元)年2月に、24歳になった皇太子に念願の皇位を譲り、聖武天皇の時代が始まった。それに光明皇后が加わった治世はおよそ半世紀に及び、このときが天平時代である。
しかし、聖武天皇の夫人光明子との間に誕生した皇太子基親王は728(神亀5)年、僅か2歳足らず夭死した。この年、金光明経を諸国に頒布した。長屋王の変のあった、729(天平1)年、聖武天皇は、夫人光明子を皇后とする。藤原氏は光明夫人を皇后に立てることによって、父不比等時代の栄光を求めようと画ったのである。
733(天平5)年、金鐘寺建立。しかし、735(天平7)年8月から737(天平9)年にかけて、大宰府から流行した天然痘が平城京にも蔓延し、皇后の兄達の右大臣藤原武智麻呂、房前(ふささき)、宇合(うまかい)・麻呂(まろ)の四卿や新田部・舎人両親王をはじめ、全国多数の民衆が死亡した。藤原武智麻呂などの病死で藤原一族の繁栄への野望は挫折し、これに代わって台頭してきたのが光明皇后の異父兄に当たり、臣下に降下した橘諸兄である。この年、長屋王の無実も判明。
738(天平10)年、阿倍内親王 立太子。
739(天平11)年には、五穀豊穣、久方ぶりに国内は活気を取り戻した。740(天平12)年5月、光明皇后は一日経を発願。国家の平和を祈願して、国ごとに法華経を移し七重塔を建立させた。ところが、9月に至って大宰府の少弐(次官藤原広嗣(ひろつぐ)や弟の縄(なわ)手(て)が橘諸兄の失政を糾弾し、そのブレーンでもあった僧玄肪と吉備真備の2人の政界追放を求めて反乱をおこした(藤原広嗣の乱)。広嗣は宇合の子息であり、光明皇后の甥にあたる。宮廷にも衝撃を与えたが、とりわけ光明皇后には大きな動揺であった。又、乱の最中、天皇・皇后は平城宮を出て、諸国を放浪し、12月に右大臣橘諸兄の別荘の南方、恭仁(くに)に到着。741(天平13)年、から恭仁宮の造営が行われた。この年2月、全国への国分二寺(国分寺・国分尼寺)建立の詔は、この恭仁宮で発布されたもので、転変地変などの自然の災害や、反乱などを未然に防止し、諸国に平和な社会がもたらされるように祈念し、二寺を金光明最勝王経と法華経によって創建しようとしたものであった。本来、国分寺は「金光明四天王護国之寺」、尼寺は「法華滅罪之寺」といわれ、七重の塔には紫紙金字(ししきんじ)最勝王経が納入されることになっていた。伽藍建立の土地選定も、その国の「国華」にふさわしく勝地を選んで創建されるよう明示されている。国分二寺の「分」は「国ごとに分置する」意味の「分」ではなく、「国のためのもの」を意味する「分」で、金光明寺、国分金光明寺あるいは、法華寺とも称せられた。両寺の創建の発想は聖武天皇だけでなく、光明皇后の勧誘もあったし、又、唐朝の仏教を伝えた僧玄肪や最勝王経を伝え、講義をした道慈の影響も無視できない。このとき、金鐘寺を大和国分寺として金光明寺(こんこうみょうじ)と称した。
恭仁宮の造営が進行していた742(天平14)年2月、その東北にあたる近江国紫香楽への山道が開帳し、8月には紫香楽宮が造られた。大仏(盧遮那仏)を造る勅は、めまぐるしい離宮造営と行幸のさ中の743(天平15)年10月に発令された。
天皇発願の詔には律令国家の頂点に立つものの強大な帝権も見とれるが、造立の真の目的は仏法の力による「乾坤相泰(けんこんあいやすらか)に万代の副業を修めて、動植ことごとに栄えん」ことにあった。そして、744(天平16)年、香楽宮に甲賀寺を開き、初めて大仏の体骨柱(たいこつちゅう【骨ぐみの柱】)をたて、天皇自ら縄を引き、音楽も奏でられたが、約半年後、相次ぐ火災や地震で紫香楽宮を去っている。(東大寺に先んじて大仏造立に取りかかっていたが、未完に終わったとされている。)
745(天平17)年、平城還都。大仏建立も金光明寺にて改めて造営が開始され、その際に東大寺となった。
この大事業は皇室や政府の事業ではなく、国民全体の協力によって完成せんことを強調し、東山・北陸・東海三道20カ国の調庸をこの離宮に運ばせた。詔の4ヵ月後には一時「小僧行基」として弾圧されていた行基が起用され、弟子たちをひきいて勧進に出発。大仏建立の動機のの一つは、広嗣の反乱の起こった740(天平12)年2月、難波宮行幸のおり、河内国大県郡(現大阪府柏原市)の知識寺に参詣して、大仏を拝したことによるという。知識寺の性格は天皇・皇后の関心を引いたようであり、従来の官寺が政府の手で建立されたのに対し、広く国民大衆にも同朋として呼びかけ喜捨をつのるという新しい方針で行われている。747(天平19)年、東大寺での大仏鋳造を始める。そして、749(天平勝宝元)年、大仏の鋳造終了。752(天平勝宝4)年に大仏の開眼供養が行なわれた。大仏殿や講堂などの伽藍が完成したのは789(延暦4)年になる。その後1180(治承4年)年に平重衝によって、1567(永禄10)年には松永久秀によって伽藍が焼失。現在の伽藍は1709(宝永6)年に再建されたものである。大仏も 、幾度か修復を重ね、天平当初のおもかげは、現在、わずか台座蓮弁部と左大腿部の褶襞部分に残されているのみである。
天平のこの時代は、華やかな都ぶりと対極に暗く陰鬱な空気をはらんでいた。大宝律令の制定によって成立した律令国家が、その支配システムを社会に浸透、定着させてゆくには幾つかの試練が必要であった。唐の法律を真似た律令制が施行(711年)されたものの、社会の実情は、その貫徹を許さず、法の修訂を余儀なくされた場合や新たな矛盾を生み出す場合もあった。天平の時代は、律令制の政治理念とこれに矛盾する現実を内包する時代であった。
長屋王の政変、藤原広嗣の反乱のほか相次ぐ地震などの転変地変、病疫の流行、凶作などによる社会不安が募っている中、近親者の死去もあり、天皇・皇后が仏教へ傾斜してゆくのは自然の成り行きであったろう。
参考:
東大寺盧舎那仏像 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E7%9B%A7%E8%88%8E%E9%82%A3%E4%BB%8F%E5%83%8F
良弁 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E5%BC%81
日本仏教史年表
http://www.kenjyuin.com/21nenpyou.htm
恭仁宮跡発掘調査
http://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/kuni.html
日本の歴史新聞
http://kids.gakken.co.jp/campus/kids/rekisi/0302_12.html