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今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

自然公園の日

2005-07-21 | 記念日
今日(7月21日)は、「自然公園の日」
1957(昭和32)年7月21日、「自然公園法」が制定された。
皆さん、自然公園ってご存じ?まるで知らない方もいるのでは?。
自然公園は、自然公園法の規定に基づいて指定された国立公園、国定公園および都道府県立の自然公園を総称したものである。すぐれた自然の風景地は、天から与えられた宝物。ひとたび破壊されれば再び復元するのは大変。だから、できるだけ自然のままの姿で存続できるように保護する目的で指定された公園が、自然公園である。勿論、優れた自然の風景地を保護するとともに、その利用によって国民の保健、休養、教化に資することも目的として指定されている。自然公園の指定とその管理責任は以下のようになっている。
国立公園 は、日本の風景を代表する自然の風景地を国が指定する。そして、自然公園法に基づく許認可等の行政的管理責任は環境庁にある。
国定公園は、国立公園に準ずるすぐれた自然の風景地で、都道府県の申し出により国が指定する。そして、自然公園法に基づく行政的管理責任は、都道府県にある。
都道府県立自然公園は、都道府県を代表するすぐれた自然の風景地で、都道府県が指定する。その自然公園条例に基づく行政的管理責任は、都道府県にある。
因みに、神戸の六甲も国立公園であるが、そこには、ホテル、ゴルフ場、別荘など私的な施設もたくさんある。先にも述べたように自然公園は保護するだけでな、その利用の増進を図り、国民の保健、休養及び教化に資することを目的」つまり「利用」も目的としている。このホテル、ゴルフ場、別荘などは「利用」の部類に入り、都道府県や市町村が環境庁長官の「承認」を受けて行うことができる。
だから、保護、管理に問題がないわけではない。国立公園と言っても、そこに指定されている地域の土地所有権が全て国にあるとは限っているわけではない。奈良県の吉野熊野国立公園大台ヶ原地区など、環境庁(一部は県)の直轄地であるが、ほとんどは私有地である。これは「地域性公園」という制度で、土地所有権に関係なく公園のエリアを指定し、一定の公用制限を課すもので、このような制度は世界でも日本とイギリスだけだそうだ。そのため、所有権が国にあるところの国と異なり、その土地での行為に極端に厳しい制限を課すことができないのである。
話は、少しそれるかもしてないが、最近聞いた話でこんなことを思い出した。熊野古道が世界遺産に認定されたことについて、熊野では林業を生業としている人が多いが、古道の一部について、林業の人が車に材木を積んで通ると道に傷がつく。道が痛むと世界遺産に認められないので、林業者に道を通るなと言う。しかし、そこを通らないと仕事にならない林業者が、話をしても聞いてもらえない腹いせに、古道に面して立っている自分達の土地に植えている杉の木に赤いペンキを吹きつけ、景観を崩した問題が発生している。しかし、古道の道以外の両側の杉の木の植わっているところは、林業者の土地である。だから、自分達の土地の木に何をしようが、それを止めろとも強要できないのである。酷いことすると思うが、林業者も仕事が出来なければ生活できない。
今度又、「知床」が国内3番目の世界自然遺産に認定された。国際的に保護対象になっているトドの保護と、これを駆除しなければやっていけない地元漁業民の争いなど、自然と暮らしを両立して守ることの難しさが7月15日の新聞に載っていた。自然を守るのも大切だが、そこで、生活している人のいることを忘れないでやってもらいたいものである。
もともといた厚生省の国立公園管理員は、昭和41年には「自然公園指導員」と改称され、仕事の内容も改められ、平成14年度では、仕事を委嘱された約2,976名が、それぞれの立場で公園利用者に対する指導を行っているようである。利用と者としての我々も、自然環境を守るよう努力ないといけないね。
(画像は、熊野古道)
参考:
自然公園法施行令
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S32/S32SE298.html
環境庁ホームページ
http://www.env.go.jp/index.html
自然公園財団
私たち BES の仕事は、 美しい自然公園をよりいっそう美しく保ち、 次の世代へ引き継いでいく大切な仕事なのです。
http://www.bes.or.jp/
自然公園法
http://www.keea.or.jp/qkan/lawshizenkouen.htm
インターネット自然研究所/ライブカメラで日本中の自然をリアルタイムに堪能。
http://www.sizenken.biodic.go.jp/pc/live/html/index.html

月面着陸の日

2005-07-20 | 歴史
1969(昭和44)年7月20日、(アメリカ時間=日本時間では7月21日早朝)、アメリカが打ち上げた宇宙船アポロ11号が月面の「静かの海」に着陸し、アームストロング、オルドリンの両飛行士が人類として初めて月面に降り立った。その映像は、白黒の超小型テレビカメラでとらえられ世界中に同時に衛星中継された。
アームストロング船長は、月に初めて一歩を踏み出したことについて「これは一人の人間のほんの小さな一歩だが、人類にとっては偉大なる跳躍の第一歩だ」とのメッセージを地球に送った。世界中の多くの人々は、月面着陸第一歩の瞬間を見ようとTVの前で固唾を呑んで見守った。
ジョン・F・ケネディ大統領が1960年代にと言った公約通りに、その最後の年に人間の月面着陸を実現し、安全に帰還させるというアメリカの目標は達成され、世界中の人々を熱狂させた。人類史上最も大きな挑戦は、ソ連との冷戦下での、国の威信ををかけての月面着陸であった。莫大な予算を投入し、危険を冒して繰りひろげられた新しい形での戦争のあり方でもあったと言えよう。
月面に置いてきた金属板には、日本語に直すと「惑星地球からの人間、ここに月第一歩を印す。西暦1969年7月。我々は全人類の代表として平和にやってきた。」とあるようだ。
その後アポロ計画は17号で打ちきられ、平和的に利用されることとなった。兎に角、ソ連に先行され、月を領土とされる事だけは阻止したかったアメリカは、アポロ計画の成功後、宇宙開発は平和裏に行われ人類の共有財産とし、一国家の領土とする事を禁止するよう提示した。
しかし、今も、アメリカは、形を替え、スペースシャトルの打ち上げを何度も行っている。
2003年 2月 、スペースシャトル「コロンビア」が、テキサス州上空およそ6万3000メートルで空中分解し、搭乗していた7名の宇宙飛行士、全員が死亡。その事故より、17年前の『チャレンジャー』号の爆発を思い出させるような惨事となった。この事故の発生から、暫く中断されていたスペースシャトル(「ディスカバリー」)の打ち上げが、7月13日予定されていたが、最終点検で燃料センサーの異常が見つかり打ち上げは中止となった。やっと、宇宙へ行けると思っていた日本人宇宙士・野口聡一さんはがっかりしていただろう。兎に角、「危険な状態で打ち上げをする前に異常が検知されたのは不幸中の幸いであったといえよう。
(画像は、「アサヒグラフ」昭和44年8月15日号:緊急特別号人類初の月着陸)
参考:
日本惑星協会
http://www.planetary.or.jp/knowmain.html
宇宙情報センター(宇宙航空研究開発機構 )
http://spaceinfo.jaxa.jp/index_j.html
アポロ計画(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%AD%E8%A8%88%E7%94%BB


戦後民主主義到来の日

2005-07-19 | 歴史
今日(7月19日)は「戦後民主主義到来の日」
1949(昭和24)年の今日(7月19日)、新しい民主主義の到来を謳った青春映画『青い山脈』が封切られた。ランランラン ランランラン ララララランラー♪
若くあかるい 歌声に・・・・・
1949(昭和24)年、藤山一郎と奈良光枝がデュエットで歌った明るい歌『青い山脈』(西条八十作詞、服部良一作曲)は、同名の映画の主題歌として作られたが、映画の封切りを待たず発売され、爆発的にヒットした。  
映画『青い山脈』は、1947(昭和22)年に、朝日新聞に連載された石坂洋次郎の同名小説の映画化である。封建思想が残る地方都市を舞台に若い男女の交際をめぐって起こる騒動を描いた明朗快活な青春映画だった。既に、前もって、歌の方が爆発的にヒットしており、7月19日の映画封切りの初日、東宝映画劇場には入場を待つ長蛇の列が出来たという。映画も主題歌もヒットし、ラストにはサイクリングのシーンが登場したお蔭で戦後最初の自転車ブームを呼んだという。この作品はその後何度もリメイクされ又、テレビでも放映されている。
戦前は国家統制、戦後は、占領軍による指導と、映画界は、常に圧力にさらされていた。当時、占領軍が映画界に課した最大のテーマーは、”民主主義”であった。戦後に、『文部省著作教科書 民主主義』。(以下参考に記載)という本があったらしい。1948年秋と1949年夏に、それぞれ上巻・下巻として出版された本らしい。当時の教育行政はGHQの管理下にあり、これを書いたのもGHQの教育行政スタッフたちであろうと推測している。本では、戦前日本の封建主義的権威主義や国家主義はまちがっていたんだと教える。逆に、個人主義をもとにした民主主義こそが、人類が長い年月かけて育てた、世界的に普遍な価値であり、平和のいしずえであると、くりかえし情熱的に説いているという。
兎に角、映画も検閲をされており、映画人は民主主義の啓蒙映画づくりに取り組んでいたが、その中心をなしたのは左翼主義的な思想をもつ映画作家であった。しかし、かれらのつくる民主主義映画はファッシズム批判をテーマーに描いた作品が多く一般の人々に、民主主義のよさをわからせるという点では難解に過ぎた。そんな時に、封切られたのが今井正監督の青い山脈である。この映画では、戦後の新しい社会における理想的な男女関係の追求を通じて、多くの人々に「民主主義」というものを伝えようとしていたのだろう。自由な恋愛、男女の平等な関係、個性の重視、お互いの精神を発展させることを目指す夫婦関係等々。この映画は、「キネマ旬報」の「邦画ベスト100作品の1つにも選ばれているという。
しかし、主題歌が大ヒットし、老若男女を問わず、知らない人はいないくらい多くの人に知れ渡っている歌のわりには、映画の方の内容は余り知られていないかもしれない。私も、子供の頃に、映画を見た記憶はあるが、歌を知っているほどには余り詳しいことは覚えていない。まだ、この映画を見るには、子供過ぎたのであろう。当時、女子生徒が男子生徒と、口を利いても駄目だった時代である。当時の日本人には、日本文化の独自性とか個性とかを強調したいために、民主主義であってもそれがアメリカ流だというだけで拒否感をあらわす人たちもいた。しかし、おそらく、この映画を観た当時の若者達は、戦前の軍国主義をまだ分からずにいた幼年時代から戦後の180度変わった新しい社会にすんなり入れ、この映画に勇気づけられたものだろう。当時の若者にとって、『青い山脈』はまさしく、戦後の民主主義の申し子的な作品であったろうといえる。
懐かしい歌「青い山脈」の歌詞つきのMIDIを以下にリンクしておいた。映画を思い出しながらハモッてみますか。
二木紘三「MIDI歌声喫茶」:青い山脈(歌詞つき)
(画像は、昭和24年「青い山脈」のポスター。日本映画100年(アサヒグラフ)より)
参考:
新しき時代への導き★石坂洋次郎『青い山脈』
http://members.jcom.home.ne.jp/burari/essay/e510.html
『文部省著作教科書 民主主義』
書いたのは日本人文部官僚か、ニューディーラーか。
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/2005/20050509minshu.html
東宝年代記☆1946-1953
http://www010.upp.so-net.ne.jp/tohoscope/19461953.html

大河内伝次郎 (俳優「丹下左膳」) の忌日

2005-07-18 | 人物
1962(昭和37)年の今日(7月18日)は、大河内伝次郎 (俳優「丹下左膳」) の忌日。<64歳> [1898年3月5日生]
時代劇の大スター、大河内伝次郎(おおこうちでんじろう)。もう、この名前を聞いても知っている人は我々ぐらいの年代の人だろうな~。本名は、大邊男(おおべますお)。福岡県上毛郡大河内村の生まれ。芸名の大河内は生まれ故郷の大河内村からとったもの。1923(大正12)年の関東大震災の後に劇作家を目指し、新民衆劇学校第二期生、第二新国劇を経て1926(大正15)年日活に入社。伊藤大輔監督にみとめられ「忠次郎旅日記」三部作で世に出たという。古い映画のことはよく知らないが、独自の風貌と台詞回し、勢いよく走る姿で、人気を博し、とりわけ「新版大岡政談魔像篇」の丹下左膳は適役と言われたという。1936(昭和11)年東宝に移り、第二次大戦後、新東宝、その後大映、東映と移籍。代表作に「大菩薩峠」「興亡新撰組」などがある。
時代劇大好き人間の私は、大河内伝次郎出演の映画を、何本か見てはいるが、私達の記憶にある映画と言えば、なんと言っても、「丹下左膳」である。女物の緋縮緬の長襦袢に、経文入りの白羽二重の着流しという特異なスタイル、片目、片腕にもかかわらず稀に見る剣豪(素浪人)で、それに、あの有名な名台詞「シェイ(姓)はタンゲ、名はシャゼン!!」の独特の台詞廻し・・・嗚呼懐かしい・・・あの独特の時代劇のヒーローが忘れられない。
丹下左膳が、初めてこの世に生まれたのは1927(昭和2)年、当時のベストセラー作家林不忘が新聞に連載していた小説「新版大岡政談・鈴川源十朗の巻」の中の脇役の一人として登場したが、その特異なキャラクターがたちまち人気となり、その後、彼の名前をメインにして作品が執筆されることになり、丹下左膳のキャラクターが定着していったらしい。
丹下左膳はシリーズものとして多くの映画が作られており、キャラクターに魅力があるため、彼以外にもその後、丹波哲郎、中村(萬屋)錦之助、大友柳太朗などが演じてはきたが、やはり、彼独特のなまりと、大きな声、大きな顔、そして、隻眼のギョロ目での大河内伝次郎ものが一番格好いい。
あの名台詞は、彼のなまりが酷く、当時、伊藤監督がいくら指導しても豊前なまりが消えないので、諦めてそのままの台詞を通したのだというが、その語り口が、後に有名になり物まねにも登場する様になるのだから、これは瓢箪から駒だよね~。私は左利きなので、子供の頃、チャンバラごっこの好きな私は、よく、丹下左膳の真似をして、左手で剣を振り回して遊んだものだ。当然名台詞も真似てだよ・・・(^0^)。
そういえば、最近、時代劇ブーム到来とかいって、若い人に人気のあるといわれる、豊川悦司や中村獅堂が「丹下左膳」の役をやっていたな~。私は彼等の舞台や映画を見たわけではないが、中村獅堂のものなど予告でやっているものをみると、彼など確かに顔など雰囲気的には似ているが、やはり、何もかもが大作りでデカイ、大河内伝次郎と比べると貧弱だね~。
アメリカでも、そこにいるだけで、西部男のムードを醸し出していたジョン・ウエインなどの役者が亡くなってからは、西部劇映画が作れなくなったといわれているが、日本でも、顔の大きな独特の風貌をもった過去の時代劇スターが居なくなってからは、本当の時代劇を感じさせる時代劇は作れなくなったよね~。今作られている時代劇は、役者の演技もさることながら、背の高いスマートで、小さな細い顔をした8頭身か9頭身の人が頭に髷をつけての現代劇・・といった感じ、どちらかと言えば劇画だよね。ま、もう、背の低い骨格のがっしりした体格で、そして、多少憂いをおびたような大きな顔をした役者など出てこないだろうからしようがないだろうけどね。
大河内伝次郎は、嵯峨嵐山、亀山公園頂上に山荘を構え、自ら庭園造りを行い、信仰心の厚い人であるため、最初に建てたのが「持仏堂」(「座禅堂」ともいう。)で、そこに居を構えて、撮影のときだけ撮影所へ通ったという。彼が死後も 遺族などにより、30年の歳月をかけて造った山荘の庭園は6,000坪にもおよび、春は桜、夏は新緑、秋は紅葉と四季折々に美しく、回遊式の庭園からは、眼下に保津川を眺めることの出来るすばらしいものだという。私も嵐山へ桜見物に行き、この山荘の前を幾度か通ったことがあるが、中には入ったことがない。この山荘には、今、写真パネルやシナリオ、愛用品なども展示されているという。 一度訪れてみたいと思うのだが・・・。
(画像は、ポスター「丹下左膳」昭和8年、大河内傳次郎と伊藤大輔監督による時代劇の佳作。日本映画100年より)
参考:
大河内伝次郎/出演/監督別作品リスト
http://www.jmdb.ne.jp/list/l0249780_1.htm
大河内傳次郎 (オオコウチデンジロウ大河内伝次郎) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/92365/
丹下左膳 -たんげさぜん/中村獅堂主演の舞台」
http://www.ntv.co.jp/event/sazen/
SAZEN 丹下左膳百万両の壺/豊川悦司主演によるもの。
http://www.sazen2004.com/
大河内山荘
http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/spot/sp_ookoutisannsou


市川雷蔵/『眠狂四郎』)の忌日

2005-07-17 | 人物
1969年の今日(7月17日)は、俳優・役者の市川雷蔵 (『破戒』『眠狂四郎』)の忌日 。
市川雷蔵(いちかわ・らいぞう)、本名は太田吉哉。1931(昭和6)年8月29日、京都に生れる。俳優・役者の市川雷蔵は最も日本的な美を極めた男として知られている。しかし、この大映のスターであった雷蔵が歌舞伎の出身であることを知る人は、もう、少ないのではないか。雷蔵は、歌舞伎俳優”市川九団次”の養子として育ち、九団次の前名・”莚蔵”を継いで1946(昭和21)年15歳のときに初舞台を踏む。その素質を見込まれ19歳のときに、関西歌舞伎の大御所”市川寿海”の養子に迎えられて、”八代目市川雷蔵”を襲名した、れっきとした歌舞伎俳優出身なのである。
22歳で歌舞伎をやめ、1954(昭和28)年に映画界入りし、同年の 「花の白虎隊」でデビュー。以後、順調に映画スターの道を歩む。「弁天小僧」「「切られ与三郎」など、“歌舞伎もののほか、美男ぶりを売り物にするチャンバラ映画をこなす一方、「新平家物語」や「炎上」「大菩薩峠」などの芸術作品では演技の幅の広さ、強さを鮮やかに示して感嘆させた。他方、喜劇的な愛嬌のある役もうまくこなす器用な役者であり、この面では「ぼんち」が代表作であろう。しかし、私もそうであるが、雷蔵を愛する最も多くのファンは、多分、彼の悲壮美をたたえた美剣士ぶりを見せたもの「斬る」や「新撰組始末記」などではないか。また、人気作品の「忍びの物」シリーズや「眠狂四郎」シリーズ」もある。1969(昭和44)年7月17日、病のため惜しまれながら37歳の若さで世を去ったが、梨園出身の雷蔵映画には、多種多様な作品があり、16年間で153本もの作品がある。
美男子雷蔵の時代劇も良かったが、「若親分」や「陸軍中野学校」といった現代ものもよかった。しかし、なんと言っても、黒羽二重の着流し、異人の血のまざった彫りのふかい顔だちに赤みがかった髪、虚無の影を色濃くやどした狂四郎が、円月殺法の冴えをみせる・・・・この柴田錬三郎原作の「眠狂四郎」シリーズ(1963年~1969年)は、それまでの、二枚目で正義感も剣も強い剣豪とは違って、新鮮であり、過去の秘密を背負って屈折した翳を持ちながらニヒルに生きる狂四郎の役は、その台詞回しも雷蔵でないと他の人ではイメージが壊れてしまうほどであり、正に雷蔵のまり役であった。なにか、こう、ブログを書いているだけで、頭の中を昔見た雷蔵の映画がよぎって行く。あ~、又、ビデオで見ようかな・・・。
(画像は、1993年1月、アサヒグラフの表紙を飾る市川雷蔵」)
参考:
2005朗雷会HP
http://www.raizo.jp/index2.htm
ようこそ市川雷蔵ワールドへ
http://www.raizofan.net/829717.htm
市川雷蔵 (イチカワライゾウ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/107244/