ほぼ週二 横浜の山の中通信

人と異なる視点から見る

田奈弾薬庫の引き込み線は「こどもの国」のどこなの?

2015年09月22日 | 鉄道・リニア新幹線・航空機

かって「廃線跡を歩く」という本が何冊かシリーズで出ていました。私もこの関係の本を何冊か持っており、寝る前に良く読んでいました。今回はそれを真似してみます。遠くに行くのは疲れるので、とりあえず選んだのが「こどもの国」です。

 

良く知られているように、「こどもの国」は横浜市と町田市にまたがる陸軍の田奈弾薬庫の跡地に作られました。この田奈弾薬庫への弾薬の運搬のために作られたのがJR横浜線長津田駅からの引き込み線で、その跡地を転用して現在の横浜高速鉄道こどもの国線が敷設されました。「こどもの国線」は、途中に東急の車両工場もあるので、東急電鉄の所有と思っている人も多いと思いますが違います。その証拠に「こどもの国線」は、東急線と別料金です。ただし「こどもの国線」の電車を運行しているのは東急です。

 

  • 引き込み線は、田奈弾薬庫のどこに来ていたか?

下の地図は「写真と地図で読む 知られざる軍都多摩・武蔵野」洋泉社の「田奈弾薬庫」の項にある1954年頃の地図を参考にして、引き込み線を現在の国土地理院の地図に重ねました。ここに出て来る地図は全て国土地理院の地図で、承認不要にするため地図を小さくしています。

 

引き込み線は、途中で二つに分岐していました。左分岐は、現在の「こどもの国」駅まで線路が残っていますが、その先は跡形もありません。前記の本によると、現在の「こどもの国」正門を突っ切り、中央広場まで線路が延びていたようです。

 

 

下の地図は「こどもの国」正門付近を拡大しました。「こどもの国線」をそれなりに延ばすとすんなり中央広場へ入って行きます。

 

 

下の地図は中央広場付近です。地形と広場の形状を見ると、この中央広場はいかにも人工的に作られたという感じがします。

 

 

  • 鉄道にこの坂は登れない

「こどもの国」の最大の疑問は、正面前広場のスロープです。「こどもの国」の正面入り口を入ると、目の前にスロープのある広場が見えます。この付近は正門前広場と言いますが、そのスロープを越えると平坦で広い中央広場があります。どうみても、このスロープは鉄道には不向きなので、当時は無かったはずです。

 スロープを中央広場側から見るとこんな感じ。

と思っていたら、当時の田奈弾薬庫の上空からの写真が「こどもの国」の園内に掲示されているのを、この夏偶然に見つけました。写真に撮りましたが、ここには載せていません。

 

この写真を詳しく見ると、現在の正門前広場と思われる場所は平坦で、スロープはありません。「こどもの国三十年史」の122頁に「中央スロープの造成」とだけ書いてあったので、「中央スロープ」が正門前広場のスロープと推測します。正門前広場の左右から園内一周道路が合流します。この園内一周道路の勾配を緩めるためにスロープを作ったのでしょう。

 

  • 引き込み線のもう一方、右分岐の痕跡は?

  

 

右分岐の痕跡は、1か所のみです。

ここは長津田4号踏切で人しか通れないような踏切です。長津田方向を見ると、長津田駅前の再開発ビルが見えます。近づいて線路左の草むらを見ると、錆びたレールが見えるので、この付近で右に分岐していたようです。

 

草が伸びて、レールが見え難くなっています。

この踏切で振り返ると、中央に住吉神社の丘が見えます。山裾を左に約500m行くとこどもの国駅、山裾を右に約300m行くと臨時駐車場です。足元を見ると、こどもの国線の横に錆びた鉄橋が見えます。 

 

ここも草で見え難くなっていますが、横から見るとハッキリ見えます。

 

ネット上では、もう一か所地面にレールが埋もれている写真が掲載されていますが、現在その場所は舗装されてレールを見ることが出来ません。また現地に行くと、いかにも廃線跡に見える道路や土地の区割りはありましたが、遺構やレールなどの証拠が全く無く廃線跡と断定できないので、これ以上の調査はあきらめました。

 

洋泉社の本などによると、引き込み線の右分岐の終点は、現在の「こどもの国」の臨時駐車場のようです。この付近に、これほど広い場所は見当たらないので、終点は多分ここなのでしょう。

 

「こどもの国線」の開設は昭和42年4月8日なので、長津田駅からの引き込み線は、終戦から約20年使われずに放置されてきました。米軍は田奈弾薬庫を接収しましたが、弾薬類の運搬はもっぱらトラックで、引き込み線はあまり使わなかったそうです。「こどもの国三十年史」276頁の引き込み線の写真(時期不明)を見ると、既に線路の路盤や枕木はかなり荒れ果てています。「こどもの国線」を敷設する時、レールはそのまま使用し、路盤は作り直して、電化用の架線を設置しました。このような理由から、引き込み線の痕跡はあまり残っていないと思われます。

 

前記の田奈弾薬庫の当時の写真には、中央広場に相当する場所に北端から「倉庫」が並び、その南側は「到着停車場(ホーム)」「車両修理工場」と記入されています。

「こどもの国三十年史」によると、左分岐の終点(現在の中央広場)まで鉄道で運ばれてきた弾薬の部品類や火薬は、構内の工場で組み立てられて完成品になり、引き込み線の右分岐の終点(現在の臨時駐車場)から出荷されて行ったそうです。

 2015.09.22


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