❞ 来ぬ人を まつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ ❞ 権中納言定家(藤原定家)
この歌は、百人一首の97番目にある、権中納言定家作の恋歌である。
現代語訳すると、どれほど待っても来ない人を待ち焦がれているのは、松帆の浦の夕凪のころに焼かれる藻塩のように、我が身も恋い焦がれて苦しいものだ、という切なすぎる感もあるこの歌が、ふと頭をよぎる心境である。
喜寿同窓会案内状を発送して1週間。ちらほら返信が来ている。これまでは特に可もなし不可もなし。
まあまあこんなものだろうと、大きな喜びもなかったし、大きな落胆もなかった。
それが、三連休明けの今日は12枚の返信ハガキが届いた。ガックリッ!2勝10敗。大きく負け越しもいいところ。しかしその実態は、さほど落ち込むものではなく、まあこんなものかと、納得の大敗ではある。
過去7度案内状を出しても、ただの1度も出席したことのない面々ばかりである。よ~く考えてみると、過去に1度も出席しなかった人に、今さら出席を期待する方に無理がある、という思いに至る。
出席しないのは、その人なりに事情や思いがあるだろうし、旧き友との出会いを「楽しいこと」と思わない人だって当然いる。過去は過去でそーっとしておいてほしい人だって大いにいるということだ。
幹事の思いばかりを判断基準にしてはいけないのだ。なんて、そんなことは百も二百も承知の上で幹事を引き受けている。但し、喜寿という酸いも甘いも噛みしめた老境にある身。それらしい常識は守れよ、と忠告したくなるのは、なんとも淋しいものである。欠席に〇印を付けて他は名前だけ。住所も電話番号も無し。近況を記すなど飛んでもない、といった葉書の多いこと。この胸にしまい込むのも幹事ゆえの務めか・・・・・・。などと愚痴を言うなら、ハナっから引き受けなきゃいいのだ。
そんな中に1枚。昨年〇月△日に××で逝去しました。生前は大変お世話になりました。私は息子の〇〇です。という返信が混じっている。この1枚で、今日の鬱憤は忘れられる。それにまだまだ先がある。どんな人間模様が見られるのか、楽しみの方が多い。
来ぬ人を待ち焦がれる権中納言定家ほどの厳しい心境ではないが、一人でも多く出席してよ。ダメならダメでいい、返信だけは出してよ、と思いつつ、また明日の郵便配達を待つ。
当分郵便配達の人を待つ日が続きますね。
じっと待つだけです。
今まで出席してきた人たちをなんとか確保したいと、願うばかりです。