秋という季節ほど、喜怒哀楽の情を表現したり、移りゆく景色模様を讃える言葉が豊かな季節はほかにはない。
そんな秋を感じる受け方も、お年頃によってさまざまであり、徐々に変わっていくものでもあるようだ。
今となっては「食欲の秋」は少し敬遠がちに。スポーツの秋ももっぱら見学する立場が多くなった。
そんな中でも、若いころから今に至っても大きく変わらない秋の表現がある。
それは「灯火親しむ」ということにつながる「読書の秋」であり、「ものを書く」秋となる。
読む・書くとなると、書く方はこの拙ブログをはじめ、エッセイもどきやちょっとした便りを書いたりする。
ところが、読むとなるとこれがなかなか。
これはぜひ読んでみたいと思う本が、枕元に何冊か摘まれている。たまに手を伸ばすのだが……。
文字通りの「積ん読」で、いつかは読むぞ、との掛け声ばかり。
先日もちょっとした息抜きにお邪魔した友の家。ソファーの横に、見慣れた作家の本が10冊近く積まれている。
「図書館で借りて来た。ざ~っと読んどるんよ」とのこと。
与謝野鉄幹を思い出す。「…… 友を選ばば書を読みて 六分の侠気四分の熱」 そしてわが身を振り返って恥ずかしい。
世はまさに読書週間。文化の日を挟んで前後1週間ずつ。つまり10月27日から11月9日までの2週間。
ということは、今日を入れてもあと2日しかない。必死に読みふけったとしても手遅れこの上ない。
今年の読書週間にどれだけの本を読んだか?とんでもない、読みかけの本の何ページが進んだか、というオーダーである。
それでも、この読書週間のあいだに、己の読書の少なさに気が付いただけでもよしとしようか。
身の回りにあふれる、ありとあらゆる本の種類と数。やはり自分の好みにあったものから、ということになりそう。
理屈はともかく、先ずは手を出すこと。襲い来る睡魔と如何に闘うか、戦略も要るようだ。
中でもやはり「読書の秋」は、未来永劫続きそうよ。
眠れないと時だけでも、本に手が伸びれば上出来よ。