怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

課外授業スペシャル「ハンドサッカー・・・」について(3/5)

2006-01-09 00:03:34 | 教育
(さて、今回はどこまで転がるか)

今回、北沢氏が行ったゲームを用いた運動は、まさにこの「考える体育」のねらいにそったものといえる。
各チームで得点を入れるためにポジション、フォーメーションからその動きにいたるまで、分析と次へのねらいを自分達に想像させ、全員がゲームに集中する(させる)ことで効果的な運動を保障している。
「勝ち、負け」もあるのだが、それよりもまず「1点」につながる動きを創造していくことに集中できる面白さがウケていた。
指導もその一点に集約してアドバイスが行われていた。
ゲーム最中は、それぞれが考えたであろう動きへの声かけを中心に行われていた。
北沢は指導者(授業者)として、とてもよい活動をしていたといえる。

ここで問題点だが、ゲーム最中は、審判さえ北沢氏が行うので、残りの3チーム(クラスの半数以上)が作戦タイム、ないしは敵陣視察となる。
つまり、体育の時間なのに運動をしていない。
およそ2時間(90分)の授業で、ゲーム時間(=中心の運動)は最大33分(決勝までいったとして)しかない。
敗者復活戦を行っていたとしても同じ(というか、それをやると授業時間は足らない)。
そうすると、先に計算した肩ならしをいれても43分、多くても45分程度しか運動をしていないことになる。
これは体育の総時間の50%程度である。
こうなると運動の時間(=運動量)としては達成率の低い時間とはいえないだろうか。

授業自体について最後に述べたいことは北沢氏の「北沢豪」というキャラクターポジションである。
彼は授業を終えるにあたって、子ども達を集め、「頭脳を使う=考える」ことで人生を切り開くことができる。今回のゲームから、そこを学びとって欲しい・・・というようなことを述べていた。
彼のようにトップクラスへのぼりつめ、大きな挫折ともいえることも乗り越え、プロとしてプレイしてきた偉人である人から、こういった話を聞くことは、とても素敵な体験となるし、説得力もとてもあると思う。

この授業の、いわば華といえる部分になった。
これを普通の担任が同じように言ったとして、これほど心に残るかといえば、それは無理だろう。
嫌な考えをしてみると、授業を担任がして、何かのきっかけを用意して、北沢氏に最後だけ話させたとしても、同じような効果は期待できるのではないだろうか。
そういった意味で、この部分がなければ、彼はこの授業の意味ある存在ではなかっただろうと私は考える。
彼が上手に授業を行っていただけに、そう思うのだ。