「Aくんに蹴られた!」
憮然とした態度で私のところにやってくる登校時の子ども一人。
そういった場合、まずダイレクトには相手をしない。
「なんで蹴られたか聞いておいで。」
たいてい驚く。
おそらく自分の境遇に共感してくれたり、相手を叱ってくれたりすることを期待していたのだろう。
ちょっと間を置いて、
「私がXX(悪口)って言ったからだって。」
「そう。理由はわかっているんだね。で、どうしてほしい?」
「・・・。あやまってほしい。」
「そう。じゃあ(相手を)呼んでおいで。」
その後、事実確認を二人にさせて(事実関係以外できるだけ口出しをしない。)、あやまりの儀式をすませておしまい。
そのうち私をまねて事後解決したりする子が出て来る。
何か泣いている子がいると、私に言う前に何があったか聞いて来る。
そうやって生活の中でお互いが関わり、コミュニケーションの力も自己解決の力もついてくる。
担任側も余裕をもって子どもをみることができるようになる。
これが成立しないと崩壊しやすいと思う。
(ま、必要条件の一つだけれど。)
こういうのって、親はどう見るのだろう。
たまに思う。
憮然とした態度で私のところにやってくる登校時の子ども一人。
そういった場合、まずダイレクトには相手をしない。
「なんで蹴られたか聞いておいで。」
たいてい驚く。
おそらく自分の境遇に共感してくれたり、相手を叱ってくれたりすることを期待していたのだろう。
ちょっと間を置いて、
「私がXX(悪口)って言ったからだって。」
「そう。理由はわかっているんだね。で、どうしてほしい?」
「・・・。あやまってほしい。」
「そう。じゃあ(相手を)呼んでおいで。」
その後、事実確認を二人にさせて(事実関係以外できるだけ口出しをしない。)、あやまりの儀式をすませておしまい。
そのうち私をまねて事後解決したりする子が出て来る。
何か泣いている子がいると、私に言う前に何があったか聞いて来る。
そうやって生活の中でお互いが関わり、コミュニケーションの力も自己解決の力もついてくる。
担任側も余裕をもって子どもをみることができるようになる。
これが成立しないと崩壊しやすいと思う。
(ま、必要条件の一つだけれど。)
こういうのって、親はどう見るのだろう。
たまに思う。