「西行」ついでに・・・。
わたしの子どもたちが通っていた幼稚園は「ひまわり幼稚園」といいました。
園長先生は、すでに当時70歳ぐらいでした。
子どもたちにとっては「おばあちゃん」のような方でした。
太平洋戦争中に神戸から当地へ疎開し、そのままここで暮らすことになったそうですが、
なんでも、宝塚音楽学校に通っていたとか、そこの先生にバレエを習っていたとかで、
ともかくも、田舎の当地で最初にバレエ教室を開いた方だったそうです。
今はその教え子の方々が、市内でバレエ教室を開いています。
ひまわり幼稚園は、各年齢ひとクラス20人いるかいないかの、小さな幼稚園でした。
特徴といえば、毎年クリスマスの頃に行われるバレエ発表会でした。
幼稚園の大きくもないホールで行われるのですが、これがなかなか本格的でした。
衣装などは手作りのものではなく、ちゃんとしたバレエの舞台用のものなのです。
発表会の内容も、園長先生が子ども向けにアレンジはしてあるものの、
「くるみ割り人形」などの本格的なバレエ劇で、
園児たちは、半年ぐらい前から、園長先生の指導のもとに稽古にはいります。
当然、父兄には臨時の出費があり、保護者からは非難もあったようです。
でも、園長先生は、頑として方針を曲げませんでした。
理由は、子どものうちから「本当のもの」に触れさせたい。ということでした。
子どもだから「子どもだましでいい」とはお考えにならない方でした。
そして、その考え通り、わずか半年足らずのバレエの稽古でも、
なかなかどうして、園児たちはそれなりにしっかり踊ることができるようになっていました。
園長先生は、さずがに若い頃からバレエで鍛えていただけあって、
70歳を過ぎたというのに、膝はいつもまっすぐに伸び、
体操などでも、軽々と上体を前屈させて手が床に付くのでした。
では、いつも本格的に金品が入り用な行事ばかりだったかというとそうではなく、
夏休み直前の幼稚園での「お泊まり保育」の翌日には「早朝マラソン大会」というのがあり、
これは、幼稚園の周囲の町内をぐるっとお父さんとともに一周するというもの。
そのマラソン大会のあとに、恒例の「サラダパーティー」というのがあり、
これは、園庭に机と椅子を並べて、マラソンが終わった子どもたちと父兄とで、
朝食を囲むという趣向です。
お父さんと子どもが走っている間、お母さんたちは「サラダパーティー」の準備です。
「サラダパーティー」とはいいますが、メニューの食材は、
キャベツ・レタス・大根・人参・セロリ・ピーマンなどの生野菜を千切りに刻んで、
それに料理用ナチュラルチーズ・シラスなどをたっぷり混ぜ合わせ、
ゆで卵をスライスしたものとプチトマトを、これまたたっぷりちらします。
それに厚切り食パンと牛乳です。これはかなりの栄養です。
野菜嫌いの子どもたちも、これは喜んで食べていたのが印象的でした。
今も、我が家でも時々このメニューを出します。
お月見の時には、やはりお母さんたち総出で上新粉で団子を作りました。
季節ごとの行事は、すべてお金は最小限の手作りでした。
幼稚園ではありましたが、無認可の保育園の役割もしていて、
通園していた子どもたちのほとんどの父兄は共働きでしたから、
夕方遅くまで子どもたちを預かって貰ってました。
子どもたちが帰る時の挨拶には必ず園長先生もいらしていて、
先生は、玄関できちんと正座して「さようなら」とお辞儀をなさるのです。
お着物姿のこともありました。
礼儀作法には厳しい方でした。
ひまわり幼稚園の標語として園長先生がいつもおっしゃっていたのは、
「我慢できない子どもはダメになる」
ということでした。
厳しいですね。
20年近くも前のことですが、当時の父兄たちにも、なんだかなぁ、
という感想を持つ方々が多かったように記憶しています。
父兄や職員の先生方には厳しい方でしたが、子どもたちにはいつも優しかったようです。
うちの子どもたちも、園長先生の印象というと
「やさしいおばあちゃんみたいだった」という記憶です。
でも、園長先生の幼児教育にかける情熱は、ストレートすぎるのか、時代遅れというのか、
次第に園児たちは少なくなり、幼稚園経営もだんだん大変になっていきました。
うちの子どもたちも卒園し、わたしが開業して数年たったころ、
ちょうど今頃の季節、園長先生から一通のお手紙をいただきました。
そこには、もう幼稚園を続ける気力も財力も尽き果ててしまったこと、
これまでの幼児教育に生涯かけて取り組んできた思いなどが綴られていました。
園長先生ご自身も、体調を崩されていました。
そして、最後の方には、西行のあの歌が書かれていました。
それから少しして、3月半ば過ぎ、お彼岸の頃に、お亡くなりになったのです。
告別式は、幼稚園のホールで行われました。
園長先生が情熱をかけた、バレエ発表会を行っていたホールです。
ホールの外まで、大学生や高校生・社会人になった卒園児たちであふれました。
その後のわたし自身の子育ての最中や、外来でお子さんたちと接する時、
ひまわり幼稚園の園長先生が折りに付けおっしゃっていた、さまざまな言葉を思い出します。
わたしも時折、お母さんたちに厳しいことを言ってしまうことがあります。
(あぁ、きっと、今このお母さんは、あの時のひまわり幼稚園の父兄のような気持ちだな)
と感じます。
時代遅れのこと言ってると思われるだろうな・・・。
本当はもっと、言い方を変えなくちゃいけないんだよなぁ・・。
反省は毎日のことですが、なかなか、うまくいきません。
そうは思いつつも、
「あんなこと言われた」という恨みでもいいから、頭の隅に残してもらえたらいい、
いつか、何年もたってから、あそこの女医にあんなこと言われて不愉快だったけど、
今ならわかるかも、って思い出してもらえたらいい、
そんな風にも思います。いえ、決して開き直りじゃなくてね。(^_^;)
わたしのブログタイトル「ひまわりの種」は、「ひまわり幼稚園」からいただいたのです。
わたしの子どもたちが通っていた幼稚園は「ひまわり幼稚園」といいました。
園長先生は、すでに当時70歳ぐらいでした。
子どもたちにとっては「おばあちゃん」のような方でした。
太平洋戦争中に神戸から当地へ疎開し、そのままここで暮らすことになったそうですが、
なんでも、宝塚音楽学校に通っていたとか、そこの先生にバレエを習っていたとかで、
ともかくも、田舎の当地で最初にバレエ教室を開いた方だったそうです。
今はその教え子の方々が、市内でバレエ教室を開いています。
ひまわり幼稚園は、各年齢ひとクラス20人いるかいないかの、小さな幼稚園でした。
特徴といえば、毎年クリスマスの頃に行われるバレエ発表会でした。
幼稚園の大きくもないホールで行われるのですが、これがなかなか本格的でした。
衣装などは手作りのものではなく、ちゃんとしたバレエの舞台用のものなのです。
発表会の内容も、園長先生が子ども向けにアレンジはしてあるものの、
「くるみ割り人形」などの本格的なバレエ劇で、
園児たちは、半年ぐらい前から、園長先生の指導のもとに稽古にはいります。
当然、父兄には臨時の出費があり、保護者からは非難もあったようです。
でも、園長先生は、頑として方針を曲げませんでした。
理由は、子どものうちから「本当のもの」に触れさせたい。ということでした。
子どもだから「子どもだましでいい」とはお考えにならない方でした。
そして、その考え通り、わずか半年足らずのバレエの稽古でも、
なかなかどうして、園児たちはそれなりにしっかり踊ることができるようになっていました。
園長先生は、さずがに若い頃からバレエで鍛えていただけあって、
70歳を過ぎたというのに、膝はいつもまっすぐに伸び、
体操などでも、軽々と上体を前屈させて手が床に付くのでした。
では、いつも本格的に金品が入り用な行事ばかりだったかというとそうではなく、
夏休み直前の幼稚園での「お泊まり保育」の翌日には「早朝マラソン大会」というのがあり、
これは、幼稚園の周囲の町内をぐるっとお父さんとともに一周するというもの。
そのマラソン大会のあとに、恒例の「サラダパーティー」というのがあり、
これは、園庭に机と椅子を並べて、マラソンが終わった子どもたちと父兄とで、
朝食を囲むという趣向です。
お父さんと子どもが走っている間、お母さんたちは「サラダパーティー」の準備です。
「サラダパーティー」とはいいますが、メニューの食材は、
キャベツ・レタス・大根・人参・セロリ・ピーマンなどの生野菜を千切りに刻んで、
それに料理用ナチュラルチーズ・シラスなどをたっぷり混ぜ合わせ、
ゆで卵をスライスしたものとプチトマトを、これまたたっぷりちらします。
それに厚切り食パンと牛乳です。これはかなりの栄養です。
野菜嫌いの子どもたちも、これは喜んで食べていたのが印象的でした。
今も、我が家でも時々このメニューを出します。
お月見の時には、やはりお母さんたち総出で上新粉で団子を作りました。
季節ごとの行事は、すべてお金は最小限の手作りでした。
幼稚園ではありましたが、無認可の保育園の役割もしていて、
通園していた子どもたちのほとんどの父兄は共働きでしたから、
夕方遅くまで子どもたちを預かって貰ってました。
子どもたちが帰る時の挨拶には必ず園長先生もいらしていて、
先生は、玄関できちんと正座して「さようなら」とお辞儀をなさるのです。
お着物姿のこともありました。
礼儀作法には厳しい方でした。
ひまわり幼稚園の標語として園長先生がいつもおっしゃっていたのは、
「我慢できない子どもはダメになる」
ということでした。
厳しいですね。
20年近くも前のことですが、当時の父兄たちにも、なんだかなぁ、
という感想を持つ方々が多かったように記憶しています。
父兄や職員の先生方には厳しい方でしたが、子どもたちにはいつも優しかったようです。
うちの子どもたちも、園長先生の印象というと
「やさしいおばあちゃんみたいだった」という記憶です。
でも、園長先生の幼児教育にかける情熱は、ストレートすぎるのか、時代遅れというのか、
次第に園児たちは少なくなり、幼稚園経営もだんだん大変になっていきました。
うちの子どもたちも卒園し、わたしが開業して数年たったころ、
ちょうど今頃の季節、園長先生から一通のお手紙をいただきました。
そこには、もう幼稚園を続ける気力も財力も尽き果ててしまったこと、
これまでの幼児教育に生涯かけて取り組んできた思いなどが綴られていました。
園長先生ご自身も、体調を崩されていました。
そして、最後の方には、西行のあの歌が書かれていました。
それから少しして、3月半ば過ぎ、お彼岸の頃に、お亡くなりになったのです。
告別式は、幼稚園のホールで行われました。
園長先生が情熱をかけた、バレエ発表会を行っていたホールです。
ホールの外まで、大学生や高校生・社会人になった卒園児たちであふれました。
その後のわたし自身の子育ての最中や、外来でお子さんたちと接する時、
ひまわり幼稚園の園長先生が折りに付けおっしゃっていた、さまざまな言葉を思い出します。
わたしも時折、お母さんたちに厳しいことを言ってしまうことがあります。
(あぁ、きっと、今このお母さんは、あの時のひまわり幼稚園の父兄のような気持ちだな)
と感じます。
時代遅れのこと言ってると思われるだろうな・・・。
本当はもっと、言い方を変えなくちゃいけないんだよなぁ・・。
反省は毎日のことですが、なかなか、うまくいきません。
そうは思いつつも、
「あんなこと言われた」という恨みでもいいから、頭の隅に残してもらえたらいい、
いつか、何年もたってから、あそこの女医にあんなこと言われて不愉快だったけど、
今ならわかるかも、って思い出してもらえたらいい、
そんな風にも思います。いえ、決して開き直りじゃなくてね。(^_^;)
わたしのブログタイトル「ひまわりの種」は、「ひまわり幼稚園」からいただいたのです。