這えば立て 立てば歩めの 親心
とは、我が子の成長を願う親の気持ちとしてよく使われる言葉だ。
赤ちゃん健診での相談は、湿疹とかウンチの回数とか小さなアザとか、
実はわたしからみれば、生きていくのになんていうことがないことが多い。
でも、そんな小さなことが気になるのも親ならではの当たり前の感情だ。
ひとつひとつにお答えしながら、
でも、これから先、もっと大きなことで悩んだりすることがあるよ。
・・・と思う。でも、それはまだ言わない。
育てながらじゃないと、実感できないことだと思うから。
結婚したらいずれ子供を授かって、兄弟は何人がいいかな、なんて語り合って、
子供達が幼稚園や学校に行って、就職して、結婚して、孫を授かって・・・。
誰もが思い描く当たり前の営みは、ほんとうはちっとも当たり前じゃなくて、
もしこのとおりの人生を歩むことができたのなら、それはただの幸運に過ぎない。
赤ちゃんを授かることに何年も悩む方々もいる。
辛い出産を経験する方もいる。
五体満足で産まれたと思ったのに、その後病気をしたり、学校に行けなくなったり・・・。
こんなはずではなかったのに、どうして・・・?
予想通り、期待とおりに我が子が成長しないことに、
親は心を痛め、自分を責める。
・・・・育て方がいけなかったのだろうか・・・?
でも、親のこの言葉を聞いた子供は、自分の存在を否定されたように感じてしまう。
だって、今の「僕・わたし」を、お父さんやお母さんは満足していないのでしょう?
でもそれは、親が自分を責め、悩んでいるがゆえの言葉だということは、子供にはわからない。
当たり前だ。親じゃないんだから。
それは、親になってみないとわからないことだから。
先日、ため込んでいた録画番組を整理した。
特に震災関連のものは、記録としてとっておこうと思って録画したのだけれど、
いまだに辛くて、きちんと見ていないものもあったから・・・。
その中に、宮城県で津波被災後のPTSDに取り組んでいる医師のドキュメント番組があった。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)を予防・治療するための工夫として、
「あの時に起こったこと」から目をそむけずに、心の中のものを吐き出すことが大切。
そのためにどんなことをしたらいいのか、といった内容だった。
医療・福祉関係の学生さんも参加していた。
番組の最後のほうに、津波で中学生のお子さんを亡くしたお母さんのお話があった。
そのお母さんは公民館の2階に逃げて無事だったのだけれど、
お子さんは学校に逃げる途中で間に合わなかったのだそうだ。
家もなくし、他の御家族もお亡くなりになった。
お母さんだけ生きていて、ごめんね。そう思ってしまうんです。
笑顔で、でも涙声でこう言いながら、さらにこう続けた。
でも、あの子は、むこうで友だちも一緒だし、じいちゃんばあちゃんも一緒だし。
案外寂しくないかもしれません。
お母さんもいずれそっちに行くけど、まだこっちでやることがあるから。
それまで待っててね。そう言ってるんです。
聞いていた学生さんたちも泣いていた。
巷では今、受験シーズン。
高校や大学進学で勉強の真っ最中だろう。
進級や卒業で悩む学生さんもいるかな。
まだ就活中の学生さんもいるのかな。
希望とおりになることもあれば、不本意な結果になることもある。
でも、死ぬまで生きていくこれからの何十年という人生を大きくとらえたら、
たかが受験、だ。
仕事がなかなか見つからないのは辛いけれども、生きていればなんとかなる。
思い通りにならなくても、それでキミたちの人格が評価される訳じゃない。
思い通りにならなかった時こそ、これからの日々をどう生きるか、
大事なことはそっちじゃないかな。
我が子が思い通りにならなくても、
それは、お父さんお母さん、あなたが悪いということじゃない。
もちろん、子供のせいでもない。
一生懸命がんばっても、思い通りにならないことはたくさんあって、
だからこそ、ちょっとした出来事にもささやかな幸せを感じられるのだと思う。
体裁とか、世間体とか、気にしだしたらきりがないでしょう?
親も(神様に)試されているのだ、と思う。
我が子が生きていることの幸せ。
これを忘れてはいけないのだと思う。
とは、我が子の成長を願う親の気持ちとしてよく使われる言葉だ。
赤ちゃん健診での相談は、湿疹とかウンチの回数とか小さなアザとか、
実はわたしからみれば、生きていくのになんていうことがないことが多い。
でも、そんな小さなことが気になるのも親ならではの当たり前の感情だ。
ひとつひとつにお答えしながら、
でも、これから先、もっと大きなことで悩んだりすることがあるよ。
・・・と思う。でも、それはまだ言わない。
育てながらじゃないと、実感できないことだと思うから。
結婚したらいずれ子供を授かって、兄弟は何人がいいかな、なんて語り合って、
子供達が幼稚園や学校に行って、就職して、結婚して、孫を授かって・・・。
誰もが思い描く当たり前の営みは、ほんとうはちっとも当たり前じゃなくて、
もしこのとおりの人生を歩むことができたのなら、それはただの幸運に過ぎない。
赤ちゃんを授かることに何年も悩む方々もいる。
辛い出産を経験する方もいる。
五体満足で産まれたと思ったのに、その後病気をしたり、学校に行けなくなったり・・・。
こんなはずではなかったのに、どうして・・・?
予想通り、期待とおりに我が子が成長しないことに、
親は心を痛め、自分を責める。
・・・・育て方がいけなかったのだろうか・・・?
でも、親のこの言葉を聞いた子供は、自分の存在を否定されたように感じてしまう。
だって、今の「僕・わたし」を、お父さんやお母さんは満足していないのでしょう?
でもそれは、親が自分を責め、悩んでいるがゆえの言葉だということは、子供にはわからない。
当たり前だ。親じゃないんだから。
それは、親になってみないとわからないことだから。
先日、ため込んでいた録画番組を整理した。
特に震災関連のものは、記録としてとっておこうと思って録画したのだけれど、
いまだに辛くて、きちんと見ていないものもあったから・・・。
その中に、宮城県で津波被災後のPTSDに取り組んでいる医師のドキュメント番組があった。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)を予防・治療するための工夫として、
「あの時に起こったこと」から目をそむけずに、心の中のものを吐き出すことが大切。
そのためにどんなことをしたらいいのか、といった内容だった。
医療・福祉関係の学生さんも参加していた。
番組の最後のほうに、津波で中学生のお子さんを亡くしたお母さんのお話があった。
そのお母さんは公民館の2階に逃げて無事だったのだけれど、
お子さんは学校に逃げる途中で間に合わなかったのだそうだ。
家もなくし、他の御家族もお亡くなりになった。
お母さんだけ生きていて、ごめんね。そう思ってしまうんです。
笑顔で、でも涙声でこう言いながら、さらにこう続けた。
でも、あの子は、むこうで友だちも一緒だし、じいちゃんばあちゃんも一緒だし。
案外寂しくないかもしれません。
お母さんもいずれそっちに行くけど、まだこっちでやることがあるから。
それまで待っててね。そう言ってるんです。
聞いていた学生さんたちも泣いていた。
巷では今、受験シーズン。
高校や大学進学で勉強の真っ最中だろう。
進級や卒業で悩む学生さんもいるかな。
まだ就活中の学生さんもいるのかな。
希望とおりになることもあれば、不本意な結果になることもある。
でも、死ぬまで生きていくこれからの何十年という人生を大きくとらえたら、
たかが受験、だ。
仕事がなかなか見つからないのは辛いけれども、生きていればなんとかなる。
思い通りにならなくても、それでキミたちの人格が評価される訳じゃない。
思い通りにならなかった時こそ、これからの日々をどう生きるか、
大事なことはそっちじゃないかな。
我が子が思い通りにならなくても、
それは、お父さんお母さん、あなたが悪いということじゃない。
もちろん、子供のせいでもない。
一生懸命がんばっても、思い通りにならないことはたくさんあって、
だからこそ、ちょっとした出来事にもささやかな幸せを感じられるのだと思う。
体裁とか、世間体とか、気にしだしたらきりがないでしょう?
親も(神様に)試されているのだ、と思う。
我が子が生きていることの幸せ。
これを忘れてはいけないのだと思う。