後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「山梨県の山林の中の小屋」

2024年08月05日 | 日記・エッセイ・コラム
水の流れる風景に誘われて、1975年に山梨県の山林に小屋を建てました。
早速その小屋を建てた場所を写真で示します。山梨県の甲斐駒岳の麓です。

1番目の写真は山梨県の北杜市から見上げた甲斐駒岳連峰の写真です。晩秋に撮った写真です。右手の山が甲斐駒岳で中央の雪のある所が朝日尾根です。山から流れて来るのは石空川(イシウトロガワ)です。景色だけを眺めていれば良かったのですが、無謀にも小屋 を建ててしまったのです。場所は写真の中央部の山林の中です。

2番目の写真は甲斐駒岳の麓の森の奥にある私の山小屋です。晩秋に撮ったので木々が紅葉しています。電気、ガス、水道の無い小屋でした。スウェーデンの学生さん達も来ました。楽しい思い出がたくさんある小屋です。
3番目の写真は小屋に登って行く雪道です。こんな森の中の道を2Kmほど登ると小屋があります。写真にポツンと小さく写っている人間はよく一緒に行った家内です。

4番目の写真は小屋の窓から見た光景です。一年中、水の涸れない小川が流れていてヤマメが棲んでいます。小川の水は小屋に泊まるときの生活用水です。飲み水は自宅から持って行きます。
冬は非常に寒く日本酒が氷になります。

山林の中の小屋に通うことは寒くて辛い思いをする苦しい趣味です。冬の夜は日本酒さえ凍る寒さです。周囲には人家がなく真っ暗です。梟の鳴く声がします。しかし朝になるとキジや山鳩の声で目が覚めます。春のウグイス、カッコウ、夏の蝉たちなどの声が楽しいのです。いろいろな野生動物にも会えます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「山梨県の『ぶどうの丘』と日本のワインの歴史」

2024年08月05日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県の甲府盆地には緑豊かなぶどうの里と日本一古いワイナリーがあります。葡萄酒を醸造している洒落たワイナリーが点在しています。
子供が小さい頃に何度もブドウ狩りに行きました。フランス風の美しい建物のワイナリーの工場見学をし、出来立てのワインの試飲もしました。勝沼にはブドウ畑に覆われた「ぶどうの丘」もあります。頂上にホテルやレストランがあり楽しい所です。
以前に撮って来た写真をお送りします。

1番目の写真はブドウ畑の近影です。季節が早いのでまだ育っていない小粒のブドウの房です。

2番目の写真はJR勝沼駅のそばにあるブドウ畑に覆われた「ぶどうの丘」の遠景です。

3番目の写真は「ぶどうの丘」の頂上から見た甲府盆地の風景です。

4番目の写真は「シャトー勝沼」というワイナリーの工場です。1階が大きな売店で、昨日は晩秋に仕込んだワインを売っています。買ってきて飲んでみたら晩秋仕込だけあって甘味のある奥深い芳醇な味でした。

5番目の写真は現存しているワイナリーでは日本一古いマルキワイナリーです。明治10年創業です。フランスから葡萄酒の醸造技術を導入しました。

さて日本一古いマルキワイナリーの写真をご紹介したのでついでに日本における葡萄酒製造の歴史をご紹介いたします。
明治維新で日本は開国の道を進み日本の近代化が急速に進んでいきます。
国の近代化を図りたい明治政府は、殖産興業の一環として、ぶどう栽培・ワイン醸造も奨励します。(https://www.suntory.co.jp/wine/nihon/column/rekishi01.html )
まず1870年(明治3年)に山梨県甲府市で、山田宥教(やまだ ひろのり)と詫間憲久(たくまのりひさ)が「ぶどう酒共同醸造所」というワイン醸造所を設立しまいた。
甲州種などを用いて、日本で産業として初めて、国産ワインが製造されたのです。
しかし彼らが全財産を懸けて挑んだワイン造りは、製造技術の低さ防腐剤の不備などで経営難に追い込まれ数年で終わりを迎えます。
その二人を皮切りに、たくさんの人々がワイン造りに挑みますが、ことごとく失敗に終わってしまいます。ワイン醸造は難しい技術だったのです。
その後の1877年(明治10年)に、「大日本山梨葡萄酒会社」(メルシャンの前身)が出来ました。
この会社から高野正誠と土屋竜憲という二人の若者がフランスに派遣され、本場のワイン醸造技術を二年間学びました。
フランスから帰国した二人はワインの醸造を始めました。
同時期に新潟では、川上善兵衛が新しい動きを始めます。善兵衛はフランスから帰国した土屋竜憲からぶどうの栽培技術を学び、1895年(明治28年)故郷の屋敷内に「岩の原葡萄園」を開設します。
善兵衛は、日本の気候に適したぶどうを栽培するために、欧米からたくさんの種類のぶどうの苗木を取り寄せ、品種改良を行います。
善兵衛が行っていた品種改良の成果は、昭和の初めに実を結ぶことになります。
1927年(昭和2年)には「マスカット・ベーリーA」を始めとする、日本の気候風土に合った独自品種の開発に成功します。
この「マスカット・ベーリーA」は、現在でも日本ワインの原料の中心として使われています。
私財をなげうって、日本ワインの発展に尽くした川上善兵衛は、"日本ワインの父"と呼ばれています。

第二次世界大戦中、政府はワイン造りを推奨します。しかし、それは飲料としてのワインを推奨したわけではありませんでした。
政府は、ワインを醸造したときに得られる「酒石酸」という副産物を欲しがったのです。
この「酒石酸」は、敵の潜水艦を探知する時に使う、レーダーの製造に利用されました。戦時中、ワイン工場は軍の管理下に置かれ、軍事目的で大量のワインが製造されました。
そして現在のワイン文化へとつながっています。

1970年(昭和45年)に開催された日本万国博覧会以降、日本の食生活は急速に欧米化が進みます。それに伴ってワインの消費量もかなり増えました。1980年のバブル期には、現在でも毎年騒がれる「ボジョレーヌーボー」が大ブームになりました。
現在、日本のワイン市場は急速に拡大しています。
かつては"発展途上"と言われ、あまり評価が良くなかった日本ワインも、各メーカーや醸造家が努力を重ねた結果、現在では、国際コンクールで入賞するようなワインを、自国で造れるようになりました。今、日本ワインは欧米のワインと肩を並べるまでに、進化しています。

以上が日本における葡萄酒製造の歴史の概略です。最後に「まるき葡萄酒」の明治10年の創業者・土屋龍憲をご紹介しておきます。
(http://www.marukiwine.co.jp/history.html )
明治10年、土屋龍憲はワイン醸造技術習得の為、日本人で初めてフランスに渡りました。そこで龍憲はフランスの栽培・醸造技術、フランス料理に大きな感銘を受け、不眠不休で栽培法、醸造法の習得に励みました。帰国後、彼はみずから勝沼葡萄酒の開懇と栽培の研究を行いました。「フランスワインがフランス料理に合うように、甲州ぶどうが和食に合わないはずがない」。これが龍憲のぶどうにかける想いでした。この想いを支えとして、大水害、緊迫する社会情勢といった数々の困難に見舞われながらも、龍憲はワイン醸造を続けたのです。

フランス留学中では最初にミルマ市小学校でフランス語を学び、次にトロワ市の農園で、栽培方法を学びます。さらに、モーグー村のジュポン氏の農園で、葡萄栽培と葡萄酒造法を学び、勉強をさらに約半年延長してもらうと、ビールの製法やシャンパンの製造法を学んで学業を終え、明治12年3月マルセーユ港を出航、5月8日無事に横浜港に帰り着いたのです。
1891年(明治24年)に「マルキ葡萄酒」を設立しました。
明治28年、第四回内国勧業博覧会には、自社の赤・白葡萄酒を出品し有功賞を受賞しました。その後、明治30年代に入り、トレード・マークのマルキ印、まるき葡萄酒の販売を開始しました。

日本は軍事主義へ向かって、一路ばく進していた時代であり、国産葡萄酒は将兵の重要な医薬品として扱われていましたが、土屋合名会社では明治27年の日清戦争の時代から陸海軍の将兵をはじめ、各地の救護団体に対してマルキ葡萄酒を寄進しており、日露戦争・第一次欧州戦争にも計5500本もの葡萄酒を寄贈してその名を売りました。・・・以下省略します。

日本の葡萄酒製造には先駆者の苦難と努力があったのです。 現在の日本のワインの普及を考えると感無量です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ミレーの『種まく人』など名画がある山梨県」

2024年08月05日 | 日記・エッセイ・コラム
このブログでは北海道や鹿児島のような地方をご紹介しています。
今日は葡萄や桃で有名な山梨県ご紹介してしたいと思います。「甲州ワイン」は近代国産ワインの先駆けでした。
さて第一回目にはミレーの『種まく人』で有名な山梨県立美術館をご紹介いたします。
甲府市の山梨県立美術館は1978年の開館以来「ミレーの美術館」として有名です。70点ものミレー作品を所蔵する美術館は世界でも他に無く、『種をまく人』をはじめ、『落ち穂拾い、夏』や『角笛を吹く牛飼い』などの名画を見ることができます。
そしてミレーだけでなく、バルビゾン派の画家たちの作品や、山梨県ゆかりの美術家の作品も展示されています。総点数は現在約1万点もありコレクション展は年4回展示替えを行っています。
それでは展示作品の写真を示します。

1番目の写真はミレーの『種まく人』です。
この絵では広大な農地で一人で働く田舎の労働者を中心とした人間の姿を描くことに重点を置いています。1850年のパリ・サロンに出品され、多くの注目と批評を浴び、批評家のクレマン・ド・リスは「躍動感に満ちたエネルギッシュな習作」と賞賛しました。
ミレーは1849年に、パリから少し離れた場所にあるフォンテーヌブローの森にあるバルビゾンという村に移り住みました。
彼はバルビゾン派と呼ばれる 芸術家グループの一員となり、伝統的でロマンティックな劇的風景画とは対照的な、控えめで写実的な風景画やモチーフを描くようになります。

2番目の写真は山梨県立美術館の屋外の彫刻展示の風景です。

3番目の写真はミレーの「落ち穂拾い」です。

4番目の写真はトロワイヨンの「市日」です。

5番目の写真はルソーの「フォンテンブローの森のはずれ」です。

6番目の写真は米倉壽仁の「ヨーロッパの危機」です。このような抽象画も多数展示されています。他にも山梨県ゆかりの作品も展示されています。
また美術館の外にはにはロダン、また、施設のある芸術の森公園内にはロダン、へンリー・ムーアやブールデル、ザッキン、マイヨールなどの彫刻が置かれ展示されています。

7番目の写真はへンリー・ムーアの彫刻です。

今日はミレーやバルビゾン派の画家たちの作品や山梨県ゆかりの作品も展示されている山梨県立美術館をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)