後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の北に住んでいたアリュート族やイテリメン族やアイヌ民族」

2024年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日本の北に住んでいたアリュート族やイテリメン族やアイヌ民族をご紹介したいと思います。日本の北方とは千島列島、樺太、カムチャッカ半島、アリューシャン列島などです。太古にアフリカから移住して来た原住民、すなはち北方民族のアリュート族やイテリメン族やアイヌ民族が住んでいました。千島と樺太には北方アイヌ民族が住んでいました。
さて18世紀になるとロシアがこの北方の土地を領有しようとしました。
初代ロシア皇帝、 ピョートル1世( 在位:1721年 - 1725年)がベーリング海峡からアラスカまでの探索を命じたのです。
ベーリング探検隊は2度目の遠征でアジアと北米の間にベーリング海峡があることを発見します。そして1741年に、ベーリング探検隊の隊員がアラスカに上陸します。
この上陸によってカムチャッカ半島、アリューシャン列島、そしてアラスカはロシア皇帝の領有地になったのです。

1番目の写真は日本の北方地域の地図です。
その後、ロシア正教の宣教師が派遣されカムチャッカ半島、アリューシャン列島、そしてアラスカにはロシア正教の教会が建てられたのです。
しかし1867年にロシア皇帝はアリューシャン列島と広大なアラスカをアメリカに売り渡したのです。ですから現在はアラスカとアリューシャン列島はアメリカの領土なのです。
さてこの地域に住んでいた先住民をご紹介したいと思います。
アリューシャン列島にはアリュート族が住んでいました。
土地が貧しく資源の少ない島でしたが、彼らは流木や海の生物資源を巧みに利用して生活していました。特徴的なのは海獣を狩ることが上手だったのです。
海獣の皮や消化器官でできたフードつきの防水服を着て、流木と海獣の皮で作られたカヤックに乗り、流木と骨で作る投げ槍などを持って数人の仲間と漁に出てラッコ、アザラシ、トド、セイウチ、クジラといった獲物を捕らえてきました。
長年孤立した民族でしたが、17世紀までに列島には約25,000人が暮らし、大いに栄えたそうです。
しかしロシア人の進出により海洋資源が枯渇し、またロシア人が持ち込んだ疾病によってその数は十分の一以下に激減し、1910年の調査ではアリュート族の数は1,491人しかいなかったそうです。写真を示しながら説明を続けます。

2番目の写真はアリューシャン列島のある島の夏の風景です。この列島は典型的な火山列島で、島々には火山があります。冬は厳寒の地ですが短い夏には草花も咲きます。

3番目の写真はアリューシャン列島の島にロシア人が開いた町の写真です。ロシア正教の教会も見えます。
白崎謙太郎著、「明治・海・2人」という本によると列島の島々にこのような教会堂があり、アリュート族は皆ロシア正教の信者になり、ロシア風の名前になっていたそうです。

4番目の写真は暖かい夏のアリュート族の家族の写真です。

5番目の写真は厳寒の冬のアリュート族の家族の写真です。
次にカムチャッカ半島の先住民をごく簡単に示します。
カムチャッカ半島の大部分を占めていた民族はイテリメン族でした。
(http://karapaia.com/archives/51643453.html )
 このイテリメン族と呼ばれる人々は、北はコリヤーク族、南は千島アイヌと接し、17世紀末までは2万人といたと推定されています。しかし17世紀末にロシア人が侵入し、カムチャツカ半島がロシアに併合された後は、混血とロシアへの同化、紛争や伝染病の流行などで人口が激減し、現在では2000人ほどしか残っていないそうです。

6番目の写真は伝統衣装を着たイテリメン族の男女の写真です。

7番目の写真は激しい踊りをしているイテリメンの男と女の写真です。

8番目の写真は戦士の服装をしたイテリメンの男性の写真です。
最近のイテリメン族の研究では、アラスカのトリンギット族と最も近い遺伝子を持つことが分かりました。かつてシベリアとアラスカを結ぶ陸橋だった期間、シベリヤからアラスカへと移動していったのがモンゴロイド達だったのです。当然、血筋が近いのもうなずけます。
ちなみに日本の縄文人は古モンゴロイド、弥生人は新モンゴロイドと考えられているので、日本人とも血がつながった民族だったのです。
なおアラスカのトリンギット族のことは長くなるので割愛します。

以上のようなロシア支配と先住民達のことを知った上で、白崎謙太郎さんの「明治・海・2人」という本を読むと一層北方民族のことが分かります。
この本は下記にメールで申し込むと買うことが出来ます。立派な装丁の198ページの本です。shirasakikentaro@gmail.com

今日は日本の北に住んでいた原住民やアイヌ民族たちをご紹介しました。アリューシャン列島のアリュート族とカムチャッカ半島のイテリメン族です。千島と樺太には北方アイヌ民族が住んでいましたが今回は省略しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「アイヌは日本人の祖先、日本の地名の多くはアイヌ語」

2024年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
自分達の先祖はどんな民族だったのか? 何処から移住して来たのか? どんな暮らしをしていたのか?
多くの人が興味を持つ問題に違いありません。
最近、日本人の祖先はアイヌ人だと考える人が増えたようです。もっともアイヌという名称は中世以後に出来た名称ですから「原日本人」と言うべきです。この「原日本人」が中世以後のアイヌ人と同じだったのです。しかし以下の文章では原日本人をアイヌ人と書いています。その方が分かり易いからです。
「原日本人」がアイヌ人だったという根拠の幾つかを書いてみたいと思います。富士山も神もアイヌ語だという話です。日本の地名の多くはアイヌ語だという話です。
日本列島に人間が沢山住むようになったのは少なくとも4万年前からの旧石器時代からです。当時の日本には南の中国や朝鮮からの渡って来た人々とカムチャッカ、樺太、千島列島から渡ってきた北方民族の両方が住んでいたと考えられています。両方が雑婚して住んでいました。そう考えるのが自然です。
北方民族の遺伝が強い北方日本の人々を後代の日本人はアイヌと呼んでいます。
アイヌ民族の居住範囲は本州の関西地方を南限にして、関東や東北地方はアイヌ人だけが住んでいたと考えられています。
従って東北地方と北海道南部に花咲いた縄文文化はアイヌ人(原日本人)の文化だったのです。
それが弥生時代になり、西日本では中国系の人が増えて、アイヌ人(原日本人)は次第に東北地方へ追いやられたのです。
そして北海道に孤立した縄文人(原日本人)、すなわちアイヌ人はその後、オホーツク文化の影響を色濃く受けて擦文土器文化になり、その後独自のアイヌ文化になったのです。
私の先祖はアイヌ人です。私の先祖の出生地が東北地方だからです。蝦夷(えみし)なのです。
大雑把に言って先祖が関西以北の出身なら、アイヌ人が祖先になると考えるのが自然です。

さて「古事記」に出てくる地名が多くはアイヌ語起源である可能性が高いという仮説があります。「目からウロコの漢字問題」(宝島社文庫)という本に以下のようにあります。
・・・昔は日本の大部分の地域にアイヌ民族がいた。その後北方へ追いやられたが、(現代日本人の八割の人はアイヌ民族の血を引いているという)、このようなわけで、とりわけ北海道や東北の地名には、アイヌ語に漢字を当てたものがごろごろある。
 たとえば、栃木県「日光(にっこう)」は「二荒(ふたら)」が「にこう」と読み違えられ、さらにそれに当て字をして出来上がったという。この「ふたら」はアイヌ語「プタアラ」が語源になっており、これは「美しい高原」のことである。「富士」もアイヌ語の「フチ(火)」が語源だとする説が有力だ。つまり「火の山」だったわけである。」・・・

以上の本は学問的な厳密性を欠いた読み物風の本のようで信用出来ないかも知れません。しかし、このことは明治時代に、東京帝国大学の教授であったバジル・ホール・チェンバレン教授によって明らかにされたのです。彼は英・アイヌ・和語辞書を作った学者です。
とりわけ北海道や東北の地名には、アイヌ語に漢字を当てたものがごろごろあることは確かです。さらに彼は富士山や利根川や能登半島もアイヌ語だとも言うのです。
そして現在、北海道に住んでいる人々は北海道の地名の8割ほどがアイヌ語をカタカナや漢字で表現した地名であると知っています。
しかし北海道以外の日本人は意外にこの事実を知っていません。札幌も稚内も石狩川もすべてアイヌ語の地名を漢字で書いたものなのです。

アイヌ人は縄文時代末期まで、関東地方にも広がって住んでいたのです。その後、大和朝廷に少しずつ北方へ追いやられ、江戸時代には北海道(蝦夷地)にだけになりました。しかしその一方で、多くのアイヌ人は混血して東北地方にも住み着いていました。
ですから本州の関東以北にはアイヌ語の地名をいくつも残っています。
話はいきなり飛びますが、アメリカの内陸部の地名、河の名前がインディアン語のものが多いのです。私が住んでいたオハイオもそうですが、オハイオ州の河や地名の多くはインディアン語由来のものです。先住民は消えて行きます。しかし先住民の残した地名はアメリカに沢山あります。

下に「北海道の地名・駅名」についての資料をご紹介します。
これには北海道のアイヌ語由来の地名をカタカナや漢字で表すときの一般的な規則が分類され出ています。(Wikipediaの「北海道の地名・駅名」より抜粋)
北海道の地名・駅名は、概ね以下のように分類できる。
アイヌ語に由来するもの
アイヌ語に日本語(漢字)表記をあてたもの
アイヌ語をそのまま使用しているもの
内地からの開拓・入植に際して地名が決められたもの
周辺に存在した施設・自然状況、あるいは周辺の風土などから命名
上記によって定められた地名・駅名に、方向や大小などの接頭語・接尾語をつけたもの

@アイヌ語に由来するもの
アイヌ語地名に日本語風の地名・駅名につけるにあたっては、以下の方法が見られた。
アイヌ語に漢字の表記をあてたもの
アイヌ語の音に漢字をあてずカタカナで表記しているもの
@アイヌ語に漢字表記をあてたもの
老者舞(おしゃまっぷ)
音訳 - アイヌ語の「音」を流用し、漢字を当て字(仮借)したもの
意訳 - アイヌ語の「意味」を解釈し、似た意味の日本語を割り当てたもの
音訳したもの
音訳の例としては、「ホッキ貝の多い所」を表す「ポク・オ・イ」からとった母恋や、「川口の汚染された所」を表す「オ・トイネ・プ」からとった音威子府・音稲府(枝幸町)などがある。

また、アイヌの地名をそのまま日本語地名としては冗長であったりごろが悪かったりする場合には一部短縮・省略したものもある(オペレケレケプ->帯広、ピウカ->美深))。
これらは音のみに着目した「当て字」である。漢字は表意文字であるが、あてられた漢字の意味にアイヌ語原義との直接的な関連性があるとは限らない。例えば、北海道に数多く見られる「内」「別」は、それぞれアイヌ語で川を意味する「ナイ」「ペツ」に当て字されたものであり、「内側」「別れる」の意味は持たない。同じように「幌」は「大きい・広い」を意味する「ポロ」の当て字で、「幌」の字の持つ意味とは関係がない。
========以下省略します。==============

最後に一言余計なことを書かせて下さい。日本人は明治維新以来、アイヌ人を蔑視してきました。その証拠は1997年(平成9年)まで存続していました「北海道土民法」です。ですから「日本人の先祖はアイヌ人」という題目に感情的に反発する人がいます。貴方自身はどのようにお感じでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真はアイヌの血の濃い北海道の人々によるアイヌの再現写真です。写真の出典は、https://rurubu.jp/andmore/article/12912 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「アイヌ民族の文化と生活の様子」

2024年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム

北海道にはアイヌ民族が縄文時代より以前の大昔から住んでいました。北海道の先住民です。第二次大戦の直後までアイヌ民族だけの村落が北海道に散在していたのです。それが現在は忘れられています。

そこで今日はアイヌ民族の文化と生活の様子をご紹介したいと思います。

さて私がアイヌ民族に興味を持つきっかけになったのはモースが撮ったアイヌ人の1枚の集合写真です。エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。その中に次の写真があったのです。

1番目の写真はモースが明治20年代(1890年頃)に撮った北海道のアイヌの集合写真です。写真の出典は、小学館の「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という写真集です。

明治時代のアイヌは伝統的な服装と家に住み純然たるアイヌ文化を維持していたのです。一緒に写っている白人はクラーク博士でアイヌにも興味があったそうです。この写真でアイヌ民族を興味を持った私は他の写真をさがしました。

(1)アイヌ人の写真と家族の写真

アイヌ人の写真は明治時代から現在にいたるまで沢山あります。もっとも現在の写真は観光用のアイヌの祭りに出演するアイヌ人たちです。和人と結婚したアイヌ人達です。写真を示します。   2番目の写真はモースが明治時代に撮ったアイヌ民族です。こんな服装は1945年の大二次世界大戦の終戦まで続きました。北海道のアイヌ村落では皆んながこの服装をしていたのです。 3番目の写真は観光用のアイヌの祭りに出演したアイヌ人たちです。日本の経済の高度成長とともに北海道旅行が盛んになり大勢の観光客がアイヌの祭りのショーを見に行きました。ショーの出演者はアイヌの血を引く日本人です。   4番目の写真は観光用のアイヌの女性たちです。化粧や服装は伝統的なアイヌを忠実に再現しています。口の周りの入れ墨は墨で描いたもので入れ墨ではありません。   5番目の写真は口で震わせるアイヌ独特の楽器を演奏するアイヌの女性です。 北海道のアイヌ人は明治以後は日本の小学校に行くようになり次第に伝統的なアイヌ民族の文化が消えて行きました。北海道開拓のために入植した日本人によって土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも禁じられたのです。アイヌの村落は貧しい生活を強いられていました。それでもアイヌ村落は終戦後まで存続していたのです。第二次大戦中までは北海道にはアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。 (2)アイヌ人の住居

昔アイヌ村落のあった日高の平取や白老、そして旭川の郊外などには現在は民族博物館があります。そしてアイヌの村落が復元して展示されています。復元し展示してある村落の写真を示します。   6番目の写真は白老にあるアイヌの村落です。復元したものです。

  7番目の写真はアイヌの家の内部です。アイヌの住居チセ(cise)は、地面を踏み固めた上に藁やゴザ、毛皮を敷いて床とした平地式住居で、その中央に木尻席を欠いた大きな囲炉裏が設けられていました。この囲炉裏に数個のシュワッ(自在鉤)が下げられ、そこに和人との交易で得られた大小のシュー(鉄鍋)がかけられていました。    8番目の写真も展示されているアイヌの村落の風景です。

さて北海道大学の付属植物園の中にある博物館にはアイヌ民族関連の数多くの展示物もあります。函館市にもアイヌ文化を展示した博物館もあります。しかし現在はアイヌ人だけの村落は消えて無くなってしまったのです。

北海道に行くと、私は復元した村や博物館を見て回りました。北海道・日高の平取町二風谷では、町営のアイヌ歴史博物館を見ました。その向かいには、純血のアイヌ人が個人的に経営しているアイヌ文化の博物館もありました。

(3)アイヌ人の食生活

アイヌ民族の食糧は簡単に獲れるエゾシカの肉と多量に獲れる鮭の干物でした。ヒグマはまれにしか食べられませんでした。クジラやトドなどの海獣も食べましたがニシンやイワシが主でした。若めや昆布も食べました。

その他に下の写真のような植物を食べていました。そして肉食と草食のバランスを取りながら北の大地で豊かな食生活を楽しんでいたのです。640pxtouro_rake1_2

9番目の写真はペカンペ(菱)の大産地として有名な釧路湿原にある塘路湖です。菱の実の争奪戦が行われたとの伝説も伝わているそうです。

K31000101_2  640pxanemone_flaccida021

10番目の写真です。        11番目の写真です。

10番目の写真がギョウジャニンニクの芽生えで、11番目の写真が汁物の具として好まれるニリンソウです。葉の形は毒草のトリカブトと似ているため、採集には注意を要するそうです。

Rosa_rugosa_fruechte1 640pxeikhaas1  

12番目の写真です。        13番目の写真です。

12番目の写真がマウ(ハマナスの実)です。アイヌ語では旧暦7月をモマウタチュプ(少しばかりハマナスの実を採る月)、8月をシマウタチュプ(本格的にハマナスの実を取る月)と呼ぶそうです。

13番目の写真がアイヌ語ではユクカルシ、カムイカルシと呼ばれるマイタケです。和人との交易品として重要なので、日本語名・マイタケも早くから広まったいました。

 640pxcebolletarafax1 1024pxainu_knife_epira_makiri_itaya

14番目の写真です。         15番目の写真です。

14番目の写真が葱です。江戸時代後期から栽培され、汁物や刺身の薬味に使われたそうです。

15番目の写真はマキリ(小刀)です。山菜の採集や魚の処理、調理に使われました。

アイヌは和人と同様に生食を好み、素材の新鮮さを最大限に生かした「刺身」や「肉や魚のたたき」が大変に好まれていたのです。加熱調理については、炉の直火と鍋のみで可能な調理法、すなわち「あぶる」「焼く」「煮る」「ゆでる」「灰の中で蒸し焼き」でした。

以上の写真と文章の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%96%99%E7%90%86 です。

今日はアイヌ民族の写真とともにその村落、住居、食生活をかなり詳しくご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「戦後の米軍占領で日本は激変、アイヌの集落も消滅」

2024年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
1945年の日本の敗戦は日本人の価値感を根底から変革しました。男女平等の民主主義が社会構造をすっかり変えてしまったのです。戦後の米軍占領で日本は激変したのです。
今日は激変の一つの例として北海道のアイヌ集落の消滅をご紹介したいと思います。アイヌ集落 への差別が無くなったのです。
戦後は自由と平等の思想の普及しました。その結果アイヌ民族は次第に和人と結婚してアイヌの集落 から出て行きました。アイヌ民族の東北地方への移住も進みました。
こうして北海道に数多くあったアイヌ部落は一つ一つと消えて行ったのす。
ですから私は戦後の米軍占領でアイヌの集落 は消滅したと考えています。それは一つの戦後の歴史なのです。
私はこの問題に強い関心を持ち続けています。理由は私には移住して来たアイヌ人の少年と親しい友人になったからです。少年の頃の楽しい思い出は生涯忘れられないのです。
北海道に旅をするとあちこちにアイヌ民族の博物館があります。日高の平取や白老、そして旭川の郊外などにも民族博物館があります。アイヌ村落を復元した展示もあります。北海道大学の付属植物園の中にある博物館にはアイヌ民族関連の数多くの展示物もあります。函館市にもアイヌ文化を展示した博物館もあります。
北海道には第二次大戦の終戦までアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。戦後、アイヌ人だけの村落は次第に消えて行きます。
明治から昭和20年の終戦までの日本の政策によって、アイヌ人は土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも禁じられたのです。アイヌの集落 は困窮していました。
そして終戦後に、北海道のアイヌ人たちの一部は東北地方の開拓地に移住して来たのです。
私は仙台市に生まれ育ちました。そこへもアイヌ人一家が移住して来たのです。私はそのアイヌ人の一家の少年と仲良くなったのです。
仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。
1番目の写真は1904年に撮った北海道のアイヌの人々の写真です。
私の付き合っていたアイヌ一家の夫はこの写真の右から3人目のような風貌でした。

さてアイヌ民族は美しい文学作品も持っています。例えば「アイヌ神謡集」もその一つです。知里幸恵著、『梟の神の自ら歌った謡』をご覧ください。

詳しくは、http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/44909_29558.html をご覧下さい。
「アイヌ神謡集」を読むと、彼等が豊かな自然とともに幸せに暮らしていたことに感動します。フクロウやいろいろな神々をうやまい、家族を大切にし、心豊かに生活していたのです。

北海道は本州以南とは違った独自の歴史を持っているです。
旧石器時代から縄文時代までは北海道の歴史は本州とほぼ同じでしたが、その後の本州の弥生時代や古墳時代は北海道には存在しません。
その代わり、続縄文時代が本州での古墳時代の頃まで続いたのです。
その後は北海道のオホーツク沿岸地方はオホーツク文化時代とそれ以外の中部と南部の北海道では擦文文化時代が鎌倉時代のはじめまで続いたのです。

擦文文化時代とは、その時代の土器に筆で擦ったような模様がついていたのでそのような名がついています。
そして鎌倉時代の始めからは独自のアイヌ文化が成立し、そのアイヌ文化時代が明治維新まで続いたのです。
狭い意味でアイヌ民族と呼ぶのは、この鎌倉時代から明治維新まで続いた独特な文化の担い手の人々の事です。
広い意味でのアイヌ人とは旧石器時代から縄文時代まで北海道や本州にいた先住民族を意味します。

そのような特異な北海道の歴史については北海道教育委員会のHPで明快に説明してあります。そのURLは、http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htm です。

今日は戦後の米軍占領でアイヌの集落 は消滅したという戦後史をご紹介し、さらにアイヌ民族の文化と北海道の歴史を書きました。

挿絵代わりにもう2枚のアイヌ民族の写真を添付します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)