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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「アイヌは日本人の祖先、日本の地名の多くはアイヌ語」

2024年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
自分達の先祖はどんな民族だったのか? 何処から移住して来たのか? どんな暮らしをしていたのか?
多くの人が興味を持つ問題に違いありません。
最近、日本人の祖先はアイヌ人だと考える人が増えたようです。もっともアイヌという名称は中世以後に出来た名称ですから「原日本人」と言うべきです。この「原日本人」が中世以後のアイヌ人と同じだったのです。しかし以下の文章では原日本人をアイヌ人と書いています。その方が分かり易いからです。
「原日本人」がアイヌ人だったという根拠の幾つかを書いてみたいと思います。富士山も神もアイヌ語だという話です。日本の地名の多くはアイヌ語だという話です。
日本列島に人間が沢山住むようになったのは少なくとも4万年前からの旧石器時代からです。当時の日本には南の中国や朝鮮からの渡って来た人々とカムチャッカ、樺太、千島列島から渡ってきた北方民族の両方が住んでいたと考えられています。両方が雑婚して住んでいました。そう考えるのが自然です。
北方民族の遺伝が強い北方日本の人々を後代の日本人はアイヌと呼んでいます。
アイヌ民族の居住範囲は本州の関西地方を南限にして、関東や東北地方はアイヌ人だけが住んでいたと考えられています。
従って東北地方と北海道南部に花咲いた縄文文化はアイヌ人(原日本人)の文化だったのです。
それが弥生時代になり、西日本では中国系の人が増えて、アイヌ人(原日本人)は次第に東北地方へ追いやられたのです。
そして北海道に孤立した縄文人(原日本人)、すなわちアイヌ人はその後、オホーツク文化の影響を色濃く受けて擦文土器文化になり、その後独自のアイヌ文化になったのです。
私の先祖はアイヌ人です。私の先祖の出生地が東北地方だからです。蝦夷(えみし)なのです。
大雑把に言って先祖が関西以北の出身なら、アイヌ人が祖先になると考えるのが自然です。

さて「古事記」に出てくる地名が多くはアイヌ語起源である可能性が高いという仮説があります。「目からウロコの漢字問題」(宝島社文庫)という本に以下のようにあります。
・・・昔は日本の大部分の地域にアイヌ民族がいた。その後北方へ追いやられたが、(現代日本人の八割の人はアイヌ民族の血を引いているという)、このようなわけで、とりわけ北海道や東北の地名には、アイヌ語に漢字を当てたものがごろごろある。
 たとえば、栃木県「日光(にっこう)」は「二荒(ふたら)」が「にこう」と読み違えられ、さらにそれに当て字をして出来上がったという。この「ふたら」はアイヌ語「プタアラ」が語源になっており、これは「美しい高原」のことである。「富士」もアイヌ語の「フチ(火)」が語源だとする説が有力だ。つまり「火の山」だったわけである。」・・・

以上の本は学問的な厳密性を欠いた読み物風の本のようで信用出来ないかも知れません。しかし、このことは明治時代に、東京帝国大学の教授であったバジル・ホール・チェンバレン教授によって明らかにされたのです。彼は英・アイヌ・和語辞書を作った学者です。
とりわけ北海道や東北の地名には、アイヌ語に漢字を当てたものがごろごろあることは確かです。さらに彼は富士山や利根川や能登半島もアイヌ語だとも言うのです。
そして現在、北海道に住んでいる人々は北海道の地名の8割ほどがアイヌ語をカタカナや漢字で表現した地名であると知っています。
しかし北海道以外の日本人は意外にこの事実を知っていません。札幌も稚内も石狩川もすべてアイヌ語の地名を漢字で書いたものなのです。

アイヌ人は縄文時代末期まで、関東地方にも広がって住んでいたのです。その後、大和朝廷に少しずつ北方へ追いやられ、江戸時代には北海道(蝦夷地)にだけになりました。しかしその一方で、多くのアイヌ人は混血して東北地方にも住み着いていました。
ですから本州の関東以北にはアイヌ語の地名をいくつも残っています。
話はいきなり飛びますが、アメリカの内陸部の地名、河の名前がインディアン語のものが多いのです。私が住んでいたオハイオもそうですが、オハイオ州の河や地名の多くはインディアン語由来のものです。先住民は消えて行きます。しかし先住民の残した地名はアメリカに沢山あります。

下に「北海道の地名・駅名」についての資料をご紹介します。
これには北海道のアイヌ語由来の地名をカタカナや漢字で表すときの一般的な規則が分類され出ています。(Wikipediaの「北海道の地名・駅名」より抜粋)
北海道の地名・駅名は、概ね以下のように分類できる。
アイヌ語に由来するもの
アイヌ語に日本語(漢字)表記をあてたもの
アイヌ語をそのまま使用しているもの
内地からの開拓・入植に際して地名が決められたもの
周辺に存在した施設・自然状況、あるいは周辺の風土などから命名
上記によって定められた地名・駅名に、方向や大小などの接頭語・接尾語をつけたもの

@アイヌ語に由来するもの
アイヌ語地名に日本語風の地名・駅名につけるにあたっては、以下の方法が見られた。
アイヌ語に漢字の表記をあてたもの
アイヌ語の音に漢字をあてずカタカナで表記しているもの
@アイヌ語に漢字表記をあてたもの
老者舞(おしゃまっぷ)
音訳 - アイヌ語の「音」を流用し、漢字を当て字(仮借)したもの
意訳 - アイヌ語の「意味」を解釈し、似た意味の日本語を割り当てたもの
音訳したもの
音訳の例としては、「ホッキ貝の多い所」を表す「ポク・オ・イ」からとった母恋や、「川口の汚染された所」を表す「オ・トイネ・プ」からとった音威子府・音稲府(枝幸町)などがある。

また、アイヌの地名をそのまま日本語地名としては冗長であったりごろが悪かったりする場合には一部短縮・省略したものもある(オペレケレケプ->帯広、ピウカ->美深))。
これらは音のみに着目した「当て字」である。漢字は表意文字であるが、あてられた漢字の意味にアイヌ語原義との直接的な関連性があるとは限らない。例えば、北海道に数多く見られる「内」「別」は、それぞれアイヌ語で川を意味する「ナイ」「ペツ」に当て字されたものであり、「内側」「別れる」の意味は持たない。同じように「幌」は「大きい・広い」を意味する「ポロ」の当て字で、「幌」の字の持つ意味とは関係がない。
========以下省略します。==============

最後に一言余計なことを書かせて下さい。日本人は明治維新以来、アイヌ人を蔑視してきました。その証拠は1997年(平成9年)まで存続していました「北海道土民法」です。ですから「日本人の先祖はアイヌ人」という題目に感情的に反発する人がいます。貴方自身はどのようにお感じでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真はアイヌの血の濃い北海道の人々によるアイヌの再現写真です。写真の出典は、https://rurubu.jp/andmore/article/12912 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「戦後の米軍占領で日本は激変、アイヌの集落も消滅」

2024年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
1945年の日本の敗戦は日本人の価値感を根底から変革しました。男女平等の民主主義が社会構造をすっかり変えてしまったのです。戦後の米軍占領で日本は激変したのです。
今日は激変の一つの例として北海道のアイヌ集落の消滅をご紹介したいと思います。アイヌ集落 への差別が無くなったのです。
戦後は自由と平等の思想の普及しました。その結果アイヌ民族は次第に和人と結婚してアイヌの集落 から出て行きました。アイヌ民族の東北地方への移住も進みました。
こうして北海道に数多くあったアイヌ部落は一つ一つと消えて行ったのす。
ですから私は戦後の米軍占領でアイヌの集落 は消滅したと考えています。それは一つの戦後の歴史なのです。
私はこの問題に強い関心を持ち続けています。理由は私には移住して来たアイヌ人の少年と親しい友人になったからです。少年の頃の楽しい思い出は生涯忘れられないのです。
北海道に旅をするとあちこちにアイヌ民族の博物館があります。日高の平取や白老、そして旭川の郊外などにも民族博物館があります。アイヌ村落を復元した展示もあります。北海道大学の付属植物園の中にある博物館にはアイヌ民族関連の数多くの展示物もあります。函館市にもアイヌ文化を展示した博物館もあります。
北海道には第二次大戦の終戦までアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。戦後、アイヌ人だけの村落は次第に消えて行きます。
明治から昭和20年の終戦までの日本の政策によって、アイヌ人は土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも禁じられたのです。アイヌの集落 は困窮していました。
そして終戦後に、北海道のアイヌ人たちの一部は東北地方の開拓地に移住して来たのです。
私は仙台市に生まれ育ちました。そこへもアイヌ人一家が移住して来たのです。私はそのアイヌ人の一家の少年と仲良くなったのです。
仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。
1番目の写真は1904年に撮った北海道のアイヌの人々の写真です。
私の付き合っていたアイヌ一家の夫はこの写真の右から3人目のような風貌でした。

さてアイヌ民族は美しい文学作品も持っています。例えば「アイヌ神謡集」もその一つです。知里幸恵著、『梟の神の自ら歌った謡』をご覧ください。

詳しくは、http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/44909_29558.html をご覧下さい。
「アイヌ神謡集」を読むと、彼等が豊かな自然とともに幸せに暮らしていたことに感動します。フクロウやいろいろな神々をうやまい、家族を大切にし、心豊かに生活していたのです。

北海道は本州以南とは違った独自の歴史を持っているです。
旧石器時代から縄文時代までは北海道の歴史は本州とほぼ同じでしたが、その後の本州の弥生時代や古墳時代は北海道には存在しません。
その代わり、続縄文時代が本州での古墳時代の頃まで続いたのです。
その後は北海道のオホーツク沿岸地方はオホーツク文化時代とそれ以外の中部と南部の北海道では擦文文化時代が鎌倉時代のはじめまで続いたのです。

擦文文化時代とは、その時代の土器に筆で擦ったような模様がついていたのでそのような名がついています。
そして鎌倉時代の始めからは独自のアイヌ文化が成立し、そのアイヌ文化時代が明治維新まで続いたのです。
狭い意味でアイヌ民族と呼ぶのは、この鎌倉時代から明治維新まで続いた独特な文化の担い手の人々の事です。
広い意味でのアイヌ人とは旧石器時代から縄文時代まで北海道や本州にいた先住民族を意味します。

そのような特異な北海道の歴史については北海道教育委員会のHPで明快に説明してあります。そのURLは、http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htm です。

今日は戦後の米軍占領でアイヌの集落 は消滅したという戦後史をご紹介し、さらにアイヌ民族の文化と北海道の歴史を書きました。

挿絵代わりにもう2枚のアイヌ民族の写真を添付します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)