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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「長崎県の観光の案内」

2024年08月11日 | 写真
長崎県の観光の案を内をお送り致します。
世界遺産の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の12の構成資産のうち、11の構成資産は長崎県にあります。そのうち8つの集落に教会が建てられており、大浦天主堂と併せて9つの教会巡りは楽しい観光です。

詳しい長崎県観光の案内は、https://www.at-nagasaki.jp/feature/junrei-knowledge にあります。
添付の写真は﨑津教会です。

「今日はカトリック松原教会のミサにあずかりました」

2024年08月11日 | 日記
今日はインターネットを通してカトリック松原教会のミサにあずかりました。

ミサの動画配信は下記です。
https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/#:

添付の写真は今日の松原教会のミサの風景です。

〒156-0043
東京都世田谷区松原2-28-5
TEL.03-3321-0941   FAX.03-3321-0009

「夏になると思い出す暑い日の玉音放送」

2024年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム
今年も8月15日が近づきます。8月にはいろいろなことを思い出します。疎開した田舎の夏。学校で聞いた玉音放送、日本が戦争に負けたこと。田畑での手伝い。蝉取り。海水浴。海辺から見た大海原の風景、崩れる大波の音。高い青空に輝く太陽。
悲惨な沖縄戦、広島と長崎の原爆投下の後で日本は敗北したのです。
私は疎開先の田舎の小学校3年生でした。校庭で玉音放送を聞きました。帰りに田圃のあぜ道を歩きながら子供心にも敗戦の悲しみを噛みしめていました。暑い日でした。太陽が田圃のあぜ道を歩いている私に容赦なく照り付けていました。
あれから月日が流れました。私の人生にもいろいろな事がありました。しかし8月が来るたびに日本の敗戦のことやいろいろな事を考えるのです。
太平洋戦争は日本民族の歴史で初めての敗北です。外国の軍隊に占領されたのも初めてです。
当時は仙台市に住んでいましたが終戦後は占領軍のアメリカ兵が沢山歩いていました。ジープが走り回っていました。
仙台にあった第二師団の広い跡地はアメリカ軍の河内キャンプになり日本人は立入禁止です。仙台市の郊外の日本軍の施設や飛行場もアメリカ軍に占領されました。仙台で焼け残った民間の立派な家々も接収されてアメリカ軍の将校の家族が住んでいます。
ずっと後になって私は大学生になりました。卒業論文の指導をしてくれたのはM教授でした。ある時、M教授の自宅に招待されました。
建築家のライトが設計した暖炉のある立派な家でした。奇跡的に焼け残ったのです。M教授が「この家もアメリカ軍に接収されました」と言ったのです。我々はアメリカ軍を非難しました。そうしたらM教授が静かに言ったのです「戦争に負けるとはそういうことなのです」と。
M教授の顔には深い悲しみがありました。南の島々で戦死した自分の学生たちのことを考えていたそうです。
私は「戦争に負けるとはそういうことなのです」という言葉を忘れません。76年たちましたが毎年8月になると必ず思い出す言葉です。夏が来ると他の事もいろいろなことを想います。
当時は夏になると必ず海水浴に行ったものです。
海水浴と云えば仙台の近くの荒浜や菖蒲田の浜でした。そして松島の向こうには野蒜海水浴場があり、遠路にもかかわらず出掛けて行ったものです。その上、塩釜からポンポン船に乗って松島湾の桂島や宮戸島の海水浴場に何度も行きました。
ポンポン船と呼ぶ理由は、焼き玉エンジンの音がポンポンというからです。その音に合わせて白い煙を船のエントツから青空へ吐き出すのです。とても長閑な風景でした。当時は戦後の貧しい時代だったので夏の娯楽と言えば海水浴しかなかったのです。
一番懐かしいのは荒浜や菖蒲田や桂島の、そして野蒜海岸や宮戸島での海水浴の時見た大海原の風景です。
海水浴場の風景写真をインターネット探しました。

1番目の写真は茅ケ崎の海水浴場の写真です。誰もいません。自分で撮ったものです。

2番目の写真は昔から有名な大磯の海水浴場です。誰もいませんが、毎年夏には人で溢れる海水浴場です。
海はさまざまな風景を見せてくれます。もう2枚の写真をお送りします。写真の出典は、https://capa.getnavi.jp/special/259436/ です。



今日は夏が来れば思い出す玉音放送のことと大海原と海辺の風景写真をご紹介いたしました。こんな海と空の光景を見ると不思議に若かった頃の元気が湧き出して来ます。なんとか残暑の夏を過ごす決心がつきます。皆様も残暑をお元気でお過ごし下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「夏になると思い出す祖父が住職をしていた兵庫県のお寺」

2024年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム

祖父が住職をしていた曹洞宗の正林寺は兵庫県の猪名川町の内馬場にありました。私の父は長男でしたが寺を出て仙台の東北帝大の教授になっていました。正林寺に毎年夏に泊まりに行くのが我が家の恒例でした。少年の頃のことで茫々70年前のことです。兵庫県への長旅はまず東北本線の蒸気機関車で上野駅まで行きます。東海道線の電気機関車で梅田、大阪駅まで根気良く走ります。梅田から阪急電鉄に乗ります。野勢口で乗り換えて野勢の妙見さんの方面に行きます。その電車の「山下駅」で降ります。そこから内馬場は20Kmの遠方にあります。はじめはタクシーでしたが太平洋戦争でタクシーも無くなりました。オート三輪の荷台の乗って内馬場まで行きました。

正林寺は兵庫県の内馬場の小高い山の上にありました。その正林寺に似たお寺の写真を示します。インターネットからお借りしました。

1番目の写真は内馬場の昔の正林寺に似たお寺の写真です。現在の正林寺は改築され立派なお寺になっています。

2番目の写真は内馬場の集落に似た風景です。

3番目の写真は昔の正林寺にあった白壁の倉に似た倉の写真です。
祖父が亡くなった後は父の弟が後を継ぎました。
 昭和11年生まれの私は毎年、夏になると一家でその曹洞宗のお寺に帰省し、お寺の暮らしを体験しました。
お寺の暮らしが珍しい上に、お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年見たのです。
近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和します。そして銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き、お経を唱えるのです。

4番目の写真は施餓鬼供養のために集まった和尚さんです。これから儀式が始まる場面です。写真はインターネットからお借りしました。

5番目の写真は施餓鬼供養で数人の和尚さんが輪になって歩きながら読経をしている場面です。写真はインターネットからお借りしました。

村落の檀家の人々が本堂の後ろや両側の客間に溢れるように座っています。
本堂での施餓鬼供養が終わると叔父の住職さんは私に小坊主の法衣を着せて一緒に、村落の一軒、一軒を回り、お盆のお経を詠みます。お布施の小さい袋を戴くのが楽しみでした。
その後の夏休みの間は弟と一緒に村落の中を流れる小川で沢蟹を取ったり、通りかかった農家で西瓜をご馳走になったりしました。楽しい思い出です。
正林寺には優しい祖母がいました。孫の私と弟にスイカやソウメンをご馳走してくれ可愛がってくれました。
仙台までの長い汽車の旅のためにオニギリを沢山握ってくれました。
山間の水田に浸かってタニシを沢山拾い集めて煮てオニギリのおかずにしてくれました。帰りの東海道線の汽車の中で甘く醤油で煮たタニシの美味しかったことが忘れられません。その後タニシは食べたことはありませんが凄く美味かったことが忘れられません。
昭和50年代に祖父の高天秀嶽大和尚の33回忌の法要をしました。
それ以後、私はその正林寺とは一切疎遠になってしまったのです。
しかし正林寺の懐かしい光景は以後、私の心の中に鮮明に残っています。
今日は祖父が住職をしていた兵庫県のお寺の思い出を書きました。正林寺の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)