後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「長崎県と中国との交流の歴史」

2024年08月10日 | 日記・エッセイ・コラム
長崎県はもともと地理的に東アジアに近いため紀元前の昔から中国大陸や朝鮮半島と深い関わりをもってきました。
17世紀から19世紀にわたる日本の鎖国時代に海外との唯一の貿易の窓口であった長崎は、中国やオランダとの交易で栄えました。
当時、中国人の居留地であった唐人屋敷は、幕府の規制はあったものの比較的自由に出入りが許され、長崎に多くの影響を与えました。

長崎市の繁華街に近い中島川にかかる石橋群は、ほとんどが最初は中国人によって造られたもので、中でも、眼鏡橋はわが国最初のアーチ型石橋として国の重要文化財に指定されています。
市内の唐寺は、江戸初期に長崎に来航した中国人によって建てられたもので、そのうちの崇福寺で毎年行われている中国盆では、現在でも全国から集まった華僑や多くの見物客で賑わいます。
中国文化の影響は、ペーロン競漕、精霊流し、長崎くんちの奉納踊りの顔ともいえる龍踊りなど、長崎伝統の年中行事にも大きく影響を及ぼしています。

さらに、最近では、旧正月の春節の時期に、中華街を中心に15,000個のランタンが街を彩り、中国の皇帝パレードなどが市中を練り歩くランタンフェスティバルが新たな祭りとして長崎に根付き、期間中90万人を超える人出で賑わい、冬の風物詩として人気を博しています。
また、食習慣においても、チャンポンや皿うどん、豚の角煮などの卓袱料理など、長崎の食は、中国文化の影響を強く受けています。
以上は、https://nagasaki-nitchu.org/01history、の抜粋です。
写真は相生市のペーロン競漕です。

ペーロン(白い龍)は中国福州地方で始まった。 楚の名宰相屈原の霊を慰めるために龍船を造って競漕したことが、ペーロンの起源とされている。 日本では、明暦元(1655)年5月、長崎に来航していた中国船が船神に風の鎮静を祈ってペーロンを行ったことに始まり、長崎近郊では、夏の年中行事としてペーロンが催されている。

「長崎県の観光名所の写真」

2024年08月10日 | 写真
長崎県の観光名所の写真です。
長崎県には観光名所がたくさんあります。その7ケ所の写真をお送り致します。

1番目の写真は九十九島です。

2番目の写真はグラバー邸です。

3番目の写真は軍艦島です。

4番目の写真は出島です。

5番目の写真は眼鏡橋です。

6番目の写真はハウステンボスです。

7番目の写真はオランダ坂です。



「長崎県の魅力、美しい佐世保のカトリック三浦町教会」

2024年08月10日 | 写真
佐世保市の中心部にあるカトリック三浦町教会は、明治30年(1897)コンパス司教により小教区として設立されました。
その後、脇田浅五郎神父の尽力により、現在の教会が建立され、昭和6年(1931)10月1日早坂司教によって祝別された教会です。
戦時中は空襲を避けるためにコールタールを塗られ、 黒い教会となりました。 そして佐世保大空襲の時にも全く被害を受けず、 現在も建築当初の美しい姿を保っています。
ファサードのアーチ前には主が手を広げています。内部全体が白く、すべてのアーチは尖頭形で柱頭を有する円柱で、やや大きめな柱頭には入念な装飾が施されています。また天井はお決まりのリブ・ヴォールド天井になっています。









交 通、JR佐世保駅から徒歩3分です。
主日ミサは、土18:30 日6:30・9:00・13:00(英)・18:30 です。
主任司祭はペトロ中村 倫明神父です。
佐世保駅前の小高い丘の上に聳え立ち、そのゴシック建築の美しさとともに、佐世保を代表する名所となっています。
敷地内には長崎純心聖母会経営の聖心幼椎園があり、佐世保の歴史とともに多くの人々を世におくり出してきました。
 佐世保鎮守府の昔から、海軍基地としてて栄えた街で、造船所で生計をたてる信徒が多く、米海軍の軍人、家族の姿も一般の信徒に混じって見られます。

「長崎県の魅力、遥かな五島列島にある50もの天主堂」

2024年08月10日 | 写真
 五島列島は本当に遠い離れ島です。遥かに憧れて数十年、やっと2泊3日の旅で訪れることが出来ました。
3日間、観光バスで五島列島の険しい山々を越えて岬と岬の間にある小さな集落を幾つも巡り5つのカトリック教会を訪ねました。五島列島には全部で50ケ所のカトリック教会がありますので、訪問したところはそのほんの一部にすぎません。
訪れた5つの教会の家内が撮った写真をお送り致します。
1番目の写真は井持浦天主堂です。
 
 
2番目の写真は堂崎天主堂です。
3番目の写真は堂崎天主堂の祭壇です。
4番目の写真は青砂ケ浦天主堂です。
5番目の写真は青砂ケ浦天主堂の祭壇です。
6番目の写真は頭ケ島天主堂です。
7番目の写真真は中ノ浦天主堂です。
 
五島列島ではたった7万人の住民にた対して50もの教会が存在するのです。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「長崎県の魅力、世界文化遺産の隠れキリシタンの遺産群」

2024年08月10日 | 日記・エッセイ・コラム
長崎県は島が多く、魚介が豊富な県です。そして、横浜・神戸に次ぐ、中華街があるのが長崎市です。長崎のチャンポンと皿うどんは絶品です。牡蠣やイカなど長崎で取れた魚介をふんだんに使ったスープやとろみは美味しいものです。私も何度か長崎に行き長崎のチャンポンを食べ感動しました。
今日は長崎のチャンポンのことは割愛して長崎の潜伏キリシタンについて書きたいと思います。
さて「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は2018年に世界文化遺産へ登録されました。
江戸時代にキリスト教が禁じられても信仰を守った歴史です。長崎と天草地方において日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続けたのです。潜伏キリシタンの信仰継続の遺産群です。
それらの写真はインターンットからお借りしてお送り致します。出典は、
https://www.nagasaki-tabinet.com/feature/kirishitan です。

1番目の写真は大浦天主堂です。
国内現存最古の教会堂です。1864年に建設、日本二十六聖人に捧げられました。
献堂直後に浦上の潜伏キリシタンが訪れ自分たちの信仰を告白した「信徒発見」として有名です。

2番目の写真は外海の出津集落の天主堂です。
禁教期に小規模な潜伏キリシタンの信仰組織が連携し、聖画や教義書や教会暦などを密かに伝承し自分たち自身で信仰を続けた集落です。1882年にはド・ロ神父が集落を望む高台に出津教会堂を建てたのです。

3番目の写真は外海の大野集落の天主堂です。
禁教期に潜伏キリシタンが自分たち自身で組織的に信仰を続け、氏子となった神社に密かに自分たちの信仰対象を祀り、オラショ(祈り)を唱えるなど在来宗教と信仰の場を共有していた集落でした。

4番目の写真は奈留島の江上天主堂です。
禁教期に外海の潜伏キリシタンが、海に近い谷間に開けたわずかな平地に移住して固有の信仰形態を続けました。
解禁後はカトリックへ復帰し、禁教期以来の指導者の屋敷を「仮の聖堂」としていたが、やがて木造の教会が建てました。

5番目の写真は天草の﨑津集落の天主堂です。
禁教期に潜伏キリシタンが組織的に信仰を続け、アワビやタイラギの貝殻内側の模様を聖母マリアに見立てて崇敬するなど漁村独特の信仰を続けました。キリスト教解禁後は﨑津諏訪神社の隣に教会堂を建築しました。

構成資産や教会等を訪れる際は、是非ガイドと一緒に、その土地の自然景観、街並み、人々とのふれあいを楽しんでみてはいかがでしょうか。
関連の動画は、https://www.youtube.com/watch?v=iaSmpgElYHY にあります。

今日は長崎県の魅力として世界文化遺産の隠れキリシタンの遺産群をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)