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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「夏になると思い出す第二次世界大戦の犠牲者数」

2024年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
近年、日本の社会は軍備強化と自衛隊の海外派遣に賛成する政治家や国民が多くなりつつあります。そのせいで新聞には過去の戦争の犠牲者の数が掲載されなくなりました。
犠牲者数は日本が約300万、ドイツが660万人、アメリカが54万人と私は記憶していましたが、それ以外の国々のことは忘れていました。
この際、あらため調べてみましたら、以下の数字のようになりました。
以下の一覧表を見ると、日本軍の占領した中国やフィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシア、などの東南アジアで犠牲者が多かったのです。なかでもフィリピン、インドネシアでの犠牲者が突出しています。
最近はこの事実を忘れているのでしょうか?中国政府や韓国政府に言われるまでもなく日本人はこの歴史を真摯に見つめ直すべきではないでしょうか?戦争は敵味方すべての人を悪魔にします。
下の表を丁寧に見ながら、敵味方全ての犠牲者の悲運と遺族の悲しみを思い浮かべ、寄り添うようにしたいと思います。そして全ての死者に手向ける花として純白のモクレンの花を選び、その写真3枚をお供えいたします。
万感の思いをこめて合掌。

アジア各国の公式な統計は中国、タイ以外にはないという。
従って推計数値はいろいろある。
下の表は『一九九五年八月十五日に』(朝日新聞社)より。
(以下の出典は、http://www.geocities.jp/k_saito_site/hikiadememorial0.htmlです。)
日本 310万人 厚生省援護局(朝鮮、台湾の軍人・軍属各約2万2千、約3万人を含む)

中国 2100万人(37~45) 中国政府
2100万人から2300万人(37~45) 北京大学歴史学部王暁秋教授
1221万5000人(31年の満洲事変から通算) 東大史学編纂所・宮地正人教授
1000万人(31年の満洲事変から通算) 『高校日本史B』(実教出版)

朝鮮半島 少なくとも35万人から36万人 日本政府から伝えてきた軍人軍属名簿や被徴用労働者数などをもとにした韓国政府の推計
21万人 東大史学編纂所・宮地正人教授
20万人 『高校日本史B』(実教出版)

台湾 2万9000人 日本政府から台湾赤十字に提供された名簿
3万3000人 東大史学編纂所・宮地正人教授(いずれも日本軍に加わった軍人・軍属の合計)
香港 6403人 英連邦戦没者埋葬委員会の埋葬・火葬者数
365人(軍人)、1万人(監獄内の処刑などで民間人)6万人(飢餓) 香港総督の本国あて電文

シンガポール 4万人~5万人(華僑) 東大史学編纂所・宮地正人教授によると、現地の中国系社会や同国の研究者の間の定説
6000人から7000人虐殺 日本陸軍省報道部機密文書
8万人 『高校日本史B』(実教出版)

マレーシア 4万人から5万人(華僑) 東大史学編纂所・宮地正人教授

フィリピン 111万1900人 アラヤ博物館にある日比賠償交渉に関する外交文書
100万人 『高校日本史B』(実教出版)

タイ 7928人 タイ政府が47年に米国に報告した数字

インドネシア 400万人 51年のサンフランシスコ講和会議で、同国政府代表「日本占領期間中に被った人命の損失」
200万人 東大史学編纂所・宮地正人教授
200万人 『高校日本史B』(実教出版)

ベトナム 200万人 東大史学編纂所・宮地正人教授 ほとんどが餓死者とみられる
200万人 『高校日本史B』(実教出版)

ラオス 公式数字はない

カンボジア 公式数字はない

ミャンマー 5万人 『高校日本史B』(実教出版)

インド 350万人強 東大史学編纂所・宮地正人教授 ほとんどが餓死者とみられる

ソ連 1611万5千人(軍人611万5000人、民間人1000万人) 元防衛庁防衛研修所(現防衛研究所)戦史編纂官冨永謙吾氏の調査

ドイツ 660万人(軍人325万人、民間人335万人) 元防衛庁防衛研修所(現防衛研究所)戦史編纂官冨永謙吾氏の調査

ポーランド 555万人(軍人55万人、民間人500万人) 元防衛庁防衛研修所(現防衛研究所)戦史編纂官冨永謙吾氏の調査

米国 54万5108人(軍人) 元防衛庁防衛研修所(現防衛研究所)戦史編纂官冨永謙吾氏の調査

英連邦 59万2767人(軍人53万2178人、民間人6万595人) 元防衛庁防衛研修所(現防衛研究所)戦史編纂官冨永謙吾氏の調査

イタリア 55万9803人(軍人38万人、民間人17万9803人) 元防衛庁防衛研修所(現防衛研究所)戦史編纂官冨永謙吾氏の調査

フランス 43万3000人(軍人24万5000人、民間人18万8000人) 元防衛庁防衛研修所(現防衛研究所)戦史編纂官冨永謙吾氏の調査

添付の写真は自分が撮ったものです。

「夏になると思い出す白樺湖高原、車山高原、霧ケ峰高原の草花の群れ」

2024年08月15日 | 写真
夏になると白樺湖高原、車山高原、霧ケ峰高原の草花の群れを思い出します。
標高2000m位の高原の連なりには白いシシウド、ギボシ、青いツリガネニンジン、ピンクのヤナギラン、オレンジのキスゲ、コオニユリ、そしてフジバカマ、アザミ、などなどの花の群れが咲いています。
写真を撮っていると乾いた涼風が吹き渡り花々が揺れています。都会の暑さが嘘のようです。涼しい風をご想像されながら写真の花々をお楽しみ下さい。
撮影場所:長野県、白樺湖高原、車山高原、霧ケ峰高原、

「終戦を告げる玉音放送」

2024年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
私は疎開先の宮城県の北部の田舎の小学校の校庭に直立して聞きました。暑い夏の日でした。

朕󠄂深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ吿ク
朕󠄂ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通󠄁吿セシメタリ
抑〻帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦󠄂共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺󠄁範ニシテ朕󠄂ノ拳󠄁拳󠄁措カサル所󠄁
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所󠄁以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主󠄁權ヲ排シ領土ヲ侵󠄁スカ如キハ固ヨリ朕󠄂カ志ニアラス・・・以下省略

朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ
朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり
そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず・・・以下省略


玉音放送の音声です。https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/...


「夏になると思い出す大空襲、そして空襲したアメリカ兵と友人になる」

2024年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、毎年、8月15日の終戦の日が近づくと大空襲の光景を思い出します。
当時私は国民学校3年生でした。私が立っていた小高い山の眼下に一面に燃え盛る仙台市が広がっていました。一夜にして焼け野原になりました。B29が123機来襲して一気に焼く尽くしたのです。

そして全国の数多くの都市が、1945年7月に、アメリカ空軍のB29の編隊による焼夷弾攻撃で焼きつくされたのです。
戦後すぐに吉田首相はその中から115市町村を選び復興事業の予算を交付します。下記のように日本全国のほとんど全ての都市がB29の焼夷弾で焼きつくされたのです。

根室市,釧路市,函館市,本別町、青森市 、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、東京都の区の存ずる区域,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。

名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、高松市 、

徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町,枕崎町,山川町,垂水町,東市来町,西ノ表町 (沖縄は当時、アメリカ領)

1945年7月10日の午前0時から仙台は123機のB29によって焼きつくされました。
9歳であった僕は、向山の高台から市街地が一面の火の海になっているのを立ち尽くして見ていました。

1番目の写真は焼野原になった仙台です。写真の出典はWikipedeaより。

それから15年後にオハイオ州立大学へ留学したとき、クラスメイトに14歳年上のオートンさんという空軍大佐が居ました。

2番目の写真はB29です。
B29写真の出典:http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/ok_b29.museum.html
オートンさんは戦争中はこの写真のようなB29に乗り組んでいたそうです。
どういう訳かオートンさんとは親友になり彼が死ぬまで交友が続きました。
オートンさんはB29爆撃機を操縦して日本へ何度も飛んできて焼夷弾を落とした男です。大きな体、坊主頭、赤ら顔のカウボーイのような男でした。
面倒見のよい人で、英語のできない私にノートを見せてくれ、何度も家に招待してくれました。当時、彼は空軍大佐でしたが、引退後は大学の先生になろうと博士課程を取っていました。

オートン氏のことを思い出すと、1945年7月、少年であった私の目の前で一面火の海になった仙台の町々、空襲の大火に映しだされるB29の白い機体のゆっくりした動きを思い出します。
憎しみも悲しみもない走馬灯のように。 オートン氏は2006年の末に亡くなりました。花輪を送り、遠くから冥福を祈るだけです。

3番目の写真はアメリカ軍の墓地です。オートンさんはこのような墓地に眠っています。墓地の写真の出典:http://www.remus.dti.ne.jp/~aga/wdc/106.html

いくら年をとっても仙台の大空襲の光景とオートンさんの思い出が一緒になって私の目に見えるのです。

それにしても凄惨な戦争でした。

亡くなった日本の人、アメリカの人のご冥福をお祈り申し上げます。後藤和弘