後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「中世の暗黒を打ち破ったフランス革命」

2023年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ヨーロッパの中世は暗黒でした。魔女狩りと魔女裁判や30年戦争やハプスブルグ家の横暴や騎士道の暴力の横行がありました。権力者が一般庶民を厳しく支配していました。個人の人権なぞ全く無かったのです。
そんな中世の暗黒社会を打ち破ったがフランス革命でした。
今日は人類の歴史を大きく変えたフランス革命について書いてみたいと思います。
(1)フランス革命は何時起きたか?
フランス革命は1789年から1799年の10年間に起きました。ナポレオンがフランスを統治する直前に起きました。フランス革命で市民がバスチーユ牢獄を襲撃した 7月14日は現在、「革命記念日」としてフランスの祝日です。封建制度の廃止や人権宣言がなされ人類の歴史に大きな影響を及ぼした世界の大事件でした。
(2)「自由、平等、博愛」のスローガン
中世の ヨーロッパは国王が統治する絶対王政が敷かれていました。王族や聖職者、貴族と、市民階級という身分差の厳しい社会でした。この不公平さに怒れる市民が起こしたのがフランス革命です。
 この革命によって、フランスは近代民主主義国家になりました。スローガンの「自由、平等、博愛」は有名です。
(3)バスチーユ牢獄の襲撃の目的
 事の起こりは1789年5月、パリの郊外のベルサイユで第一身分である聖職者、第二身分である貴族と、第三身分である市民が一堂に会する「三部会」が召集されたことです。そして政治犯の釈放のためにバスチーユ牢獄を襲撃し政治犯を解放したのです。
(4)ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑
1792年、国王ルイ16世は外国と手を結んで革命側に圧力をかけようと試みます。しかし国王一家は市民に捕まりタンプル塔へ幽閉されます。そして「祖国と革命に対する裏切り」という理由で、1793年1月21日にルイ16世はギロチンで処刑されます。そして1793年10月には、王妃マリー・アントワネットの処刑が執行されギロチンの露となったのです。
(5)その後の紆余曲折
その中、1794年にテルミドールのクーデターが起きます。テルミドール派が政権を握り、1795年10月27日に総裁政府が設立します。しかし不安定な情勢が続きました。そこで市民は、軍隊とその指導者であるナポレオンに信頼を寄せるようになったのです。この信頼がフランス革命の直後にナポレオンをフランスの皇帝にしたのです。ナポレオンは1804年に皇帝に即位し、フランス最初の帝政である第一帝政を行います。 
10年もかけて終結したフランス革命では何人もの権力者が争い、命を落としました。 
当時、モンテスキューやルソーの啓蒙思想が広まり、この啓蒙思想が革命を支えました。伝統的な偏見を打ち破り、人間の可能性を合理主義によって切り開こうとする考え方です。
(6)人権宣言は現在も輝いている
1789年に採択された人権宣言は、正式には「人間および市民の権利宣言」と呼ばれます。その内容は啓蒙思想の影響を色濃く受けていて、権力の分立、租税の平等やその権利と義務、自由、所有権などについてが宣言されました。それは現代の日本社会の基礎となる考え方です。
(7) フランス革命後のフランスの政治
 フランス革命が終息した後のフランスの政治は、実はそのまま近代の体制へ移行したわけではありません。ナポレオンの即位によって始まる第一帝政から、再びブルボン家による王政復古が起きるまで紆余曲折があったのです。
しかし20世紀の現在は フランスは1世界の模範となる自由な民主国家になっています。

今日は人類の歴史を大きく変えたフランス革命について書きました。その人権宣言は現在も輝いているのです。

添付した油彩画はフランス革命の騒然とした様子を描いた絵画です。絵画は「フランス革命の写真」を検索してインターネットにある絵画をお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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