goo blog サービス終了のお知らせ 

後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「嗚呼、懐かしい木炭自動車の姿」

2024年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム
戦中、戦後、日本ではガソリンが無くなり、木炭自動車が走っていました。
バスは後ろに大きな窯を背負って、坂道に来ると乗客が降りて押しています。私も一家で海水浴へ行く時のバスは決まって木炭バスでした。坂にくると父が他の乗客とともにバスの後を押していました。あれ以来、70余年、すっかり忘れていました。ところが最近、日常的に木炭自動車を使っていた老境の人に会いました。その方は昭和19年まで木炭自動車を運転していたそうです。
木炭自動車とは木炭を縦形の大きな窯で燃やして、一酸化炭素ガスを発生させて、それをエンジンへ適量の空気と共に供給し、爆発させ、シリンダーを上下させ、車を動かすそうです。
ガソリン車へ木炭窯を取り付け、少しの改造で出来るそうです。実際に使っていた方の話では、一番大変な仕事は3時間毎に灰や燃えカスを取り出して、炭が燃え上がるようにする作業だそうです。出発する時も、30分前から炭を燃やさないとエンジンが回らないので毎日の仕事が大変だったそうです。それに遠方へ行く時は木炭を多量に積んで行かなばなりません。
そんな苦労をしても自動車は多くの人間を乗せて遠方まで行けるので重宝したそうです。
現在は完全に消えてしまったのかと調べて見たら、広島に木炭自動車の博物館がありました。木炭自動車館です。
( 木炭自動車とレトロ車館、ttp://www.mokutancar.com/html/process.html )
その他少数の人が趣味的に動かしているようです。
木炭自動車館のHPから木炭自動車の写真を示します。
1番目の写真は戦中、戦後に日本で一般的に使われていた木炭バスです。
2番目の写真は第二次大戦中のドイツで使われていた木炭乗用車の写真です。日本でも走り回っていました。
3番目の写真は戦争中に日本で使われていた木炭トラックです。

4番目の写真は最近の木炭乗用車の写真です。少しの人が趣味的に使っているようです。
さて木炭自動車館ができた経緯です。
昭和初期は、ガソリンを買うのが難しい時代でした。
支那事変半ばより、ガソリンが統制と配給の時代になり、木炭自動車が増えました。大東亜戦争に突入し、経済封鎖のためガソリンがますます入手困難になります。そんな事情で木炭自動車が普及したのです。
そして2009年03月に広島市に木炭自動車館が出来たのです。
 (http://www.mokutancar.com/html/process.html )
木炭自動車は、日本では昭和12~13年から20年頃までに使用されていました。現在の趣味的な木炭車は昔の設計を少し改良して全てステンレスで製作したものです。4番目の写真です。(http://www.mokutancar.com/html/whatmokutancar.html )

今日は懐かしい木炭自動車をご紹介いたしました。昭和12~13年から20年頃までに使用されていた自動車でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

「猪熊弦一郎の「マドモアゼルM」」

2024年08月14日 | アート・文化
「マドモアゼルM」は戦争中の1940年の作品で、 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館いあります。彼の代表作です。
https://www.fashion-press.net/news/90987
猪熊弦一郎は、1902年に香川で生まれた、20世紀日本を代表する画家だ。戦前にはパリ、戦後は東京、ニューヨーク、ハワイと拠点を変えつつ活動するなかで、猪熊の画風は具象画から抽象画へと変化し、晩年には具象と抽象の枠を超えた作品を制作。また、戦後には三越の包装紙デザイン、慶応義塾大学学生ホールや上野駅中央コンコースの壁画を手がけるなど、社会との関わりも強めていった。
1938年には渡仏し、最先端の芸術都市であったパリでアンリ・マティスやパブロ・ピカソと交流。しかし、第二次世界大戦が勃発すると帰国し、フィリピンやビルマに派遣されて作戦記録画を手がけている。戦後、1953年に父を看取ると、自身の画業の見直しと画家としての再出発を志してパリに向かうことを決意。しかし、その経由地点として滞在したニューヨークでソール・スタインバーグやマーク・ ロスコらとの交流が生まれ、同地に居を定めることになる。

「松本 竣介の暗くて美しい油彩画」

2024年08月14日 | 写真
松本 竣介(1912年4月19日 - 1948年6月8日)日本の洋画家。太平洋戦争が始まる8ヶ月前の1941年(昭和16年)4月、軍部による美術への干渉に抗議して、美術雑誌『みづゑ』437号に「生きてゐる画家」という文章を発表したことはよく知られている。都会の風景やそこに生きる人びとを、理知的な画風で描いた。
詳しくは下記にあります。
https://ja.wikipedia.org/.../%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E7%AB%A3...

「戦没画学生の油彩画、追加」

2024年08月14日 | アート・文化
戦没画学生の油彩画を追加いたします。

1番目の写真は無言館の本館の内部です。

2番目の写真は伊澤洋『家族』です。

3番目の写真は田中兵部「婦人像」です。

4番目の写真は佐久間修「静子像」です。

5番目の写真は日高安典『裸婦』です。

「夏が来ると思い出す戦没画学生の無言館」

2024年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前の昭和11年に生まれた私は毎年、夏が来ると太平洋戦争のことをいろいろと思い出します。昭和20年7月10日の仙台大空襲の紅蓮の炎、一面の焼け野原の光景は心に焼き付いています。そして戦後の疲弊しきった日本、殺伐とした社会、食糧難の戦後、それらは忘れようとしても忘れられません。
ですから毎年夏が来ると第二次世界大戦のことを思い出します。
8月15日の昭和天皇の終戦の言葉は疎開先の農村の国民学校の校庭で聞きました。暑い夏の陽が射していました。
太平洋戦争は日本民族の歴史において空前絶後の大事件でした。
日本人が310万人も死に、中国人は1000万人、アメリカ人が40万人も死んだのです。
朝鮮人は軍人が22万人、一般人が2万人死亡しました。台湾人は軍人が18万人、一般人が3万人死亡しました。

今日は戦没画学生の遺作を展示している無言館をご紹介致します。
「無言舘」へは泊りがけで訪ねました。無言舘は、長野県上田市、別所温泉近くの山中にあります。車で、山の中を探しあぐねた末にやっと辿り着ました。
鎮魂という言葉を連想させる、修道院のようなコンクリート製の建物でした。
戦没画学生の作品を常設展示しています。館長が遺族を訪問し、一枚一枚集めた絵画です。

1番目の写真は無言館です。
戦没画学生の多数の遺作絵画は、NHKきんきメディアプラン発行、「無言館 遺された絵画」2005年版に掲載されています。
その中から4枚の油彩画をご紹介します。

2番目の写真は神戸のトーア・ロードの風景を描いた杉原基司さんの作品です。
杉原基司さんは神戸生まれ、東京美術学校を卒業し、戦闘機に乗りました。昭和20年2月16日、厚木飛行場の上空で来襲して来た米軍機と空中戦をし激墜され戦死しました。享年23歳でした。
・・・・・・戦死した後で妹が書いています。・・・・・・
水泳部で派手に水しぶきをあげていた兄。
ガラスの窓にドクロの絵を描いて妹の私を泣かせた兄。
クラシックと讃美歌しかなかったわが家でジャズやクンパルシータを初めて聞かせてくれた兄。
そんな兄が、美校を卒業して海軍予備学生となり、沢山の兵隊さんが死ぬゼロ戦を志願したのは、やっぱり持ち前の好奇心”飛行機に乗りたい”と思ったからでしょうか?
昭和20年2月16日、、、、厚木上空に初めて米軍戦闘機が来襲したとき兄は23歳の生命をちらしました。・・・・・・・・・・・

3番目の写真は興梠 武さんの「編物をする婦人」です。
興梠 武さんは東京美術学校卒。昭和20年8月8日ルソン島、ルソド山にて戦死。享年28歳。
この絵は一番下の妹の絵。絵を描いて出征し、妹は間もなく病気で死にます。その報告を戦場で受け取った興梠 武さんは半狂乱になったそうです。
間もなく天国で二人は会って、静かに見つめあって暮らしていると信じています。ご冥福をお祈りいたします。

4番目の写真は戦没画学生、金子孝信さんの「子供たち」です。
金子孝信さんは大正4年、新潟県生まれ。昭和15年、東京美術学校卒業。同じ年に入隊し、仙台の予備士官学校を出て、昭和17年5月27日に中国の華中の宣昌にて戦死。享年26歳。出征の朝までアトリエで天の岩戸を題材にした大作を描きつづけていました。見送りに来た友人に「これは自分の最後の作品。天地発祥のもとである天の岩戸に自分は帰っていくんだよ」と言って出征していきました。そしてそのとうりになったのです。姉を描いた美しい日本画もありますが、ここでは「子供たち」という題の日本画を掲載します。彼の家は代々、由緒正しい神社の宮司だったのです。

5番目の写真は戦没画学生の片桐 彰さんの「街」です。
片桐 彰さんは大正11年、長野県生まれ、昭和17年に京都高等工芸学校卒業後すぐに入隊。昭和19年7月28日、マリアナ諸島にて戦死。享年21歳。
残された妹の思い出です。「私をよく映画に連れていってくれました。戦地へゆく直前、{オーケストラの少女}という映画を見に行ったことがありました。映画の筋書きはとうに忘れてしまったけれど、戦争のことを考えながら二人で歩いた夜のまっすぐな兄さんの背中が忘れられません。」
戦没画学生の絵画はもっと多数ありますが、悲しくなるので4枚だけで止めます。

しかし最後に声を大にして言いたいことがあります。
戦没画学生は戦死した40万人のアメリカ兵の中にもいた筈です。戦死した1000万人の中国人の中にもいた筈です。
戦死した350万人のインド人の中にもいた筈です。戦死した400万人のインドネシア人の中にもいた筈です。
そして戦死した111万人のフィリピン人の中にもいた筈です。戦没画学生は日本だけではないのです。
全ての戦没画学生の無念さを想うと粛然とせざるを得ません。
そして志なかばで戦死したのは戦没画学生だけではなかったのです。あらゆる分野で若い人々が戦死したのです。
戦争の悲劇は筆舌には尽くせないのです。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)