後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「東京湾のミズリー号での降伏文書の調印式」

2024年08月16日 | 国際・政治
1945年9月2日に東京湾のミズリー号での降伏文書の調印式で太平洋戦争が終結しました。
歴史上最も多くの被害と戦死者を出した戦争は、このわずか23分間の式によって終結したのです。
9時2分に日本の降伏文書調印式が始まりました。まずマッカーサーが行ったスピーチのあと、日本の天皇と政府の代理として重光葵外務大臣が署名を行い、続いて日本軍の大本営の代表として梅津美治郎参謀総長が署名をしました。

そして、続いて各代表も以下の順番で署名を行いました。
アメリカ合衆国代表 チェスター・ニミッツ
中華民国代表 徐永昌
イギリス代表 ブルース・フレーザー
ソビエト連邦代表 クズマ・デレヴャーンコ
オーストラリア代表 トーマス・ブレイミー
カナダ代表 ムーア・ゴスグローブ
フランス代表 フィリップ・ルクレール
オランダ代表 コンラート・ヘルフリッヒ
ニュージーランド代表レナード・イシット
全ての代表の署名が終わり、マッカーサー元帥が神への短い祈りを述べた後、調印式は約23分で終了し、戦争は正式に終結しました。

「アメリカ軍による日本占領と日本社会の改革」

2024年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
1945 年の敗戦後、日本に対して行われた占領統治のしくみはどのようなもので、どの
ような改革が行われたのだろうか。また、戦後の日本社会を方向づける大きな役割を担っ
た日本国憲法は、どのような経緯で、どのような歴史的背景のもとに制定されたのだろう
か。これらの事柄について、新たな世界秩序を形成した冷戦体制と、それが日本社会に及
ぼした影響にも注目しながらまとめてみましt。
下記の出典は、https://www.nhk.or.jp/kokokoza/nihonshi/assets/memo/memo_0000000627.pdf です。

占領統治下の諸改革
日本が受諾したポツダム宣言にもとづき、マッカーサーを最高司令官とする連合国軍が日本
に進駐してきた。マッカーサーは、GHQ(SCAP・連合国軍最高司令官総司令部)を東京に
設置し、占領政策を日本政府に指令する、間接統治の方法をとった。
占領政策の基本方針は、軍国主義の排除と民主化に置かれた。まず軍隊が解体され、さらに
戦争指導者たちが逮捕されて、うち28人がA級戦犯容疑で起訴され、東京裁判で審理された。
民主化については、GHQは日本政府に
(1)女性の解放
(2)労働者の団結権の保障
(3)教育の民主化
(4)秘密警察制度の廃止
(5)経済の民主化
の五大改革を指令した。これにより、選挙法が改正されて満20歳以上の男女に参政権が与え
られて女性議員が誕生し、労働組合を育成する法整備がすすみ、教育基本法や学校教育法が制
定されて、6・3・3・4制の学校制度がはじまった。また、治安維持法や特別高等警察は廃止
され、財閥解体と農地改革が実行された。
このように、GHQの占領政策によって日本社会の民主化が進む一方で、国土は荒廃し、失
業者の増大や食糧難、激しいインフレにより、日本国民の生活難は深刻であった。

日本国憲法の制定

1945年10月、GHQは幣原喜重郎内閣に憲法改正を指示した。翌年2月に出された憲法
改正要綱が保守的であるとしてGHQはこれを拒否し、日本の民間憲法草案や外国の例を参考
にして独自の改正案を作成した。政府はこれをもとにあらためて改正案を作成し、4月に憲法
改正草案として公表した。この案は、さらに帝国議会での審議を経て、1946年11月3日に
日本国憲法として公布され、1947年5月3日から施行された。
新しい憲法では、
(1)国民主権
(2)基本的人権の尊重
(3)戦争放棄(平和主義)
の3原則が示され、天皇は国民統合の象徴と定められた。
日本国憲法の制定にもとづき、多くの制度が改革された。また、地方自治体の首長が住民の直
接選挙によって選ばれることを定めた地方自治法や、男女同権の新しい家族制度を定めた新民
法などが制定されたり、違憲立法審査権をもつ最高裁判所が設置されたりした。

冷戦の開始と経済復興
第二次世界大戦による多大な犠牲を反省した連合国側諸国によって、1945年10月に国際
連合(国連)が創設された。その中心は安全保障理事会で、アメリカ・イギリス・フランス・
ソ連・中国の5か国が常任理事国となった。
しかし、1947年ころから米ソのあいだに冷戦とよばれる対立が明らかとなり、国連の安全
保障体制が動揺するようになった。1949年にアメリカと西ヨーロッパ諸国が北大西洋条約機
構(NATO)を結成すると、ソ連は1955年に東ヨーロッパ7か国とワルシャワ条約機構を
結成して対抗した。こうして形成された西側(資本主義・自由主義陣営)と東側(社会主義・
共産主義陣営)の二大陣営による冷戦体制は、その後、長く国際社会に強い影響を与えた。
アメリカとソ連によって分割占領されていた朝鮮半島では、1948年に大韓民国(韓国)と朝
鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とに分離独立した。中国では、アメリカの支援を受けた国民
党との内戦に勝利した共産党によって、1949年に中華人民共和国が樹立された。
こうしたなかで、アメリカの対日政策は、それまでの民主化優先から、日本を自由主義陣営の
有力な国家に育てようとする方針に転換していった。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、日本
は国連軍が出撃する基地となり、その特需によって日本経済は息をふきかえした。一方で、共
産主義者を追放する動き(レッド・パージ)が強化されたり、公職追放の解除によって復帰
する人があらわれたりした。また、在日アメリカ軍が朝鮮戦争に出動すると、GHQの指令に
よって警察予備隊が創設された。

写真はマッカーサーたちと占領軍の様子です。

「衝撃的な光景を見て戦後の農地解放を理解した」

2024年08月16日 | 社会・経済
私は衝撃的な光景を見てしまったのです。地主の妻の祖父が高い縁側に座り、3人の小作人が庭の地面に這いつくばり話している光景を見てしまったのです。それは私にとって驚くべき光景でした。
その場面を見て地主と小作人の関係が一瞬にして理解したのです。
そして戦後の農地解放の重要性が理解出来たのです。マッカーサーの偉さが分かったのです。
今日はマッカーサーの農地解放の説明をお送り致します。
農地改革の時代には、日本の農業は牛を使って手作業で行なわれていました。

1番目の写真は牛を使って手作業で行なわれてい水田の田おこしです。1958年の毎日新聞社の」紙面です。http://www.crosscurrents.hawaii.edu/content.aspx?lang=jap&site=japan&theme=food&subtheme=AGINDSTRY&unit=JFOOD007 

戦後日本の農地改革は連合国総司令部(GHQ)が行いました。
これは最も成功した占領期の改革の一つとされ、諸外国における土地改革のモデルとなりました。
改革の目的は、農地を所有しながら自らは耕作をしない地主と、土地を借りる代わりに農作物の大半を地主に納める小作農との格差を縮めることでした。
農地改革に関する法律は、農地を耕作農民に解放する立場から、一世帯が所有できる農地を家族が自ら耕作できる面積に制限しました。特に所有地に住んでいない不在地主からは国がその所有地の4ヘクタール(10エーカー)をこえる分を強制的に買収して、小作人に売り渡しました。
その結果、小作農のほとんどが自作農となり、農民の暮らしは大幅に改善されたのです。

農地改革は、戦後の農村社会の構造を大きく変えるのに大きな役割を果たした改革であ
ったのです。改革の結果、農業経営の発展、貧困からの脱却の志向が開花するなど、前向きな姿勢が民衆の間からあらわれたのです。これまでの農村の社会構造を変革したのです。
この改革によって、経済の民主化が成功を収めたことは評価されています。
戦後農地改革はこれまでに踏み込むことさえ出来なかった地主的土地所有制度の根幹に触れるものであったという点がほかの改革と異なるのです。
農地改革の持つこのような性質こそ現在でも積極的に評価されるべきです。それは、「最大多数の最大幸福」を実現するということでした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。後藤和弘(藤山杜人)

「時代は流れる、消えた沼と亜炭と長火鉢と蚊帳」

2024年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
世の中は足早やに変化するものです。長生きしているとそう感じます。今日は
消えた沼と亜炭と長火鉢と蚊帳を例にして世の中のに変化を示したいと思います。
皆様が子供の頃にあった長火鉢と蚊帳が今もありますか?釣りをしたり、遊んだ川や沼はまだ現存していますか?子供の頃には炊事のための燃料や風呂釜の燃料は何だったのでしょうか?
はじめの話は昔、私が釣りをしていた三つの沼と自宅で燃料にしていた亜炭という不思議な燃料が跡形も無く消えてしまったという話です。完全に消えてしまったのです。
それは故郷の仙台市の向山という地区のことです。その地区に越路路地丁があります。そここにはバス通りがあり長徳寺や大満寺があります。そのバス通りに沿って3つの沼が並んでいて、そこで私は小ブナを釣ったりオタマジャクシを捕って蛙にさせたりして遊んだものでした。
昔の滝の口渓谷の下流の川になっていたところで窪地になっていた場所なので沼や湿地になっていたのです。
何時の時代かに経が峰の西側が広瀬川によって浸食され、滝の口渓谷の川が経が峰の西側で直接、広瀬川に流れるようになったのです。その結果、向山を流れていた川が無くなり湿地や幾つかの沼になっていたのです。
それが東京オリンピック後の経済成長にしたがって、湿地も、3つの沼も完全に埋め立てられフナ釣りをした沼はガソリンスタンドになってしまいました。そして他の沼もみな新しい住宅になってしまったのです。
昔の風景は想像も出来なくなりました。この世から完全に消えてしまったのです。
完全に消えてしまったものといえば亜炭という不思議な燃料があります。
大正、昭和、そして戦後にかけて向山には数々の亜炭を掘り出す横穴がありました。子供のころはその亜炭の横穴に出入りするトロッコに乗って遊んだものです。横穴は電燈もない暗闇でした。怖くて2、30mも入ると逃げ出してきたものです。
向山の住民はこの亜炭を八鉱社という元締めから買って炊事や風呂の燃料にしていたのです。
夕方になると、亜炭の煙の独特な臭いが流れてきます。亜炭は石炭になる前の黒い炭化した木材で、仙台の郊外で当時掘りだされていたのです。
燃料にするだけでなく埋木細工を作ってお盆や皿や飾りものにして仙台名物のお土産として売っていたのです。埋木細工をする職人の仕事が格子窓を通うして見えました。子供心にその彫師のノミの動きに感動して、あかずに覗き込んでいたものです。そんな工房が3軒あったのです。
その埋もれ木細工の職人の工房も完全に消えてしまいました。
故郷の風景が消えてしまい悲しいという記事を以前に掲載しましたら、仙台在住の郷土史家の三原征郎さんから何度も写真を送って頂きました。
下に送ってもらった2枚の写真をしめします。

1番目の写真は向山です。写真の右側の建物の並んでいる裏が沼があったところです。すっかり建物が沼の跡地を覆っています。

2番目の写真が現在の鹿落ち坂の様子です。左の白い車の上の平地が昔、鹿落温泉の建物があった場所です。

3番目の写真は戦前の暖房器具の火鉢です。手先は暖まりますが背中が寒いのです。

4番目の写真は長火鉢です。鉄瓶がかけてあって何時もお湯がわいていました。写真のように餅などを焼いたものです。

5番目の写真は夏に寝る前に吊るす蚊帳です。蚊帳の中に布団を敷いて寝るのです。

今日は消えた沼と亜炭と長火鉢と蚊帳を例にして世の中のに変化を示しました。
現在は沼も亜炭も長火鉢も蚊帳も完全に消滅してしまいました。世の中は足早やに変化するのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。後藤和弘(藤山杜人)