後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「長野県出身の善光さんと飯田市と長野市と甲府市の善光寺」

2024年08月03日 | 旅行記
善光寺は3つあります。飯田市と長野市と甲府市の善光寺です。私はこの3つを参拝しました。何故か幸福感につつめる良い雰囲気のお寺です。
そんな訳なので善光寺を建てた善光さんのことを書きたいと思います。
今から1400年ほど前、現在の飯田市郊外(信州麻績の里)に本多善光(よしみつ)さんという人が住んでいた。
ある時、善光さんが都へ帰る国司について行った。ところが難波の堀の中から一光三尊の像を見つけて、それを拾い上げ、持ち帰った。
自宅の臼の上に像を祀り、拝んでいたところ、台座の臼が光り輝いた。それで座光寺(善光寺)を作ったという(推古天皇10年)。
それから41年ほどして皇極天皇元年に勅命によりご本尊を長野へ移し、現在の長野、善光寺が出来た。
移転した善光寺のあとには以前のご本尊と同じ形の木像をつくり、座光寺を存続させた。そのような経緯から、座光寺は元善光寺とも呼ばれるようになった。長野へ引っ越したご本尊は毎月15日には飯田の元善光寺へ帰り、麻績の里人を守ると信じられている。

簡略に言えば、善光さんが偶然、難波の堀から拾ってきた仏像で座光寺を作った。人々はその寺を善光さんが作ったので善光寺と呼んだ。ところが41年後、勅命によって善光寺は長野へ引越ししてしまった。残った寺には以前と同じ形の木像を祀り、元善光寺と呼ぶようになった。(現在はその付近の地名を座光寺という)

さて甲府市にも立派な本堂を誇る善光寺がある。この三つ目の善光寺は長野の善光寺が出来てから、約800年位後に武田信玄が長野を攻略、占領したときに権力を用いて善光寺をご本尊とともに甲府に持ってきたものである。しかし、武田家の滅亡後、ご本尊や数々の寺宝は長野の善光寺へ返された。
甲府の善光寺誕生の経緯はあまり自慢に出来ないようなことではあったが、甲州の人々の仏様を信仰する篤い気持ちによって甲府の善光寺も立派に存続しています。
三つの寺とも善光さんの木像が安置されていますが、珍しく思ったのはどれにも夫人の像が同じ大きさで並べられていることです。
私は三つの善光寺を廻り終わって、色々な感慨を持ちます。その一つは素朴な信仰心の美しさが三つの善光寺を支えてきたということです。善光寺は仏教のどの宗派にも属せず、人々の信仰だけで存続してきたのです。
簡単ですが、飯田市と長野市と甲府市に3つの善光寺ある理由を説明しました。
添付の写真は長野市の善光寺です。

1番目の写真は県長野市元善町491にある善光寺です。本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)で絶対秘仏です。この本堂は国宝です。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA です。

2番目の写真は長野市の善光寺の山門です。自分で撮った写真です。

3番目の写真は善光寺の塀と本堂です。

4番目の写真はお寺の中にある戒壇入り口です。自分で撮った写真です。

「長野県の上高地の絶景風景」

2024年08月03日 | 写真
「長野県の上高地の絶景風景」
何度も訪れた上高地です。上高地は神々しい別世界です。険しい山々をバスで根気よく登り、最後の長いトンネルを抜けると、いきなり眼前に穂高の連峰が広がり、大正池と梓川が夢幻のように美し盆地を作っているのです。
撮った写真で上高地をご紹介しましょう。

1番目の写真は上高地の梓川と河童橋から見た穂高岳です。この河童橋は上高地の中心付近にあります。

2番目の写真は上高地の入り口にある大正池です。奥に見えるのは穂高岳です。この写真の左側には焼岳があります。
学生の頃の1959年に行ったときは立ち枯れの木が林立していましたがその木々も朽ち果てて、ほんの数本が残っている状態になりました。風景も年を取って変わって行くのです。

3番目の写真は田代橋から河童橋の中間にある中の瀬から見た穂高と明神岳です。
明神岳は右の色の暗い山です。真ん中の白いものは岳沢の雪渓です。大正池から上流の河童橋まで来ると岳沢の雪渓も真近かに見えます。

4番目の写真は梓川沿いの見事な黄葉です。2012年の10月29日に撮った写真です。

5番目の写真は庭から見上げた上高地帝国ホテルです。
上高地に行く度に寄るホテルです。スイスの山岳地のホテルのように丈夫な石組みの上にがっしりした木造で出来ています。
上高地は神々しい別世界です。険しい山々をバスで根気よく登り、最後の長いトンネルを抜けると、いきなり眼前に穂高の連峰が広がり、梓川と大正池が夢幻のような盆地を作っているのです。
昔は神垣内と書いたり、神河内と呼んでいたそうですが、とにかく神々しい景観なのです。日本のどこにでもある谷川の風景とは全く違う神秘的で、そしてロマンチックな景観なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「長野県に棲んでいた象とナウマン博士」

2024年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム
ハインリッヒ・エドモンド・ナウマン博士は1875年、明治8年から10年間も日本人を指導した地質学者です。
彼は全国の現地調査をして日本の地質地図を始めて作り、日本人へ地質学の重要性を教えてくれたのです。
そして地質調査の結果、日本には昔、象が棲んでいたことを発見しました。そして糸魚川から静岡にいたるフォッサマグマを発見し、その東西では地質が異なることを指摘したのです。
ナウマン博士が日本に象が棲んでいたことを発見したのです。このアジア象はナウマン象と呼ばれています。
私は日本に象が棲んでいたことに衝撃を受けました。
そこで今日は日本に棲んでいたナウマン象の話を致したいと思います。
さて日本で縄文時代が始まったのは12000年前です。その以前は無土器の旧石器時代でした。
その旧石器時代は約40000年前から12000年前までの28000年間も続く長い期間でした。
その時代の日本には象が棲んでいて、約20000年前に絶滅しました。
絶滅するまでの2万年間は人々が集団で象を狩り、食料にしていたのです。
人間が象を狩りして食べていた証拠は、象の解体途中の骨の間から石器の刃物が多数見つかっていることです。
このナウマン象の化石が多数発見されたのが長野県の黒姫山の麓にある野尻湖です。

1番目の写真は長野県の黒姫山の麓にある野尻湖です。黒姫山は左の山です。
写真の出典はhttps://tenki.jp/kouyou/3/23/35152.html、 です。
この野尻湖で長年、ナウマン象の化石の発掘調査が続行されてきました。
その発掘調査で発見された象の化石などは野尻湖の湖畔にある「野尻湖ナウマン象博物館」で展示してあります。
私も野尻湖畔に一泊して丁寧に見て来ました。
野尻湖は毎年春先に水が減少し湖底が現れ、ナウマンゾウの化石が多数出てくることで有名です。毎年、この化石の発掘が行われていたのです。
野尻湖ナウマン象博物館の展示は良く出来てい明快です。検索するとこの博物館の詳細が出ています。
ナウマンゾウの解体現場に残った骨と共に、解体に使った石器が多数発掘され、それらもこの博物館に展示されています。
旧石器時代の人が作った石器は日本各地から多数出土します。しかし何を食べて、どのような生活をしていたかという問題を明快に示してくれるのは珍しいことです。
写真にこの博物館を訪問した時に撮ったナウマンゾウの写真を示します。

2番目の写真は野尻湖ナウマンゾウ博物館の外にあるナウマン象です。

3番目の写真は室内に展示してある実物大のナウマン象です。一緒に写っている見物客と比較すると象の巨大さが分かります。
さて、ナウマンゾウの化石は全国から発掘され、数十万年前から北海道から九州、沖縄まで繁栄していたことが分かっています。
そして2万年前以後の新し地層からは発見されません。ですから二万年前に絶滅したと言われています。
この種類の象の化石は北海道や静岡県で多く出ています。野尻湖の象は4万年前から2万年前の地層から出ますが、これは日本に棲んで居た象のうちで一番新しい象の化石です。
関東地方にも当然棲んでいたと思いますが、化石が出ません。強い酸性の関東ローム層の土が動植物を溶かしてしまうので化石の出にくい土地なのです。
ナウマン博士の功績は古代象の発見だけではありません。最大の功績は日本人へ地質学を教え、その考古学や鉱山開発などでの重要性を説明してくれたことです。

4番目の写真がナウマン博士です。
彼は伊能忠敬の労作の日本全図に従って全国を歩き回り、日本の地質図を始めて作った学者です。そしてフォッサマグナなどを発見し、日本の地質学を始めた人です。
茨城県つくば市にある産業総合技術研究所の地質標本博物館はナウマンが設立に尽力した地質調査所が、その後発展した博物館なのです。
地質学を勉強すると自然に化石のことが分かるのです。動物の骨が石に変化し土壌に埋まれば化石になります。
土質によっては化石にならない土壌もあります。ですから化石の出やすいところは限られるのです。

5番目の写真は数年前に、つくば市にある地質標本館で私が撮って来た写真です。
この展示物に感動して何度も訪問しました。
良くご覧下さい。黒っぽい岩石の層が左上へ向かって90度折れ曲がっているのです。三陸海岸から持ってきた巨大な岩石標本です。
長い年月の間に地球の内部の動きによって表面の固い岩石も曲がってしまうのです。岩石がアメのようにグニャリと曲がったのではありません。
岩石は弾力性の無い硬い結晶から出来ています。従って曲る場合には結晶と結晶の間の粒界に微細な割れ目(マイクロ・クラック)が多数出来て、次第に岩全体が曲がって行くのです。
岩が曲がる、島が海面から出て、移動する。大陸が離合集散する。壮大な自然現象を解明するためにも微細な結晶の研究が重要なのです。学問研究の醍醐味ですね。
ちょっと話題が本題からそれましたの止めます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「旧石器時代の遺跡がある長野県」

2024年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム
長野県域では旧石器時代の遺跡がいくつか発掘調査されています。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C からの抜粋です。
・・・野尻湖遺跡群(立ヶ鼻遺跡)から人類が活躍していたことを示す槍状木器・骨器・剥片石器などの遺物が発見されている。この遺跡はナウマンゾウやオオツノシカなどの大型哺乳動物を解体したキルサイトと推定されている。
時期は約2万5000年前から3万年前のものである。全国で発見されている斧形石器の約4分の1にあたる239点を出土し、刃の部分を砥石で研磨したものが多く、世界でももっとも古い磨製石器と言われている。
そのほか、この時代の遺跡としては仲町(信濃町)・日向林B(信濃町)・石子原(飯田市)遺跡が発見されている。
2000年代の前半に竹佐中原(たけさなかはら)遺跡(飯田市)が発掘・調査されている。
この遺跡の石器集中地点4か所から石器を含む800点あまりの旧石器時代の遺物が出土した。
この石器包含層の自然科学分析(火山灰分析、植物珪酸体分析、炭素14年代測定、光ルミネッセンス年代測定など)が行われ「3万年より古く5万年より新しい」という結果が出た。
今までは、日本列島に人々が居住し始めたのは後期旧石器時代の約3万年前以降であると考えられていたが、この遺跡の発掘調査で中期旧石器時代の終わりごろ(3万年前から5万年前)には長野県に人々が生活を始めていたことが証明された。
2万年前以降では剥片石器を特徴とする石器群が県内各地から発見されるようになる。後期旧石器時代が終わるころには日本で最初の細石刃が矢出川遺跡(南牧村)で見つかっている。

有史以前、県内には縄文時代の遺跡が多数分布し、この時代の中心地のひとつであった。茅野市で発掘された土偶は2体が国宝とされている。また小県郡長和町の和田峠は日本における黒曜石の代表的な産地であり、諏訪郡原村の阿久遺跡は最古級の環状集石とされている。
続く弥生文化は、まず東海地方から長野県南西部へと伝わり、その後、日本海側の北陸地方から北部へと伝わったと考えられている。この2ルートでの波及が原因かは不明であるが、中野市の柳沢遺跡からは、東日本では唯一となる一緒に埋納された銅鐸と銅戈が出土している(銅鐸と銅戈が一緒に出土したのは日本全国でも数例しかなく、また大阪湾型と九州型の銅戈が混在していることもきわめて稀なケース)。・・・

以上、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C からの抜粋でした。
添付の写真はJr長野駅の駅前の風景です。

「安曇野、大町、仁科3湖、松本城をめぐる旅」

2024年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム
私どもは何度も信州への旅をしました。安曇野を中心にして碌山美術館、大王山葵園、大町山岳博物館、仁科3湖、白馬村などを丁寧にめぐりました。大町温泉の黒部ビューホテルに泊まりました。
帰りに松本城に寄り、さらに八ヶ岳の清里の清泉寮の広い牧場の前で車を停め、富士山や甲斐駒岳の遠景をしばし眺めて帰ってきました。走行650Kmの家内と2人だけののんびりした旅でした。
旅の間、この地方の歴史や30歳で夭折した彫刻家の碌山のことや明治時代のことをいろいろと考えました。
今日は以前の旅で撮った風景写真をお送りします。
1番目の写真は大町山岳博物館の前から撮った大町市と北アルプスの山並みです。数多くの登山家達が大町から穂高、槍、大天井、燕岳、そして白馬、唐松、五竜、立山へと登ったのです。そして何人もの若者が帰らぬ人になったのです。

2番目の写真は明治12年生まれ明治42年に血を吐いて夭折した天才彫刻家、碌山の作品を数十点展示してある碌山美術館です。
3番目の写真は仁科3湖の一つの木崎湖です。この上の北方に中綱湖と青木湖があります。
4番目の写真は大王山葵園の傍にある黒沢監督の『夢』の撮影に使用された水車と北アルプスからの雪解け水の清流の風景です。
このように旅をすると信州独特の風景や文化に魅了されます。信州は山国と言いますが広い盆地があり水が豊富で稲作地帯が広がっているのです。長野市を中心にした盆地、松本盆地、天竜川沿いの伊那谷の稲作地帯と文化もそれぞれ違うのです。
今回は松本盆地とその西に広がる安曇野から大町、仁科3湖、そして白馬村の範囲だけを巡りました。
大町温泉の雑木林と八ヶ岳高原ルート沿いの雑木林にハル蝉が美しい夢幻のような声でしきりに鳴いていました。カナカナ蝉の鳴き声の音程を低くした神秘的な声です。あの世の美しい鳴き声の感じがします。
今更ですが、この日本の自然の豊かさに感動して帰ってきました。
そして撮って来た松本城の写真をお送り致します。

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5番目の写真は松本城です。
さて戦国時代に築城され国宝としてされている城は、姫路城、彦根城、犬山城、松江城、そしてこの松本城の5つだけです。
松本城は1504年に作られました。松本平の信濃府中(井川)に居をかまえていた、信濃守護家、小笠原氏が松本城を築城しました。当時は深志城と呼ばれていました。
その後、武田信玄の攻略に会い、武田家の越後、上杉謙信との抗争の拠点の一つとなる。豊臣秀吉の全国統一とともに秀吉一派の居城となり、大阪冬の陣以後の江戸時代は、徳川家のものとなり松本藩として松平家や水野家が城主になった。
松本城は、北アルプスの連山、塩尻峠、美ケ原高原などに囲まれた広大な盆地の中心にある。遠方に住んでいる人々からも天主閣が見えた。特に明治維新以後、松本平に住んでいた人々の努力で保存されてきた歴史には深い感概をおぼえる。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)