後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「福島県の魅力、会津若松の鶴ケ城と白虎隊」

2024年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム
猪苗代湖は35年位前に大学時代の友人の大きなヨットで花春カップレース3回参加した思い出があります。そして会津の鶴ケ城やその城下町は何度も家内と行った楽しい曾遊の地です。
戦国時代に会津城主になったのは秀吉の家臣の蒲生氏郷でした。氏郷は茶人でした。
それで会津城の天守閣の下に千利休の子、少庵が建てたと言われる茶室、 麟閣があるのです。福島県指定重要文化財になっています。
以前にその茶室で家内と抹茶を楽しみました。
そして飯盛山の麓には御薬園があり、そこにも風雅な茶室があるのです。そこでも優雅な年配のご婦人の点前で抹茶を楽しみました。
会津若松城は維新戦争で落城し、少年だった白虎隊17人が飯盛山で自刃した悲しい歴史があります。
大政奉還が行われた際、当時会津藩を治めていた会津松平家の第14代当主、松平保久が維新軍へ対して激しく抵抗したために起きた悲劇です。

猪苗代湖、鶴ケ城、茶室麟閣、御薬園、白虎隊の墓の写真を示しますのでお楽しみ下さい。

1番目の写真は猪苗代湖の写真です。出典は、http://www.yae-mottoshiritai.jp/seishin/inawashiroko.html です。

2番目の写真は会津城の天守閣の写真です。写真の出典は、http://tsurukan.com/diary/2011/04/post-166.html です。

3番目の写真は茶室、麟閣の写真です。出典は、https://kojodan.jp/castle/23/photo/9639.html です。

4番目の写真は御薬園の写真です。出典は、https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g780850-d1383988-i227481625-Oyakuen-Aizuwakamatsu_Fukushima_Prefecture_Tohoku.html です。
5番目の写真は白虎隊17士の墓の写真です。出典は、https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g780850-d5970066-i261998837-Byakkotai_s_Tomb-Aizuwakamatsu_Fukushima_Prefecture_Tohoku.html です。

それにしても会津若松市の傍には磐梯山もありますし、美しい保原湖もあります。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==================
会津城の歴史:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%9D%BE%E5%9F%8E

中世の館、城郭
1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。諸説あるが、おそくとも15世紀半ばまでには黒川城(くろかわじょう)、(または小高木城)とその城下が成立していた。以後、代々蘆名氏の城であった。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。
1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。

近世の城郭
代わって黒川城に入ったのは蒲生 氏郷(がもう うじさと)で、1592年(文禄元年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。
1593年(文禄2年)、望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土している。
1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。

「福島県の魅力、イギリスの中世を再現したブリティッシュヒルズ」

2024年08月06日 | 写真

福島の山の中にあるブリティッシュヒルズの写真をお送り致します。
建築様式からインテリアまでこだわり抜いた「本物」です。
その理念の元、建築資材は全てを英国から取り寄せ建築様式からインテリアに至るまで時代考証に基づいて作りました。
海抜1,000メートルの森の中にあるブリティッシュヒルズ。7万3,000坪の広大な敷地内は外界から遮断された非日常空間です。夏は涼しく、冬は白銀の世界です。朝・晩に出る霧も、英国の雰囲気を演出します。
詳しくは、https://www.british-hills.co.jp/ をご覧下さい。


「福島県の魅力、美しき猪苗代湖での帆走の思い出」

2024年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム
長生きしていると友人が次々に旅立って行きます。亡くなった友人のことをよく思い出します。
今日は美しき猪苗代湖での帆走の思い出と星野君の思い出を書きたいと思います。
青く澄んだ広大な猪苗代湖にも毎年、白鳥が北国のシベリアから渡って来ます。
ある年に白鳥が青い湖に遊んでいる光景を見ました。その向こうに雪の磐梯山が輝いていました。そんな思い出の風景の猪苗代湖と白鳥の写真をお送り致します。
1番目の写真は猪苗代湖と白鳥の写真です。(写真の出典は、http://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=01674000752&GroupCD=0&no= です。)
この猪苗代湖では何度もヨットでセイリングしたものです。今は亡き星野君と一緒にセイリングしました。星野清一郎君の家は福島にあったのです。
2番目の写真は夏の猪苗代湖をセイリングいているヨットの写真です。(写真の出典は、http://pub.ne.jp/miyasan/?monthly_id=200809 です。)
友人の星野君は2011年9月に病死してしまいました。
彼はヤマハ29センター・コックピットのヨットを猪苗代湖に係留していました。
3番目の写真は星野君がヤマハ29のヨットを係留していた湖岸の風景です。
(写真の出典は、http://ameblo.jp/normanhiga/entry-11034780813.html です。)
4番目の写真は霞ヶ浦で私が独りでヒールしながら帆走している光景です。妻が岸壁から撮りました。 さて今は亡き星野君を懐かしい思い出です。  
星野君とは、仙台の大学の専門課程の1957 年と1958年に机を並べました。
卒業と同時に彼は父が経営する精密鋳物会社の仕事をするために福島市へ行ってしまいます。
それから15年間くらいはお互いに多忙で会うこともありませんでした。ところがある時の同級会の折、彼がヨットの話をしていました。猪苗代湖で大きなキャビンのクルーザーでセイリングしていたのです。
そして花春カップというクルーザーレースへ3回ほど私を招待してくれたのです。花春カップとは猪苗代湖のそばの大きな酒造会社、花春が主宰するレースなのです。花春は現在でも酒造をしていますが、ヨットレースはやめてしまったようです。
彼のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。船体の真ん中の甲板に操縦席があります。その後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、炊事場がついています。
船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が風波を立てている様子が眺められたのです。
レースでは、彼のヨットは遅い船なので、いつも終りの方を走ります。前の方を列を作って競い合いながらセイリングしている他のヨットの夢幻的な光景を見ながら悠々と走ります。
遅れてゴールしても、船体ごとにハンディキャップがついているのでレース結果は何時も2位か3位でした。
残雪の磐梯山を眺めながらの花春カップは終生忘れられない思い出になりました。
花春カップの後は福島の彼の家に寄り、奥様や息子さん達と一緒に夕食をご馳走になったこともあります。
それから又何年かが過ぎ去りました。今度は私が霞ヶ浦にクルーザーを係留していました。以前、猪苗代湖でお世話になったことを思い出して彼を招待しました。一緒に仙台の大学時代の同級生も招待しました。7人が集まりました。
彼は福島から大きな荷物を背負ってやって来ました。
かなり激しいセイリングの後のパーティの時、彼がその大荷物を解き始めました。中から出てきたのはよく冷えた高級なシャンパン3本でした。男ばかり7人のキャビンの中が途端に華やかになったものです。
こんなセイリングの会を4回ほどしました。何時も熱心な彼は福島からシャンパンを担いでやって来るのです。その星野君は亡くなってしまったのです。
私のヨットには彼が預けていた白いデッキシューズだけが残りました。
ヨットの係留していた霞ヶ浦にも毎年、白鳥の飛来しました。
 
彼の住む彼方の国の湖にも、白い鳥が舞っているでしょうか?
老境にいたるといろいろと亡くなった友人のことを思い出します。今日も静かに時が流れて行くのです。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)